逃げ水
――夜半。
北地区駅前大通り沿い、某ホテル客室。客層として不自然な男子高校生二人組は、私服とはいえ違和感の塊だ。
豪奢な絨毯で機材を広げる氷崎を横目に、風見がベッドで寝転んでいた。時折思い出したように氷崎の作業を覗き見ながら、一人でずっと喋り続けている。
風見が二十は話したところで、やっと氷崎が一を返した。
「中央本部で毎年、各支部の説明会があるでしょ。北支部の広告塔はいつも棗さんがやってるから、『久しぶり』になる切欠があったならそこじゃないの」
「あーなるほど。なるほどすばる……ってことはイズミちゃん、やっぱあの人がフツーにああいう人だと思ってるわけだよな」
「普通に説明会で見たきりなら、そういうことになるかもね」
調整はあらかた済んでいる。
インカムを装備。パソコンのモニタには、ホテル管理の防犯カメラ映像が敷石のように並ぶ――正しく客層である大人たちの多くは、大広間の一つに集まり、相応の礼服に畏まって歓談に興じていた。
今日の仕事を頼んできた張本人も、宴席にすっかり溶け込んでしまっている。
元が華やかな容姿であるから、注目を集めつつも、豪奢な広間によく馴染む。
「…………万が一あの人がイズミちゃん狙ってたらマジでどうしよう」
「……、ええ……」
――
よほど気にしているらしい、という以外、氷崎に感想はない。
「ずーっとこそこそしてんじゃん。意味ありげじゃん? 『何したらいいですか』ってナニ、なんか約束でもしてんの? 先約アピール??」
「例の三人は控室です。異常はなし、……はい。その人なら五時方向に。それと棗さん、お兄さんのフォローにも行った方がよさそうです」
「いやムリじゃん、オレあの人にマジで何ひとつ勝てる気しねーし、ってか組み手もなんも勝てたことねーし」
棗は和泉のフォローを優先した。
モニタでも目立つ金髪の男が、パーティードレスを纏う小柄な人影に声を掛ける。その手を握って離さない男から穏便に逃がした。
『すみません、ありがとうございます』
声変わりの曖昧なアルトは、高く保てばぎりぎり女声で通せる。
化粧でも誤魔化せない幼さを転じ、夜会に潜入するための女装だが――ヒールで覚束ない足元や粗相の端々から、素人臭さが拭いきれない。
微笑ましく見守られながら、変装自体は見破られていないことが、不幸中の幸いか。
「オレがいくら頼んでもダメだったイズミちゃんが迷わず女装オッケーってのもおかしいじゃん? わざわざ女装させたあの人も正直どういう意味か分かんねえじゃん? あーイズミちゃんくっそ加虐心そそる。最高かよ。あのカッコのまま攫ってワンチャンとかよくねえ?」
「そういう話は嫌いだから、僕に振ってこないで」
風見はさほど、作戦の「本命」に興味がない。氷崎も同様だ。
目標は通称を「死神」。名前通りの殺し屋である。
狭間通りの何処かにいると囁かれ、都市伝説が形を成したかのごとく実態の曖昧な存在。漏れ聞こえる評判にどれほどの尾ひれがついているかはうかがい知れない。そもそも、それを判断する物証、痕跡の一切を残さないのが死神であるから。
残っていたとして、個人の特定に至れる代物ではない。姿を見たことのあるものも少ない。
始末屋としては悪夢じみた腕の良さだ。
それ故に、犯行および逃走には、何らかの呪具が用いられている可能性が高いと目されている。ただし、呪具を用いる人間――術者である、との推測には証拠がない。確信に足る物的情報が皆無であるためだ。
確実なことは、背格好から推測し、男だということだけ。
そして、死神は確実に「いる」。――風見も氷崎も、棗も。過去に死神と相対したことがある。
とはいえ、ここ数年ぱたりと聞かなくなっていた名前だった。棗から渡された資料を流し見はするものの、どの時点で棗が確信を得たのか、氷崎には判断がつかない。
始末屋の標的は、このパーティーの主催者とその幹部ら、合計三名であるらしい。棗と和泉は表向き、招待客として潜入していた。
幹部の二人は未だ控室に下がっている。会場に現れたのは、痩せ気味の主催者がひとりきり。映像が加工されている形跡はない。主催側も襲撃の可能性を警戒しているらしく、彼らのそばには護衛が複数。
「――、棗さん」
氷崎の目が一人の招待客を捉える。棗に位置と特徴を伝え、ほぼ同時。
爆発音とともに空気が軋み、ホテルの全電源が落ちた。
非常電源がつくまでのタイムラグに、棗が迷わず動いた。
会場は暗闇ながら、指示の人物は捕捉している。混乱にざわつく周囲とは明らかに異なる、「異常に乗じて動き出した」挙動。
意識を確保に切り替えた瞬間、男の一挙一動がひどく鮮明に目に焼き付き――底の見えない穴に足を取られる、冷えた感覚が這い登る。
違う、と感づくには、遅い。
明かりが戻る――女声の高い悲鳴。
人が大挙して出口に雪崩れ込む。男を拘束し、肩で息をする棗の前には、既に処理の済んだ主催者の死体が出来上がっていた。
爆発音の方角は控室、『もう一つは、恐らく配電盤です』そう、氷崎が指す。記憶にある地図を広げ、人を避けて、棗は窓へと走る。
緊急時のための設えは簡単に開いた。降下用の器具と手袋を着ける。
ホテルからの脱出路は、大別して上か下。
「上」の経路は一択。このホテルには、屋上から飛び移れる隣接ビルが存在する。ビルは密接しており、身体能力に恵まれずとも移動は易しい。こちらを和泉に任せている。
「下」の経路、地上から警戒すべき経路の方が多く、また、死神が避難客に紛れている可能性もカバー出来る。脱出路全ての警戒は難しく、合法的に手を回して幾つかは封鎖しているが。
棗は躊躇なく、空に身を投げた。ごうと風の音が鳴る。
最警戒は「下」――棗同様の窓からの降下、下手をすれば飛び降り。
死神の身体能力なら、無傷で飛び降りようとも驚かない。
仮に流れの遅い避難客に混ざっているなら、非常階段でも正面玄関からでも、暫く地上には辿り着けないはずだ。その先回りにもなる――着地して降下具を外し、目星をつけたポイントに走った。
ホテルの立地上、降下や飛び降りが可能な場所は限られている。目が届かない部分の監視は引き続いて氷崎に、機材の撤収と後始末は風見の担当だ。
暗い路地で何かが動いたのを、見た。
『お兄さん、急いだほうがいいかも』
「え?」
人の波にあらかた流され、ヒールで満身創痍な和泉の足は重い。
想定の道順をすっかり見失い、迂回路を指示された和泉が上る階段は、最後の難関だった。手摺に縋る指が、力を込めすぎて白くなる。
『棗さんのジンクス、なのかな。たいてい、本当に捕まえたい人間が、一番遠くに――』
屋上の扉は開いていた。
空気の塊に押し返されそうな突風は、和泉の長いウィッグを強く靡かせる。
夜の闇が濃い。しかし、夜目はいらない――その人影は、屋上の照明の中にあった。逆光で黒く染まる影はまぶしく、和泉は眼を細めて、光に慣れるのを待った。
じきに影の黒さが、逆光によるものではないと知る。
「見ればすぐ解る」。死神の説明を省いた棗の真意を、和泉はやっと理解した。
大きなフードを目深に被った死神の顔には、一分の隙も無く布が巻き付いている。顔の下半分が艶の無い滑らかなマスクで覆われ、素肌の一切が見えない。
そしてそのどれもが、黒い。
フードの中に、光すらも関知しない、ぽっかりとした穴が開いているようだった。
「……あ、」
足が震える。目の前の影が、生きたものであるのか分からない。黒衣が人型を取っているだけの、得体の知れないものに見えた。
――布の下に、ほんとうに何も、なかったら。
自由に動かなくなった手が、震えた指が、拳銃にふれた。
棗の言葉が蘇る。
歯を食いしばり、震える両手で銃を構えた。安全装置を解除する。
照準を合わせた影は、動かない。
『なら、お前の存在価値を僕に証明してみろよ。役立たず』
――棗との初対面は、およそ一年前。和泉が中央で訓練を積んでいた頃。
将来の配属先、要は進路決定に向けた説明会で、北支部の担当官として現れた。
笑顔のまま近付き、言葉巧みに竹刀を取らせた棗は、笑顔のまま文字通り襤褸雑巾のごとく和泉を叩きのめした。
訓練室の一つには、初めから人払いがされていた。
床に伸びた和泉の頭が足蹴にされる。棗の声にずっと覚えていた冷たさを、ごく正しい印象として理解したのは、このときだった。
「何が目的? あれだけ迷惑かけた場所に自分からのこのこ出向いて『またお世話になります』? 君さては馬鹿なの? 頭大丈夫? その神経が不快」
嘘をついても無駄だと思った。だから「妹を探すためです」と正直に答えた。
実際のところ言葉と呼べたかも怪しいものだが、棗はそれを正確に拾い、その上で全くの無反応を貫いた。頭蓋を蹴飛ばし、鞄から数枚の書類を取り出し、笑顔どころか表情と呼べそうな要素を一ミリたりと動かそうとしない。
「そも、君みたいに血統書も無い捨て犬を、お偉い中央様が慈善事業で呼び寄せるわけがない。呪力値は明らかに異常、角が無いのがおかしいレベル。こんなもんが潔癖症の中央で野放しにされてる状況といい、存在すら微妙な妹といい」
「さがら、は、います……!」
声を引き絞る和泉を、棗はただ見下ろす。その眼前にしゃがみ、前髪を掴んで頭を上げさせた。
「お前さあ、『先祖返り』だろ」
――何でこの人は、その単語を知っている。
まさか「同じ」――と考えた瞬間、棗の顔がひどく歪む。「僕をお前らみたいな根腐れ精神疾患と一緒にすんな死ね」と、不快であることを主張して、和泉の顔面をいちど景気よく床に叩きつけた。
「人探ししたいんなら、中央本部でクソも役に立たないエリートコースに乗って、個人情報なり鬼籍なりゴミみたいな権力に飽かせて好きにコソコソ嗅ぎ回ればいい。知らないんならいま教えてやるけど」
中央本部でもごく一握りの上層。表向きはただの学科試験と面接だが、誰一人合格しない年も珍しくない狭き門。
それは、エリートコースの実態が、先祖返りの優遇と保護であるため。
優秀に生まれつくだけでは不足である。より高い知能に加え、多くの経験を「前世」として記憶し保有する稀な者を、人財として厚遇する――先祖返りという、生まれながらに選ばれた人間をこそ。
不可思議に関わる組織だからこそ、上層部で密かに支持される暗黙の了解。
「試験の結果より、先祖返りの事実があればいい。君にはお誂え向きだろ」
吐き捨てた棗が手を離し、和泉は強かに顎を打つ。降ってきた声に一切の情は無い。
「前世の妹探したいなら中央でやって。いるとかいないとかじゃなく。信じてるとかでもなく、現実として。僕達が生きてるのはお前のそのお花畑な頭の中じゃないし、妄想に付き合ってやるヒマもない。振り回されるのはこっちだから。迷惑」
和泉は棗に反論を持たなかった。「前世」は自分が認識しているだけで、他者に証明する手段は無い。
それでも。
彼女は。相良は、双子の片割れ。自分の半身だ。
自身がここに居る以上、どこかで生を受けているはずだった。今世で得た身体のなかに、同じように、前世の記憶を抱いて。
どんな形でも構わなかった。会って、声を聴きたい。
「……強く、なりたいんです」
今度こそ、守るために。
北がよかった。北でなら、あの大きな背中を追えるのなら、叶うと思ったから。
和泉の宣言は嗚咽混じりで、ほとんど泣き声と同じだった。唇を噛み、痛みに構わず力を入れて、零れそうな涙を堪える。
打ちひしがれるほどの無力感は、もう充分、経験し終わった。
「泣かないって、決めたんです。……強くて、格好いい兄貴になって、俺は、相良を。迎えに行くって」
棗は竹刀を片付け、手荷物をまとめる。伸びたままの和泉を放置し、去りざまに言い残した。
『君の意向は関係無く、僕は全力で裏から根回しして君の邪魔をする。絶対北に来られないように。それでも、もし万が一仮に配属が決まったその時は、僕の視界に入ることを認めてやるよ。シスコン野郎』
「刀も銃も素人以下。状況を俯瞰して指示出し出来るような視野も余裕も無い。中央本部の研修がぬるいのは理解するけど、北の訓練にすらついていけないってさぁ、君は中央で一年間も何してたわけ?」
人権を踏みにじるような罵声は、初対面をよく思い出す。
北支部に戻り、やっと女装を解いた和泉は、隊室で棗と鉢合わせた。土下座の強要付きで、今回の作戦で和泉が犯した失態を一から十まで微に入り細を穿って説明され続け、現状、黙って耳を傾ける以外の態度は許可されていない。
「あとさぁ、この際だから言うけど『俺に何か』じゃないから。あるに決まってんだろうが。君、あの時僕が手取り足取り教えてやったこと全部きれいさっぱり忘れてやがるとかないよね? 他所でやれここには来るなってあれほど優しく諭してやったのにどの面下げて北志願したわけ? こっちが質問してやってんのに返事の一つも出来ねえのかうすのろ」
「棗サンちょっとおぉ!? 待っ、ストップストップやめやめ!」
遅れて到着した風見が、隊室で広がる画に混乱しながら止めに入ろうとする――氷崎の後ろから風見を追い抜き、上背の高い人影が割り込んだ。
無骨な男の手が棗の胸倉を掴む。
「何を。してんだって、聞いてんだ。おいコラ」
恫喝込みの冬部の手は、即座に振り払われた。
他の仕事、鬼の討伐を終えて帰還したばかりの隊長を、副隊長が正面から睨み付ける。双方とも眼が臨戦態勢で、武具が手に無いのが幸いだ。
闖入者に顔を上げた和泉ばかりが現状を理解できておらず、風見に耳打ちされるまま、静かに隊室をあとにした。
「一人でやるならてめぇの勝手だ。でもなぁ、学生のガキども巻き込んで法に触れるような真似すんじゃねぇって何べんも言ってんだろうが陽!!」
「法? 正規の手続き踏んで宿泊して、パソコンいじりながら知り合いと通話してたその何処が法に触れるって? なに寝ぼけてんの朔、頭の病院でも行ってきたら?」
張り詰めた空気に殺気が混じる。
棗が鋭い舌打ちを吐き捨て、隊室を出ようとする。冬部が制止に肩を掴み――担ぎ投げられた大男の身柄は、机と椅子を派手になぎ倒し転がった。
惨状の中心で冬部が身を起こす。受身をとった頑健な身体に負傷は軽微だが、彼に残っていた微かな忍耐は消し炭に、「話し合う気はない」という棗の態度を言葉よりも雄弁に知らしめる。
「お前でも分かるようにしてやってんだから、獣らしく突っ込んで来いよ」
初めから挑発だ。
片や嘲笑、片や激昴。口元を歪めたのは同時で、睨み合う柄の悪さは甲乙つけがたく堅気ではない。
「表出ろ、クソ朔。ちょうど君の部下がヘマしやがって、みすみす死神逃したとこだ。上司として責任取ってぶん殴られろ」
「上等だ。てめぇこそ裏でコソコソ脅迫だ何だしてたっつう話じゃねぇか。やってることがガキのワガママと変わらねえっつってんのがまだ分かんねぇみてぇだな」
怒声に罵倒、派手な乱闘音が隊室の外にまで響いている。
風見と和泉に、帰り仕度を済ませた氷崎が合流した。
「お疲れさま、お兄さん」
「はい。氷崎先輩も、風見さんも……すみません、俺」
「気にすることねーって。いつも、いいとこまでは行くんだけどなーって感じだし」
引き金は引いたが、当たらなかった。死神はいつの間にか霞と消えた。
靴擦れと、ヒールで酷使した足の筋肉が痛む。よろけた和泉を風見が引き寄せ、軽く支えたままで、北支部の正面玄関に向かう。
「お兄さんがいなかったら、単にあの人が賭けを外して逃げられてただけだよ」
「そーそー。可愛かったぜ、イズミちゃん」
「……それは、嬉しくないです」
でも、裏の無い物言いが、今日はとりわけ清々しい。
とっぷりと夜に暮れ、まだ春の冷気が残る空気を吸い込んで、風見が大きく伸びをする。
「腹減ったし、ラーメンでも食って帰ろーぜすばる。イズミちゃんもいーだろ?」
「行く! ね、氷崎先輩も行きましょう!」
氷崎を振り向いた、能天気な笑顔がふたつ。
普段通りの歩幅で二人に追い付く彼にも、ほんの少しだけ、そんな笑みが伝染していた。
「……ていうかすばる。イズミちゃんが棗サンの本性知ってるって、いつから気付いてた?」
「顔はいくら猫被ってても、通信の調子が完璧に素だったから。お兄さんも驚かないから、知ってるんだなって判断しただけ」
「いや、だって。じゃあ何でオレが『イズミちゃんはあの人の営業スマイルしか知らねーのかも』っつった時に否定しなかっ」
「肯定した覚えも無かったけど」
「おまえすばるほんとさぁ!?」
■
迷いの無い足取りで路地を抜け目指した先、立て付けの悪い扉には開店の札が掛かっていた。年代を感じさせる鈍さで月光を反射する把手を掴むと、棗の眼前に、扉と同じ香りのする風除室が広がる。
清掃を止めて顔を上げた店主へと、棗が迷わず問う。
「菓子屋いる?」
「……いない。それと、店を閉めるところなんだが」
五分。そう宣言しカウンター席へ居座る男に、雪平はテーブル席を拭き終えた。
裏に引きあげ、手洗いの水音に被せて「ペットボトルの水かお茶、ある?」
水音が止まり少しして、黒服姿がカウンターに戻ってくる。国民的メーカーのペットボトル飲料が眼前に置かれ、棗はさっさとキャップを捻った。
乱闘で切った口内に染みる。ただ、不快な血の味が多少ましになっただけいい。
乱れた髪を無造作に手櫛で整え、よれたジャケットを着直す。ワイシャツの襟元が普段より開いているものの、今はどうでもよかった。
「上から二段目、右から二つめ、シュガーポットの中」
カウンターの内側に並ぶ飾り棚。
雪平が棗の視線と言葉を辿り、内装の一つを凝視する。棗から目で促され、両手で抱えるほどの角砂糖入れを棚から下ろした。記憶より、重量が増えている気が――
密封可能なポリ袋に、大量のクッキーが詰まっていた。
固まる雪平の手から袋をさらい、早速一枚を口に放り込む。
平然と悪びれない客に対し、店主の苦情は力無い。
「……あれといいお前といい、人の店をいいように玩具にするなとあれほど、」
「それであんたに迷惑掛けた?」
「乱闘騒ぎと器物損壊だな。……その菓子も処分させて貰うぞ。宝探しの真似事か知らないが、何時作ったか分からない代物は店として許容出来かねる」
「菓子屋が個人で作って個人で隠してるもんに
「
「まあね。その苦情はごもっとも」
「……他にもあるのか」と。疲れ切った問いに、棗は無言で三枚目の焼菓子を摘んだ。
脅迫を躱した人間が、一人だけいる。
人を食った、狸の親戚じみた笑顔が浮かぶ。唯一の不確定要素は、勝機に恵まれていた賭けをひっくり返した張本人で間違いない。
『北に引き入れたい人がいるんだ。ただ彼、なかなか頷いてくれなくてね』
硬い胡桃を噛み潰した。
ふわりと溶けて甘さに消える塊が、今は無性に苛立ちを誘う。早くも残り数枚となったクッキーをまとめて平らげ、念入りに噛み砕いた。
きっと君にとってもプラスに働くはずだよ、などと。脆い甘言を鵜呑みにするほど、愚かではない。
――金属がなぎ倒される派手な連鎖は、外から聞こえた。
無遠慮に思考を乱す雑音の正体は知れていた。猪よろしく放置自転車で将棋倒しでもしている事故現場が目に浮かぶ。
「……保護者の迎えが来るぞ。大人しく帰れ」
「笑えねぇ冗談やめてくんない? 昔っから、あの馬鹿のつくお人好しの世話焼いてやってんのは僕のほう」
財布から紙幣を一枚抜く。
勘定よりも余分な額面を訝る店主に、棗が近づき声を低める。
「大事な店、二度もゴリラに荒らされたくないだろ。裏の通用口開けろ」
「出禁にされたくなければ今すぐ正面から出て行け」
「ドアの一枚や二枚、愛人のババア誑かして貢がせろよ使えねぇな。生娘じゃあるまいし、その無駄な顔面の賢い使い方くらいよぉく分かってんだろ」
「お褒めに与り光栄だ。……品の無いやり取りに付き合ってやるほど暇じゃあない」
「品、ね。叩けば埃だらけの身で言えた立場?」
「ああ、そうだな」
過不足ない釣銭を返しながら、黒服の店主は、店表を目で示すに留まる。
「店長!! 陽の奴がここに――! 、……」
継句の萎んだ無音に、ドアベルだけがけたたましく暴れている。
押し入った体勢そのまま動けなくなった冬部が、大きな掌を慎重に扉から離そうと――ひしゃげた金属が息絶える音と共に、扉が傾ぐ。
頭がみるみる冷えていく大男とは裏腹に、雪平はさして動じてもいない。
「蝶番、いかれたか」
「…………悪い、店長……いい加減きっちり弁償する、」
「気にするな。自分で直せる……そんな事より、いいのか。見失うぞ」
静かな視線は店表を見遣る。問題の客が逃げた方角を、暗に指し示していた。
無骨な安全靴の爪先は、一瞬そちらを向きかける。
だが、迷いといってもそれきりだ。
「……ドアの修理手伝わしてくれ。店長」
「……、……店仕舞いが先だ。中で座って待っていてくれ」
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