第1話 意味のない人生

 

 梅雨つゆ時のいやにジメジメした日だった。


 いつものように、仕事先への道のりを歩いていた。


 再び独ひとり暮らしを始めて、もう五年になる。

 そして、この道のりを通うのも五年。


 仕事先へは、徒歩で通っている。

 そう、“独り”になることが決まってから、職場へは歩いて通えるところを探した。


 もう、満員電車に揺られてニ時間も通うのは、馬鹿らしくなっていたからだ。


 そもそも、働くことへの意欲もない。

 何のために、働いているのか?


 ただ、生きるために食わねばならないから、そのための金を稼ぐ手段として、働いているだけだ。

 少し大げさに言えば、すでに僕は「生けるしかばね」だった。


 そう、五年前のあの日、僕の存在は無意味になったからだ。



 


「もう、やめましょう。これ以上は何を話しても無駄。お願いだから別れてください。」

「なんで?何がいけない?おまえたちのために、ずっとこの十年間働いて、食わせてきただろう。

 往復四時間もかけて通勤をして、残業をして、寄り道もせずにまっすぐ家に帰って、それでも午前様ごぜんさま

 でも、おまえの話し相手になることは忘れずに、毎日無理をしてでも二人の時間を作ったじゃないか。」


 

「なに、それ。あたしへ恩着せがましく言うのはよして。あたしだって、ずっと毎日毎日あなたが遅くまで働いてくれているから、

 家で一生懸命子どもたちの世話をして、あなたのために食事を作って、独りじゃ寂しいだろうから、遅くまで起きて、

 あなたより早く起きて。そういう苦労を言うならお互い様じゃない。」

「だからこそ、おまえのことを思って、外で一生懸命してきたんじゃないか。確かにおまえが寂しかったことはわかっている。

 夜の生活がなくなったのも事実だ。でも、おまえへの愛情が冷めたわけじゃない。おまえや子どもたちのことを思うからこそ、身を粉にしてでも働けたんだ。」


 

「そんなこと。理屈ではわかっている。でも、あたしの心は満たされなかった。確かに話は聞いてくれた。

 でも、あたしが求めても・・・女から求めるなんて本当に恥ずかしいのに・・・でも、あなたは拒絶した。

 浮気を疑ったことだってある。でも、あなたはちゃんと働いてくれていた。悪いと思ったけど、調べさせてもらった。

 あなたの言うとおり真面目に働いて家にまっすぐ帰ってきてくれていた。」

「それがわかっていて、どうして別れなきゃならないんだ。セックスがそんなに大事か?」


 

「大事よ。あたしだって・・・女だって満たされたい時はあるのよ。わかるでしょ。それにあたしは、あなたより7つも年下なのよ。

 三十を過ぎたとはいっても、まだまだ女としてみて欲しかったのよ。あなたの見方は妻として、そして、子どもたちの母親としてしか見てくれてなかった。女のあたしを欲することはなくなってしまった。」

「そんなことはない。だからこそ、おまえと二人だけの時間は作ったじゃないか。一緒に風呂に入ったり、

 たまには実家に子どもたちを預けて出かけたり。女としてのおまえを思うからこそ、二人だけの時間を作っていたんじゃないか。

 セックスが出来ないのは、ただ、俺が肉体的に疲れきってるだけだよ。それは、何度も言ったはずだ。」


 

「じゃあ、どうして?どうしてエッチな写真とかビデオとかは、あたしに隠れてこっそり見るの?知っているのよ。

 あなたが箪笥たんすの中にエッチな本とか漫画とか隠してるの。それにパソコンにだって一杯エッチな写真とか貯めてるの。

 確かに浮気はしていないけど、こんなことをされるなら浮気の方がまだまし。

だって、実体のない写真やビデオにあたしは、女として負けているのよ。

 そうでしょ。そういうことでしょ。」

「ばかなこというな。おまえは男の生理をわかっていない。別に浮気とか、その写真やビデオの女を、好きになってるわけじゃない。

 ただ、欲求を満たすはけ口として、手っ取り早いから、見てるだけだ。」


 

「見て、自分でしてるんでしょ。だったら、あたしの身体を使ってよ。別に欲望のはけ口でもいいわ。あたしを使ってよ。」

「そういうんじゃないんだ。うまく説明できないけど、男には確かに他の女に対する欲望はある。浮気願望だってある。

 風俗に行く奴だって大勢いる。でも、妻を持つ者なら妻への罪悪感だってある。だから、そうならないために誰にも迷惑をかけない方法で、

 つまり、写真とかビデオとかで済ますんだよ。セックスをするなら、愛情を伴いたいだろう?

 そのためには、ゆっくり時間をかけておまえにも満足して欲しいじゃないか。そのためには体力がいるんだよ。愛情を注ぎたいから、力がいるんだ。

 でも、今はその力が出ないんだよ。」


 

「それって、やっぱりあたしに、女としての魅力がないってことでしょう。」

「そうじゃない。」


 

「いえ、そうよ。結局は、あたしは、エッチな写真やビデオにも劣るってことよ。」

「ちがう!」


 

「なによ。怒鳴らないで!子どもたちが起きるじゃない!」

「おまえの言ってることは間違ってる。俺は別れないぞ。そんな理由で別れるなんて変だろ。おかしいだろ。よく考えろ!」


 

「いいえ、もう、無理よ。それに知ってるでしょ。あたしには今付き合ってる人がいるの。もう、知らない振りしなくていいわよ。

 その人はちゃんとあたしを身体でも心でも満足させてくれる。あたしはその人と結婚するつもりよ。」

「よせ!やめろ!そんなのは一時の気まぐれだ。もし、結婚したってうまくいきっこない。待っているのは同じ結末だぞ。

 男なんてそんなもんだ。いつまでも、おまえの身体を満足させることなんて続きやしない。」


 

「とにかく、あたしから別れるのだから慰謝料はいいわ。その代わり子どもたちはあたしが連れて行きます。

 彼もそれは承諾してくれている。それに、今ある財産は、きちんと二分の一に按分あんぶんしてもらうわ。

 保険とかもすべて解約して現金にしてね。それと、子どもたちへの養育費はお願いします。

 別れても父親であることは変わりないのだから、愛情があるなら、それをきちんと示して欲しいわ。」

「恭子?本気か?おかしいと思わないのか?こんなこと。セックスをしなかったからだけで、別れるなんて出来ると思うのか?

 結婚はそんなに簡単なものじゃないだろう。」


 

「簡単なものよ。紙切れ一枚でしょ。それに離婚だって簡単。紙切れ一枚に判を押せば済むことよ。」

「恭子、おまえ、いつからそんな冷たいことを、平気で言える女になったんだ?一緒に暮らしたこの十年もの積み重ねはなんだったんだ?」


 

「もう、話はいいわ。これ以上二人とも苦しむのはやめにしましょう。とにかくあたしの気持ちは変わらないから。」


 


 

 こうして、離婚が成立した。


 もちろん、その後も話し合い。

 と、いっても具体的な離婚についての「協議」だが、結局は妻の言われるままに事は運んだ。


 本当は裁判に持ち込むことも出来た。

 昔大学では法律を学んでいたから多少の知識はあったので、判例等もみて勝てる裁判ではあった。


 場合によっては、逆に相手の男を訴えて慰謝料を取ることだってできた。


 でも、何もしなかった。


 それは、第一には子どもたちへの影響を考えたからだ。

 仲の良かった父親と母親が、裁判などでドロドロした争いをしたら、子どもたちに残る心理的影響を考えると、とてもそんな気にはなれなかった。


 もう一つの理由は、正直なところ気力が失せた。

 もう、妻の心は俺の元にはないと悟った時、もし、このまま夫婦として生活を共にしても修復することは不可能であろうと思った。


 一度離れてしまった心を再び取り戻すことは、相当な力が必要だ。


 離婚成立までの半年間に、九キロも痩せた。

 世間ではイマドキ離婚をすることなんてそれほど驚くことではない、という認識があるが、やはり、結婚する時の数十倍の労力がいる。


 紙切れ一枚に判を押して済むことではないことを、実際に体験してみてわかった。


 

 それから五年、妻は再婚相手と再び別れたらしい。

 やはり、僕が忠告した通りになった。


 愛情なんて、燃え上れば燃え上がるほど、冷めたときにはその崩壊の速度は速い。 

 本当の愛情は、時間をかけてゆっくり育てるものだと妻の離婚のことを聞いて教えられた。


 その話は子どもたちに聞いた。


 子どもとは一年に二度ほどだが、会えることになっている。

 その子どもたちへの養育費を払う対価として、面接ができるようにしたからだ。


 しかし、子どもたちと会うのは嬉しい反面辛さも伴う。

 決して子どもたち自身は幸せではないだろうし、会えばまた別れの時間が来るのだからその都度、子どもたちは泣いていた。


 それを見るのは辛かった。

 もう、今は二人とも中学生になって泣くことはなくなったが、未だに別れ際は寂しそうな顔をする。


 もっとも、良いこともあった。

 年に二度しかない貴重な時間だから色々な話を親子でする。


 おそらく普通に家庭生活をしていたら、二人とも思春期真っ只中なのだから、反抗期に入り、口もきかないはずだ。

 でも、離れているおかげで、逆に子どもたちの方から色々な話をしてくれる。


 親子関係としてはかえって良いのかもしれない。


 

 しかし、本当にこの生活がずっとこのまま続くのかと思うと、死にたくなる時もある。


 実際に二度ほど自殺も試みた。


 でも、死ぬための行動を起こす間際になって、怖くなってやめた。


 今の僕には「生きている意味」はない。


 でも、死ぬことさえ出来ない。


 だから「生ける屍」なのだ。

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