第3話 ご来店

 翌朝、眠い目を擦りながら出勤した。


「おはようございます。あれ?安藤さん、どうしたんですか?目、真っ赤ですよ。」

「いや、なんか全然眠れなくて、気が付いたら朝でさ。」


「どうしたんですか?何か悩み事?わたしじゃ役には立たないかもしれませんけど、よかったら相談してくださいね。話すだけでも気が晴れると思うし。」

「いや、ありがとう。別に悩みってことはないよ。大丈夫、ただ、眠れなかっただけだから。」


「そうですか・・・ほんと、わたしじゃ頼りないかもしれませんけど、いつでも言ってくださいね。よかったら今度、飲みにでも連れて行ってください。」

「え?あぁ、ありがとう。俺、酒だめなんだよね。知ってるでしょ。すぐ酔っちゃうから。」


「あはは、そうでしたね。大丈夫ですよ。飲ませたりしませんから。それに酔ったら介抱してあげますから。私のほうがお酒強いですもんね。」

「あぁ、そうだね。うん、考えておくよ。ありがとう。」


「はい、今日も一日頑張りましょう!」


 声をかけてくれたのは同僚の木村真由美、入社して二年目の年は、まだ、23歳だ。

 小柄で見た目はけっこうかわいいが、未だに中学生に間違えられると、本人はぼやいている。


 今までも、何度か飲み会の席で、俺のそばで話をしたことがある。

 考えてみれば、そういう席ではいつも俺の傍にいたような気がする。


 ひょっとして惚れられている?いやいや、こんなバツイチの四十男なんて、好かれるわけはない。

 興味もないのに声をかけられるのは迷惑な話だ。


 

 気持ちを切り替えて仕事に向った。


 俺の仕事は、大学時代の法律の知識を活かして、

 今は、この会社の総務で対外的な法律のことや、社内規定の作成などを任されている。

 簡単に言えば、リスク管理だ。


 といっても離婚のことも響いて出世街道からは完全に外れているので、平社員のままだが。

 仕事はかなり忙しく、午前様になることも珍しくはない。


 特に株主総会や経営会議などの直前は身体が二つも三つも欲しいこともある。

 会社はそれなりに大きいのだが、最近の緊縮きんしゅく財政のためか、ここ二年うちの部署には新しい人員の配置はない。


 つまり、先ほどの木村真由美が一番最後の人員増加だ。


 今日も、めまぐるしく一日が過ぎた。

 いつの間にかオフィスの中には俺だけがいた。


 ようやく最後の仕事を片付けてオフィスを出たのは十一時を回っていた。

 しかし、こんなに遅くなっても相変わらず食欲はわかない。


 でも、なにかしら食べないと体がもたない。

 しかし、この時間では、もう店もしまっているので、仕方なくコンビニに寄って、おにぎりとサラダを買って帰ろうとした。


 その帰り道、昨日、ビラを渡された老人を見つけた。


「おい!あんた。ちょっとそこの帽子を被ったあんただ!」

 そう声をかけて追おうとすると、老人は足早に逃げ出した。


「待て!ちょっと話を聞かせてくれ。おい!」

 しかし、老人は老人とは思えない素早さで逃げていく。


 追いかけても追いかけても、すぐに建物の影に消えて、見つけるとさらに次の建物の影に隠れる。


 まるで、俺が追いかけてくるのを待っているかのように、タイミングを計って見えては隠れ、隠れては見える。


「おい!いいかげんにしろ!」

 そう言って、次の角を曲がると目の前に老人が立っていた。


 ビックリした俺は、腰を抜かすように地べたに尻餅をついてしまった。


「なんだ。あんた!嫌がらせならやめてくれ。そっとしておいてくれ。妻にもそう伝えろ!

 離婚したのは自分の勝手だろう!相手の男に逃げられたのも自分のせいだろう!もう、俺のことはほっといてくれと伝えろ!」


 そう、怒鳴り散らしたが、老人は微動だにしない。


「おい、あんた聞いてるのか?」

 そういって立ち上がると、老人はさらに僕に近寄ってきた。


「お待ちしておりました。安藤様。こちらが当店でございます。」


 そう言われて老人の後ろの看板を見て驚いた。


『有巣倶楽部』


 赤いネオンが煌々こうこうと照っていた。


 俺も、もう五年も住んでいる街なのでたいていの場所は知っていたし、この辺りも土地勘がないわけではない。

 でも、こんな店は初めて見た。


「どうぞ、安藤様。あなた様のお越しを心よりお待ち申し上げておりました。」

「俺を?なんで俺の名前まで知ってるんだ。やっぱり妻の差し金か?」


「いえいえ、あなた様の前妻ぜんさいのことなどさっぱり存じません。私どもは今のあなた様の幸せを願ってお待ちしておりましただけです。」

「何を言ってるんだ。よしてくれ。俺のことは構わないでくれ。」


「おやおや、本当にお疲れのようですね。一刻も早く安藤様に、安らぎと至福の時をお与えしなければなりませんね。

 とにかく、一度この扉を潜くぐれば、私どもの真意がご理解いただけると思います。どうぞ、中へ。」


 本当に俺にはもう構って欲しくなかった。

 どうせ何をしたって幸せなんて感じない。


 ただ、空しいだけだ。

 このままそっとしておいて欲しかったがどうしても老人は譲らなかった。


「とにかく、一度で結構です。もちろん料金等一切いただきませんから。お気に召さなければいつでもご退室いただいて結構です。お引止めはいたしませんから。」

「本当に帰してくれるんだろうな。中へ入ったら怖いお兄さんたちが出てくるなんてことはないだろうな。」


「ホーホホッ、そのようなたぐいの低俗なお店ではございません。選ばれた紳士のみが許される場所ですから。」

「わかった。一度だけ見てやる。」


 あまりの、しつこさに根負けしたのと同時に、これほど言われると少しだけ興味が出てきた。


 それに、どうせ、失うものなどない。

 ヤクザが出てきて殺されようが、この世に未練はないのだから。


「どうぞ、どうぞ。お待ちしておりましたから。」

 ドアを抜けると、そこは細い廊下が続き、右へ左へと枝分かれしていた。


 初老の男は、その迷路のような廊下を迷うことなく進んでいった。

 時間にすれば1、2分ではあったが、相当奥に進んだとき、急に老人が立ち止まった。


「こちらが、あなた様のお部屋でございます。」

「あなた様のお部屋?俺専用の部屋なのか?」


左様さようでございます。どうぞ、お入りください。」

 そういった初老の男はドアを開き僕を招き入れた。


 部屋の中は、薄暗く目が慣れないため様子がよくわからなかった。


「いらっしゃいませ。」

 足元で声がしてビックリして後じさると、そこには、まだ幼い少女が正座をして三つ指をついていた。


「あ、あぁ、君は?」

 そう聞いた僕に、後ろで初老の男が答えた。


「あなた様のアリスでございます。あなた様のお世話をさせていただきます。何なりとお申し付けください。もし、お気に召さなければ代わりのアリスをお届けします。」

 そう説明を受け、もう一度座っている少女を見ると僕を見つめ、にっこりと微笑んだ。


 初老の男がドアを閉めていなくなると、アリスが立ち上がり僕の手を引いて部屋の奥へと招き入れた。


「どうぞ、リラックスなさってくださいね。ここはあなただけのお部屋ですから、誰も来ることはございませんので、安心して過ごしてください。」

 そういいながら、僕を部屋にあるソファに座らせた。


「何かお飲みになります?」

「え?あぁ。じゃあ、水を。」


「はい。お水ですね。少々お待ちください。」

 アリスは立ち上がると奥の部屋へと消えた。


 僕はいま置かれている状況を冷静に考えようと努めた。ここはいったいどこなのだ?あの少女は?

 見た感じ中学生か、もしかすると小学生?まさか、その手のロリコン専門の売春宿なのか?じゃあ、あきらかに犯罪じゃないか。俺はどうすればいい?


 そんなことをぐるぐると頭に浮かべているとアリスが戻ってきた。


「はい、お水です。どうぞ。」

 僕は自分を落ち着かせさせるために、グラスに注がれた水を一気に飲み干した。


「いったい、君は何をやっているんだ。年はいくつなんだ?」

「え?何をって・・・あなた様のお世話をさせていただくんです。年は十二歳です。」


「じゅ、十二歳?小学生か?いったい何をやってるか、わかってるのか?」

「え?ですから、あなた様のお世話を・・・あなた様が満足してここでお過ごしになれるように、お世話をさせていただくのですが。」

 キョトンとした顔でアリスが答える。


「学校は?家の人は知っているのか?まさか家出してるとか?」

「ガッコウ?イエノヒト?えっと、おっしゃる意味がわかりませんが、とにかく落ち着いてください。もう一杯お水をどうぞ。」

 差し出されたグラスを再び受け取り一気に飲み干した。


 二杯目の水で少しだけ落ち着いた。

 そして、頭の中である思いが交錯した。


 考えてみれば生活には何の張りもなく、生きてる意味も見出せない。

 ここで犯罪を犯そうが、誰一人迷惑をかける人間もいないし、悲しむ人間もいない。


 そうだ。


 ここでこの少女と好きなことをやっても誰もとがめるものはいないんだ。

 そういう生活に溺れるのも悪くないかもしれない。


 そう思うと不思議と気持ちが落ち着いた。

 そして、アリスと呼ばれる少女をじっくりと見つめた。


 身長は百五十センチほどだろうか、小柄な感じだが、フワフワとした薄いネグリジェのような服から突き出た足はとても美しく長くスラッと伸びていた。

 同じく肩からすらりと伸びた腕は華奢きゃしゃではあったが、透き通るような白さだった。


 そして、まっすぐに切りそろえられた前髪がそう思わせているのかも知れないが、人形のような顔立ち。

 吸い込まれそうな大きな愛らしい瞳に、スッと整った鼻、控えめに付いている唇は化粧をしているのか、うっすらとピンク色に輝いている。


 美しい。


 改めてみてみると魅力的な少女だ。

 しかし、美しくはあっても十二歳という年齢が俺の理性をかろうじて保たせていた。


「あのぅ。お名前で呼んでもいいですか?あ、嫌なら結構です。ただ、いつまでもあなた様では・・・あなた様もリラックスできないのではないかと思いまして。」

「え?名前、あぁ、いいよ。安藤、安藤俊介だ。」


「俊介様ですね。じゃあ、しゅんちゃんって呼んでいいですか?」

「しゅ、俊ちゃん?」

 ちょっと身体の力が抜けた。


 娘くらいの年齢の少女に「俊ちゃん」と呼ばれるとは思ってもみなかった。


「ダメ・・・ですか?」

 上目遣つかいに懇願してくるアリスが妙に愛おしくなった。


「いいよ。それで。そう呼んでくれていいよ。」

「ほんと!うれしい!俊ちゃん!」

 そういうといきなりアリスは僕に抱きついてきた。


 まだ幼いとはいえ、十二歳の身体は半分大人の色香があった。

 薄手の服から感じられる胸は膨らみ始め、腰にはややくびれもあり、とても柔らかく温かかった。


 そして、ほのかに甘くミルクのような香りがした。


「俊ちゃん。このあとどうする?お風呂に入る?」

 来た!と思った。


 このあと風呂に入り、ついにこの少女を犯してしまうのか。

 しかし、抱きつかれてからは、すでに自分の中の理性を打ち破りそうなのを感じていた。


 こんな風に性欲を感じるのは本当に久しぶりだ。


「あ、あぁ、じゃあ、風呂に入ろうかな。」

「うん、じゃあ、ちょっと待っててね。今お湯加減見てくる。」


 そういうとアリスは嬉しそうに飛び起きると、奥の部屋に小走りにかけていった。


 ふと冷静になって部屋を見回した。

 いったいここはどういう構造の建物なんだ。


 部屋全体は薄暗く、壁一面にワインレッドのベルベットのような素材の壁紙が貼られている。

 ここはいわゆるリビングになると思うが、結構広い。


 物はそれほどないが、ソファとテーブル、大型の液晶テレビにパソコンまで置いてある。

 しかし、窓はなく外の様子は全くわからない。


 そして、それぞれリビングに続いて左側と右側には奥の部屋があるようだ。

 向って右はさっきアリスが水を持ってきてくれたからキッチンでもあるのだろう。


 そして、今アリスが向った左側は風呂等があるのだろうか?では寝室は?

 寝室はあるのだろうか?確か案内には泊まれるようなことも書いてあったが・・・。


「俊ちゃん!お風呂ちょうどいいよ。さぁ、いこうよ。」

 そういうとアリスは、嬉しそうに僕の手を引いて、奥の部屋に導いていった。


 奥は意外と広く廊下のようになっていて、リビングからニメートルほどのところに洗面所と脱衣所、そしてその奥にはかなり広い浴室があった。

 そして、廊下の突き当りにはまだ部屋があるようだ。


「はい、ここにバスタオルおくね。それと下着の替えね。あ、俊ちゃんはトランクスでいいの?」

「え?あぁ、トランクスでいいよ。ブリーフはちょっとね。」


「ふぅん、ま、いいや、じゃあ、先入ってて、あとで背中流してあげるね。」

「あ、あぁ。」


 そういうとアリスは忙しそうにリビングに戻っていった。

 言われたとおり、浴室に入った。


 広々として、うちのマンションの風呂よりかなりいい感じだ。

 浴槽も広く足を伸ばしてゆったりと入れるサイズだ。


 とりあえず頭を洗い、身体を洗っているとアリスが入ってきた。

 入り口に背中を向けていたので、入ってくるところは見なかったが、頭の中は裸のアリスを思い浮かべ、気持ちが高揚するのを感じた。


「お待たせ〜。あん、もう身体洗ってるの?背中流すっていったのにぃ。」

「あはは、ごめんごめん、俺、浴槽に入る前に身体洗うのが習慣なんだ。」


「そうなんだ。俊ちゃんはきれい好きだね。」

 なんだか恥ずかしくてアリスを見ることができなかった。


「でも、背中はまだみたいだね。じゃあ、洗うね。」

 そういうと手を伸ばしてきたアリスはポンプ式のボディシャンプーから、適量を手のひらで受けると、僕の背中にゆっくりと両手で円を描くように洗い始めた。


「俊ちゃんの背中、きれいだね。すべすべする。」

「え?そうかなぁ。きれいっていうのも変だけど、まぁでも年だから肉がついてみにくいでしょ?」


「そんなことない!きれいだよ。それに広いね。男の人ってやっぱこういう背中なんだ。」

 アリスはなんだか感心するように言った。


 アリスの手が心地よい。

 柔らかく、小さな手が僕の背中を、上から下へクルクルと動くとなんだか全身の力が抜けて、とてもリラックスした気分になった。


「はい、じゃあ流すね。シャワー、シャワーっと。」

 アリスが僕の目の前に立ち上がった。


 思わず凝視してしまったが、期待とは裏腹うらはらにアリスはタンクトップにショートパンツという姿だった。

 かなり期待していただけに、すっかり裏切られた気分だった。


「ん?どうしたの?」

 僕の表情を見て、アリスが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。


 しかし、そこには全くの疑いを持たない純粋無垢じゅんすいむくな瞳が僕を見ていた。


「いや、なんでもないよ。流してくれるかい?」

「はーい!お湯加減いいかな?はい、シャーっとね。」


 無邪気に僕の背中を流すアリスは全くの子どもだった。


「はーい、きれいになったよー。湯船に入ってくださーい。よーくあったまってね。」

 まるで子ども扱いだ。


 しかし、そう言われて悪い気分はしなかった。

 むしろ自分も子どもに戻ったような妙な感覚になったが、それがかえって心地よかった。


「どうですか、お湯加減は?」

「あぁ、いいよ。でも、アリスは入らないの?」


 にこにこと湯船につかる僕を見ているアリスに聞いてみた。


「え?いっしょに?やだぁ。俊ちゃんて、えっち!あたしだって女の子なんだから、男の人と一緒にお風呂なんて恥ずかしくて・・・入らないよぅ。」

 なんだかわけがわからなくなった。


 お風呂に入らない?

 では、この後も期待したようなことはないのか?


 では、いったいここはどういうところなんだ?

 風俗ではないのか?


 そんなことを考えている僕を尻目にアリスは言った。


「じゃあ、あったまったらリビングに戻ってね。何飲みたい?ビールとか?」

「え?ん、じゃあ、ビールを。」


「うん、わかった。じゃあ、あとでね!」

 そういって、きびすを返したアリスは、そのスラリとした足を見せつけながら、浴室のドアから出て行った。


 いったい、なんなんだ。

 このあとどうなるんだ?


 なんだか混乱している自分が、おかしくなった。

 風呂からあがり、用意してあったバスローブに着替えるとリビングに戻った。


「あ、いいお湯だった?はい、座って。」

 再びソファに座ると、用意されていたビールを注がれた。


「ありがとう。」

 そういってグッといっぱい飲み干すと、体中にビールの冷たさが広がって気持ちがよかった。


「わぁ、いい飲みっぷりだね。はい、もう一杯どうぞ。」

 そういって再びビールを注いだアリスは、嬉しそうに僕を見つめている。


「そうそう、おなか空いてない?ご飯は?まだだよね。なに食べたい?」

「え?あぁそう言えば晩飯はまだだった。そうだな・・・何か中華が食べたいな。酢豚とかチンジャオロースとか。」


「中華ね。了解!じゃあ、今作ってくるね。テレビでも見て待ってて。」

 そういうとリモコンでテレビを付けたあと、アリスは再びキッチンがあるであろう右手の廊下に向った。


 テレビではちょうどニュースをやっていた。

 どこそこで殺人があっただの、どこかの国で紛争があっただの、相変わらず暗い話ばかりだ。


 でも、ここにいるとそういう現実からは、離れているような感覚になる。

 外が見えないせいもあると思うが、何か世間とは隔絶された雰囲気がある。


 

「お待たせー、ほぅら、おいしそうでしょ。うまくできたよ〜いっぱい食べてね。」

「うわぁ、すごいなぁ、こんなに作ったの?」

 その量は軽く三人前はあった。


「アリスも、一緒に食べるんだよね?」

「わたし?わたしはいい。俊ちゃんのために作ったんだから、いっぱい食べて、多かったら残してもいいから。ちょっと張り切って作りすぎちゃった。」

 そう言って、ペロッと舌を出すアリスがとてもかわいらしかった。


 いつの間にか、この少女にかれている自分に気がついた。


「あぁ、じゃあ、いただきます。ん?うまい!すごいね。ほんとにうまいよ!」

「ほんと!うれしい!あたし初めてだったから上手にできるか心配だったんだ。よかったぁ。俊ちゃんに喜んでもらえて。」

 そう言うとアリスは、ホッとしたような表情を浮かべ、その後、とても幸せそうな顔をした。


 食事を済ませると、アリスは、片付けのためにまたキッチンに向ったが、

 ほどなく戻ってくると、僕が座っているソファに一緒に腰掛けて、身体を摺り寄せてきた。


「一緒に座っていい?」

「あぁ、もちろん。」

 そう言うと、さらに身体を摺すり寄せてきて腕を組んできた。


「なんだか落ち着く。わたしね、ほんとは今日、凄く緊張してたの。だってどんな人が来るかわからなかったから。

 怖い人だったらどうしようとか。でも、俊ちゃんでよかった。優しいし、話しやすいし。ありがとう俊ちゃん。」

「え?いやぁ、俺のほうこそ、こんなにリラックスできたのは久しぶりだよ。俺さ、実は離婚してて・・・。」


「しっ!いいの。そういうことは話さないで。わかってるから、俊ちゃんのことは何でも知ってる。

 ほんとは名前も知ってたけど、いきなりは失礼だと思ったから聞いたの。でも、聞く前から『俊ちゃん』て呼ぼうって決めてたんだよ。」

「え?そうなの?なんだ。まぁ実は俺も緊張してたから、俊ちゃんて呼ばれて、ホッとしたよ。」


「ほんと?!よかったぁ。ここではね。俊ちゃんが思いっきりリラックスしてくれればいいんだよ。好きなように、のびのびとね。」

「うん。ありがとう。すごくリラックスできたよ。」


「泊まっていくよね?」

「え?あぁ、うん、でも、明日着ていく服とかネクタイとか・・・。」


「大丈夫。そうだ、ちょっと来て。」

 そういうとアリスは立ち上がり僕の腕を引っ張って先ほどの浴室の方の廊下に導いた。

 そして、突き当りの部屋に連れて行かれた。


「ほら、このクローゼット見て。」


 そこは思ったとおり寝室だった。

 広さは十畳以上ありそうで、大きなダブルベッドがあり、壁際は天井までの高さのクローゼットになっていた。


 開いてみると、そこにはスーツが十着以上並べられ、ネクタイも数十本、ワイシャツや靴下、靴まで用意されていた。


「すごいね。これならここから会社に行けるね。」

「ほんと?じゃあ、そうしようよ。ずっとそうしよう。」

 アリスは僕の腕にぶら下がるようにしながら、嬉しそうに僕が泊まることを勧めた。


「わかった。そうするよ。今日は泊まって、明日はここから会社にいこう。」

「やったぁ、じゃあ、明日もね。明日もそうして、会社からはここへ帰ってきて。」


「え?ここへかい?」

「そう、ここはもう俊ちゃんの家だよ。わたしと俊ちゃんのおうちなの。だから、ここへ帰ってきて。」

 しばらく考えたが、どうせ家に帰っても何もすることはない。


 それにここへ帰ってくれば、迎えてくれる人がいる。

 そう思うと何も迷うことはなかった。


「わかった。そうするよ。明日もここへ帰ってくる。」

「やったぁ!うれしい、俊ちゃん大好き。」

 そういうと僕の腕をぐいっと引っ張って僕のほっぺたにキスをした。


 なんだか凄く気恥ずかしい気分だった。

 幼稚園のころ、大好きな女の子にキスをされたような感覚だった。


「じゃあ、明日も早いからそろそろ寝ようか。」

 アリスに促されて寝支度を整えた。


 先にベッドに入っていると、あとからアリスが部屋に入ってきた。

 かわいらしい動物のプリントが施されているパジャマを着ていた。


「入っていい?」

 ちょっと恥ずかしそうに聞いてくるアリスがたまらなく愛いとおしかった。


「うん、どうぞ。」

 できるだけ冷静を装っていたが、僕の男の部分は、もうはち切れそうだった。


「失礼しまーす。あは、俊ちゃんが入っててくれてたからあったかい。」

 そういうとアリスは、僕の身体に自分の身体を摺り寄せてちょうど肩の辺りに頭をくっつけてきた。


「うんとね。お願いしていい?」

 上目遣いにアリスが聞いてきた。


「ん?なに?」

「うんとね。腕枕してもらっていい?」

 願ってもないことだ。


 正直腕のやり場に困っていた。

 腕枕をすれば、自然な形でアリスと抱き合える。


「もちろんいいよ。おいで。」

 そう言うと、アリスは恥ずかしそうに、頭を浮かせて僕の腕の中に入ってきた。


「うれしい。優しくこうされるの、わたし夢だったの。凄く気持ちいい。」

「そうなの?腕枕ぐらいなら毎晩してあげるよ。」


「ほんと?!うれしい。ありがとう俊ちゃん。」

 そう言って、アリスはさらに僕に身体を近づけてきて、二人の身体は隙間なくぴったりとくっついていた。


 僕自身が感じるくらい心臓の音が早く力強く脈打っている。

 同時に、下半身に熱いものが降りていくのを感じる。


 しかし、ほんのひとかけらだが、理性が残っていたため、このままアリスを押さえ込もうかどうか、しばらくの間、迷っていた。

 しかし、据膳すえぜん食わぬはなんとかと思い、腕枕をしている右手に力を込めてアリスの身体を抱きこんだ。


 そして、唇を奪おうとアリスの方を向いたが、そこには幸せそうに寝息を立てて眠っているアリスの寝顔があった。


「ふぅ。何してるんだ俺は・・・。」

 そうつぶやきながらも、眠っているアリスの寝顔を見て正気を取り戻したことに後悔はなかった。


 むしろ何もしなくてよかった。

 こんなに信頼してくれているアリスを、裏切ることをしなくてよかったと心から思い、なんだかホッとした。


 そして、その夜は義務感からではなく、心からゆっくりと眠れた。

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