第8話 幻想

翌朝、目が覚めるとすでにアリスは、食事の用意をしてリビングで待っていた。


 僕が席に付くと、うれしそうにニコニコと向かいの席に座って僕の食事する様子を見ている。


 いつもの風景だが、もう僕にはその“当たり前”が耐えられなくなっていた。


「ねぇ、どうして一緒に食事をとらないの?アリスと一緒に食事をしたことないよね。」

「え?私、早くに起きて食べちゃったから。」


「いつもそうだよね。アリスは『食べちゃった』っていうけど、台所を見ても食べた跡とか見たことないんだけど。」


 僕は、自分が馬鹿な質問をして、アリスを責めていることを自覚していた。


 昨日の真由美の死という出来事に、まだ混乱していた僕は、アリスに再び嫌な思いをさせる質問であることは重々わかっていたが、言わずにいられなかった。


 昨日の出来事から、この生活の異常さに僕自身も気づき始めていた。


 いや、そんなことは初めからわかっている。

 異常な生活であることをわかっていて、その異常な空間が自分の居場所であることを認めていたし、そこしか居場所はないと思っていた。


 でも、真由美の死という現実が、その異常さに浸っている状態を『このままではいけない』という気持ちに変えていった。


「どうして?どうしてそんなこというの?」

 アリスはまた半泣きになりながら、僕を睨みつけて訴えた。


「だって、本当にアリスのことを思ってるから、一緒に食事もしたいし、お風呂にもちゃんと裸で入りたいし、それに・・・。」

「・・・・。」


「えっちだってちゃんとしたいよ。」

「・・・・。」


「でも、アリスはいつも僕をはぐらかして、自分だけのペースでことを運んで、僕に尽くしてくれているようでその実、何も僕を満足させてくれていない。」

「ひどい。なにも満足してくれていなかったんだ。作ったものをおいしいって、言ってくれたのも嘘だったんだ。」


「ちがう!嘘じゃない。作ってくれたものは美味しいし、風呂でマッサージしてくれたのも気持ちがいいし、えっちしている気分だって味わっている。でも、何か違うんだ。そこに実感がない。本当に生きている人間としての実感がないんだよ。」

「生きている実感?」


「そう、アリスに触れていても、本当は、この手に触れていないんじゃないかって。そこにアリスはいるけど、本当は幻想なんじゃないかって。」

「ゲンソウ・・・。」


 僕は、アリスとの生活の矛盾を、ついにぶつけてしまった。


「そう、本当はこんな薄暗いところにいるんじゃなくて、一緒に表にも行きたい。外の世界でアリスと暮らしたい。」

「ソトノ・・・セカイ。」


「アリス!僕と、僕とここを抜け出して一緒に暮らそう!」

「クラス・・・。」


「そうだ!こんな光も届かない薄暗い空間ではなく、一緒に外の世界で暮らそうと言ってるんだ。」

「ソトノセカイ・・・クラス。」


「そう、二人でここを抜け出して幸せになろう!外へ出てもっと幸せになろうよ。ずっとこんな薄暗い部屋の中ではなく、太陽の光の下で遊んだりしたいんだよ。」

「シ・ア・ワ・セ?」


「そう、君だってまだ12歳の女の子なんだ。遊園地とか行きたくないのか?」

「ユウ・・・エンチ、ワカラナイ・・・。」


「とにかく君を助けたいんだ。普通の生活をさせてあげたいんだよ。普通の女の子の生活を。君だってここへ来る前は普通の生活をしていただろう?学校へ行ったり、友達と遊んだり。」

「ガッコウ?トモ・・・ダチ?ワカラナイ・・・。」


「どうして?君のことを愛しているんだ・・・。」

「アイシテル・・・ワタシモ、アイシテル、シュンチャンヲ・・・アイシテル。」


「なら、ここを出て一緒に暮らそう。外の世界で一緒にくら・・・。」


 その言葉を遮るようにアリスは伏せていた顔を上げて意思のない瞳で僕の顔を見据えてつぶやいた。


 

「ゴメンナサイ。アナタノ“シフク”ハ、ココデオシマイ。」


 

 その瞬間、薄暗かった部屋の隅々から、まばゆい光があふれ出し、壁の小さな穴からも光が差し込み、部屋中が真っ白に輝いた。

 そして、アリスがその光に吸い込まれるように消えていく。


「アリス!」


 すでに光に遮られて全く目も見えなくなった。


 そして、つんざくような高周波が、僕の聴力も奪った。


 何もかもが、白い世界の中に、引き込まれていった。


 


 


 気がつくと、そこは真昼間の、繁華街のゴミ捨て場に倒れていた。


 道行く人々が、さげすむような目で僕を見ている。


 子どもが指差して何か言っているが、傍にいる母親が、慌てて子どもの手を引いて連れて行った。


 しばらく昼間の光に目が慣れなかったが、いつまでも座り込んでいるわけにも行かないので立ち上がり、ふらふらと歩き出した。

 なんだか足に力が入らない。


 街の看板に設置してある時計は、12時を少し過ぎたところだ。

 家に帰ろうかとも思ったが、やはり会社を無断欠勤するわけにはいかないと思い、そのまま会社に向った。


 一応上司には朝、取引先に直行して戻ったことにすればいいだろう。


 


 会社の前についた。


「おはようございます。」


 警備の男にいつものように挨拶をしたが、考えてみればもう昼だ。


 そのせいか警備員は、しかめ面をしたままこちらを一瞥いちべつした。


「愛想がないな。ちょっと挨拶を間違えたくらいで、あんな目で睨むことはないだろう。」


 警備員の態度に腹を立てながら、オフィスのある五階に上がるためエレベータを待った。


 エレベータが到着し扉が開いた。


 どこかのオフィスの女子社員が乗っていたが、僕を見た瞬間、目を見開いて後ずさった。


 そして、僕を避けるように降りると駆け足で玄関に向った。


 エレベータに乗った僕は自分の身の回りを見回した。

 ゴミ捨て場に倒れていたため、服が汚れているとか、匂いがするとか、何か目立つことがあるのかと思ったが、特に服装に変わりはなかった。


 オフィスの五階に着き、事務所の扉を開けた。


「ただ今帰りました。」


 数人がこちらを見ていたが誰一人返事を返す者はいなかった。


 それどころか、女子社員は立ち上がり、中にはオフィスの奥へ逃げる者もいた。


 よく見てみると、知ってる顔が誰一人いない。


 そう思っていると、一人の大柄な男が近づいてきた。


「ちょっとあんた。何の用だね。ここはあんたのような人に用はないんだがね。とにかくここを出て行ってくれ。」

「なんだその態度は、俺はここの社員だ。忘れたのか!」


 震える声でそういうと男は笑い出した。


「社員?いつの話だ。あんたボケてんだ。とにかく早く出て行かないと警備員を呼ぶぞ!」

「いつ?なに言ってんだおまえは!」


 そういい終わらないうちに、その大柄な男に腕をつかまれ入り口の先に放り出された。


 しりもちをついている僕を一瞥して男はオフィスに戻っていった。


 

 いったいどうしたというんだ?

 今のは誰だ?


 あんなやつは社内にいないはずだ。

 思わずオフィスの看板を見た。


 確かに僕が勤めている会社名の看板がかかっている。

 まさか、一夜にして買収されて社員が入れ替わったとか?


 そういう話はイマドキ珍しくはないが、いくらなんでも昨日まで勤めていた会社が、そんなに急に変わることはないだろう。


 弱々しく立ち上がった僕は、あまりの周りの変化に、少し気を落ち着かせようとトイレに向った。


 確かにトイレの位置も今までと変わっていない。

 ここは僕の会社だ。


 用を済まして、手洗い場に立ち、フッと鏡を見た。


 もう一度洗い場に目を移した瞬間、今、鏡で見た自分の顔が、脳裏を反芻はんすうした。


「え?」


 そして、恐る恐る、もう一度、鏡を見た。


「なっ・・・。」


 そのまま、言葉を発せなくなった。


 その鏡に映っていたのは、髪の毛が抜け落ち、わずかな白髪がぼさぼさに残って、まるで落ち武者のような髪型。


 今までの、僕の面影は全くなく、醜いしわだらけで、ところどころシミのある顔。


 口の周りにも皺が無数にあり、歯はボロボロに欠けていた。


「なんだ。ダレだ、これは?」


 いったい、何が起きたというんだ。

 そこに映っているのは、明らかに八十歳の老人だった。


 一夜にして、歳を数十年も経てしまったというのか。

 僕が「有巣倶楽部」で過ごしたのは、ほんの十数日で、その間も何も変わらなかったのに・・・。


 まるで浦島太郎のように、一夜にして、数十年を竜宮城で過ごしてしまったというのか、これが、一瞬の至福の代償なのか・・・。


 身体の力が急に抜けて、その場で座り込んでしまった僕は、少しずつ目の前が暗くなっていくのを感じた。


『これでよかったのか、僕の人生はこれで・・・。』

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