花冷え

 端末で見ている地図が何回転したか分からない。

 白壁の土蔵らしき廃屋を通りすがり、スニーカーが立ち止まる。地図に重ねる景色の中、太陽の光に赤らんだ彼の茶髪が、季節外れの紅葉めいている。

「あのさーイズミちゃん。裏道なんか覚えたくてオレ呼んだの?」

 人の好い溌剌はつらつさの純粋な疑問は、案外に和泉へダメージを負わせた。


 北には桜の名所が多い。

 ようやく到着した桜前線は、街全体をふくよかな香気に包んでいる。多くの観光客が訪れる桜の季節は、華やいだ活気で満ちていた。

 地元よりも甘やかな春の匂いが、和泉の心を躍らせる。うららかな陽光の元、街を掛ける足取りも自然と軽い。

 軋む木製の扉を開けると、甘露に慣れた鼻に、くらりとしそうな苦味を覚えた。

「なー店長サン、雨ちゃん弁当屋? カラオケ? ……あっ違ぇ、春だしアレじゃね引越しバイト!」

「屋台で団子を売ってる」

「ま、っっじか惜っし!! くっそー……」

 喫茶店は、談笑にふける囁きに満ちている。ほど良い距離感に配置されたテーブル席が半分ほど埋まり、珍かな盛況を見せていた。

 薄いベージュのダッフルコート――カウンター席、赤茶けた髪の少年が入口を振り向く。和泉をみとめ、表情を輝かせた。

「おっつー! イズミちゃんお待たせ!」

「俺! 待たせたの俺です!!」

「っはは、ジョーダンだって!」

 けらけら笑う風見かざみとカウンターを挟み、喫茶店の主が佇んでいる。

 珈琲色の暗い茶髪、白のワイシャツに黒いベスト。同じく黒のネクタイは、首元まで締められ緩みがない。

雪平ゆきひらさんも、こんにちは」

 黒服の店主は、サイフォンを繰りながらすこし、視線を寄越した。

 会釈なり、視線なり。忙しい最中でもたいてい、挨拶に気付いた合図はくれるのだ。何だかんだ返事してくれるんですね――と思うと、少し可笑しい。

「イズミちゃん気にすんなって。店長サン基本的に野郎には冷てーから」

「……仕事中だ。軽口に応じる道理は無い」

「おっ。いいんすかーこないだ確かなスジから聞いた話がー、たしか三年前に店長サンの隠し」

「出禁にされたいか」

「困りまーす! っつーわけで逃げるが勝ち!」

 掴んだのは、財布。端末。和泉の手首。

 そのまま、転がる様に喫茶店を飛び出した。


「裏道なんか、って」

「なんか」で済まないから困っている――という不安は、顔に表れていたらしい。

 曇り顔を晴らして余りある笑顔が、和泉を覗き込む。

「ていうかさあオレ、『街を案内してほしい』って、ぶっちゃけデートだと思ってたワケ。でもイズミちゃん、これ対策部の巡回ルート覚えたいっつー話だろ?

 オレ中二から学生隊員やってるし、こんな歩いてりゃさすがにわかるって。まあフツー無理だよなー、いきなりあんなわけわかんねー順路見せられたって」

 学生隊員の説明会が脳裏を掠める。風見の軽口がわりあい的を得ていて、同意と弱音が一緒くたに零れた。

 公共交通機関には恵まれたものの、市そのものが地方に位置し、人口過密とは縁遠い。

 城跡、洋館、歴史の残る建築群に、寺社仏閣の集う寺通り。地名には旧い城下の名残がうかがえ、観光都市としての魅力を多く遺している。

 その保全に努めた結果、この地方都市の地図は「わかりやすさ」をかなぐり捨てた。

「……その通りです。だから、早く覚えなくちゃならなくて、」

「はー、イズミちゃん偉いかよ。ぜんぜんムリする必要なくね?」

「え?」

「えっ、逆になんでそんな頑張んの」

 戸惑って顔を上げれば、風見もきょとんとしていたのが可笑しかった――理由なら。

 北で早く役に立ちたいから。自分が頑張りたいと思っているから。それから、まだ討伐に参加できる実力には足りないぶん、巡回くらいは戦力に数えてほしいから。

 それから、あとは。

 自分の目的のために「やらなきゃならないことだから」――

「オレだってここが地元だけど、学生隊員やってなきゃんなモン覚えてねーよ。地図見て歩けんならぜんぜん充分じゃね? はぐれたら、そんときのペアに迎えに来てもらえばいーじゃんか。オレもしょっちゅうそんなんだったし、焦る必要ねーって」

 出かかった弱音は「まーまー」と流される。難しいことは後だと、軽薄が囁く。

「まずはさぁホラ。美味い店とか、楽しいトコとか。そういうの知りたくねぇ? イズミちゃんのいたとこより田舎かもしんねーけど、けっこーいいとこ知ってるぜ!」

――好奇心が疼いたのは、言い訳できない。

 片側単車線にうねる道路、掠れた白線が画す歩道はひどく狭い。車通りがほとんど無いから、狭かろうと困らないけれど。

「今日はさ、イズミちゃんの歓迎会のつもりなんだぜ。ぱーっと飯食って、ついでに桜見てさ。考え事は、終わってからでも間に合わねぇ?」

 派手な靴紐のスニーカーが、車道にはみ出しながら和泉の横に並んだ。行き先を定めた確かさで先を誘って、じきに細道を抜けていく。

 喧騒が近づいてくるのがわかった。



 普段口にしない他言語を引っ張り出し、自然公園への道案内をしていると、春が来たことを実感する。

 桜目当ての観光目的らしい二人組に別れの挨拶を告げ、榛名はるなはいま来た道を戻り始めた。風は冷え始めていて、薄手のマフラーに手を伸ばす――車道を挟んだ向かいの歩道から、はしゃいだ声が聞こえた。

 榛名も知る顔の二人組は、忍び寄る日暮れの気配に気付いてすらいないのだろう。

 小柄なほう、華奢な体躯の少年が笑っている。

 男性として生きることを望んだ和泉の意志は、養父母の説得にも揺らがなかった。志願隊員、もとい学生隊員として対策部を志すことも、同様だったと聞いている。


 和泉を狙った鬼――暫定呼称「人喰鬼ひとくいおに」は、その後の足取りが掴めていない。

 生来の呪力値が高い和泉は、鬼に狙われやすい体質と言って差し支えない。自衛のいち手段として対策部へ所属するのは良いやり方だと、榛名は思う。

 事実、志願理由が自衛のためという隊員は珍しくない。ただ――


――どうして安岐君が、中央で訓練するって話になったのかしら。

 志願は北で、和泉の住所も北支部の管轄内だ。まして和泉は中央本部から一度、命を見限られている。和泉がわざわざ出向くにしろ、中央が呼び寄せたにしろ、どちらも不自然――

「おー! 榛名センセだ。ちわっす!」

 軽さは折り紙付きの声が、この距離でもよく通る。はっと二人に手を振り返した。

 前髪を飾る兎のピン留めに目がいく。幼児っぽいデザインは風見本人の趣味なのか、素朴な疑問をぶつけたことはまだ無い。

――にしても、すっかり仲良しみたいな感じなのね。

 喉に引っかかるものの正体を掴めないまま、榛名は先を急いだ。いま頭を占めるのは、和泉の事ではない。もっと個人的なこと。

 もう、かなり待たせているはずだったから。


 病院の待合室、長椅子に座る制服の少女を見つけ、榛名はほっと頬を緩ませた。

「お待たせ、紫乃しの


 ■

 

 街が日暮れに落ちるなか、自然公園は未だ人でごった返していた。

 満開の桜並木で彩られた順路には各種屋台が並び、いまも盛況。夜桜を愛でる宴席は、これからがピークに温まるのだろう。

「すばるー! おっつかれー!」

「ごめん、何しに来たの?」

「冷ってえ!?」

 桜が満開になる時期、北支部の人員の大半は警察やボランティアに混ざり、地区一帯の警備統制に駆り出される。隊服姿の氷崎ひざきもその一員だ。

「だってすばる、手ぇ振っても気付かねーじゃん。だから来るじゃん?」

「非番なら非番らしくしててよ。お兄さんどうしたの」

「イズミちゃんならトイレ。で、したら遠くにすばるが見えた」

「来なくていいよ。戻った方がいいと思う」

「差し入れくらい持ってきてやったって。ほら! 腹減ったろ!」

「もしかして、今ここで食べろって話してる?」

「いーじゃん団子だし。休憩なんてフツーじゃん? つか、食いもんの屋台見えんのに食うなとかマジ拷問だよなー」

 言いながら、安っぽいプラスチック容器から、氷崎に渡したのと同じ団子を取り出した。

 子どもの握りこぶしほどの平べったい焼き餅が串に三つ刺さり、南瓜の餡がたっぷり載っている。風見が大きく噛みちぎったところから、ぶわりと湯気が湧いた。

「コッソリ食っとけって。警備なんてちょっとくらいオレが見てりゃいーんだから」

「……警備が心配とかじゃなくて、隊服着て仕事中の人間が、ゆっくり団子食べてるのが癇に障るんだと思うけど」

 持たされた串団子を見下ろす。次に風見を見てから、まだ湯気の立つ餅をひと齧りした。氷崎の眼鏡がうすく曇る。息で吹き冷ましながら、黙々と咀嚼して飲み込む。

――祭りの時期は、人の精神こころが波立ちやすい。

 賑わいが良きにしろ悪しきにしろ、鬼化へと至るとどめの揺らぎとなりうる以上、対策部の繁忙期と同義だ。氷崎が経緯を把握する限りでも、あげられた首級はゆうに二十を超えている。

 一般市民または国籍を問わない観光客に対し、安全を担保するため。また、祭りの熱に水を差さないよう。役所や警察からも強く念を押される隊員らは、桜の薄桃を見上げるより、地面に広がる赤を見下ろすのに忙しい。

 正隊員であるなら、あくまで志願兵である学生隊員とは比べ物にならない激務と緊張にさらされていること請け合いだろう。

 早くも餅を二つ胃に収めた風見が、公衆トイレの方をちらと見た。

「おっそいなーイズミちゃん。まだ出てこねーや」

 首をかしげる。すこぶる元気そうな和泉の顔が思い出された。体調不良というのは、いささか考えづらい。

 竹串を横に構え、最後の餅を半分、ひと口におさめた。咀嚼の合間に問われる。

「トイレの中まで確認した?」

「いや、流石にそこまでしねーって」

 残っていた半分もなくなる。竹串をプラスチック容器に放り込んで閉じた。

「お兄さん、迷子になってたりしない?」

 そう零した氷崎は、やっと一つ目の餅を飲み込み終えたところだ。

「トイレ出て、そこで待ってるはずの人がいなかったらさ。探そうとしないかな、って話」

 現在地と公衆トイレとは距離がある。風見が見逃した可能性も、和泉が動いた可能性もある。姿の見えない風見を、和泉がただ待っている保証はない。

 そして和泉は、自然公園に土地勘が無い。

 公園とは名ばかり、端から端まで見て回れば、一時間ではきかない広さだ。

「……え、おいおいまさか、いやぜってー、んなワケ…………」

 もう一度戻ってきた風見の顔色が、全てを物語っていた。

 氷崎が身を退く。風見は逃がさなかった。腰に抱き着き、「気持ち悪いから離れて」と足蹴にされた。

「だっってすばる人探し上手いだろ!?」

「酔うから嫌。仕事も来たし」

 手短に団子の残りを平らげ、端末の画面を見せる。「危険度B、呪力値B、角有――」風見がそれを理解したところで、氷崎が竹串を容器に返す。

「ありがとう、ごちそうさま。頑張って」

「……ち、っくしょう見つけたらソッコー連絡しろよな!!」

「いいよ」

 走り出した風見は、同時に、和泉の電話番号を呼び出す。


 暗がりのくさむらで、電子音が鳴った。


 規則的な点滅を、男が見下ろしている。褪せたジーンズの色がぴかぴかと浮かび上がり、対照的に濃い影が表情を隠す。

 舌打ちがして間もなく、薄い機械はお釈迦になった。

「……気付かれたか。めんどくせえ」

 目についた小柄な子どもは、いまどき小学生でも信じない嘘で容易く釣れた。

 周囲に目を配る。祭りの期間だ。他所の人間がどこまで入って来るか、分かったものではない。

 湿った土の匂いが濃い。雨よりも大味な桜の糖分が鼻腔に忍び込み、粘膜を刺激した。暗がりの向こうまで、暗視カメラを通した――或いはそれより鮮明な景色がひらけている。

 草に紛れて転がる小さな頭を掴む。土に汚れた唇が、うめいた。

「……あなたは、何を、願ったんですか?」

 忘れていた痛みが蘇る。

 思考を妨げる鈍痛は絶え間ない。脳を侵す頭痛は、それを握り潰せそうな深みにまで根を張り、脈打っている。

 痛みの根源をさすっていた。和らぐことなど無いのに。

 滑らかな角は体温より数度、余分に熱をもっている。呪力を使い過ぎたせいだ。体力の消耗も激しい。

「……あなたが俺に、話してくれさえすれば。俺は……きっと、力になれる、から」

 頭に響く。声変りをしていないのか、曖昧な高さが、無駄吠えの治らない子犬と同等の煩わしさだ。態とらしく落ち着いた声音を作っているのも癇に障る。

 うるさい。

 細い身体は拳ひとつで軽々ふき飛んだ。霞む視界でにじり寄り、その黒髪を掴む。

 ひと際、捻じ切られる痛みが走った。一瞬だけ意識が遠のき――


 身体が軽くなる。

 自らの願い、呪力の本質。――すべてを「入れ換える」呪い。


 頭痛もない。怠さもない。腕も足も、笑ってしまいそうなほどに軽い。

 邪魔なものは、要らないものは、生まれた「余分」は、捨てたかったものは全て、みんな――「置いてきた」!

 耳慣れない笑い声が、発作じみて湧き出していた。覆いかぶさっていた大人の影が崩れ落ちる。

 目の前の景色がひらけた。

「人間」の眼では、真っ暗でよく見えないけれど。

「――っは、……はははは!! ……『力になる』ってぇのは、これで違いねぇかよ バ――――カ!!」

 老いた男の影は小さい。うずくまったままで、身じろぐ音すら聞こえてこなかった。

――ゲロ吐いて喚き散らすくらいしやがれ。クソつまんねぇなあのガキ。

 呪力は限界以上に搾りきった。あの抜け殻に残るのは、全身を捻じり引き絞られる痛みと、採算度外視で力を酷使した馬鹿に死を警告する、熱暴走と頭痛。

 放っておいてもじきに死ぬ。警備にうろつく対策部の人間に捕まって斬首が早いか、どちらか。


――かわいそうにな。

 薄っぺらい哀れみが胸をつく。畜生以下の男の無様な生の記憶は、既に他人事だった。


 惰性で生きていた。目標が無いから努力も無い。それ相応に、何者にもなれないまま流されて、死にたくないから生きて、歳だけとって「大人」になったところで、この手に何があるわけでもなく。

 人生、好いときなんて無かった。なのにもう、落ちていくしかない。

 何も得られないまま、それ以上のものが失われていく。日ごと緩慢に零れ落ちていく、ただ静かな絶望を直視して覚えたのは、底の知れない憤りだった。

――俺は、何も悪くない。

 何故だと自問した。暗く落ち込んだ底辺からずっと、街中の人間を見てきた――その「眼」を借りて、目の当たりにしたのだ。だから、根拠のない僻みではない。

 誰も彼も幸せだった。掃き溜めで飢え凍える自分は、人としての尊厳すら失くしたのに。

――俺以外はみんな恵まれていた。何もかも上手くいっている。

――うらめしくて、仕方ない。

 環境が違っていたなら。夢を持てていたのなら。結果は違っていたはずだ。

 己に非は無いのだから。

 さすればすべては、不幸な身の上と運の巡りに起因するものだ。


 だから、やり直してしまおうと思った。

 うらめしい誰かに。

 呼吸をするように幸福を甘受しながら、その得がたさを何もわかっていない、馬鹿な子どもに。


 心底うらやましい、あの中の誰かに――


『成り代わってしまえ』

 宿った異能力が何なのか、半信半疑ではあった。それでも賭けは成功したのだから、こちらの勝ちだ。

 記憶を探る。安岐和泉――名と人格を得た。口角を上げてみる。よく笑うらしい頬は、瑞々しく張りがあった。「前」なら、頬の筋肉が引き攣れ痛んだはずだ。殴った個所に触れると少し痛いが、自然な笑顔を作れている。

 同行者。友人、風見という男。同い年? いや、一つ年上。

 もっと深層の記憶へ踏み入りたい。まずはここから離れて――

「……――さ、」

 掠れた、声。

 足が縫い付けられた。

 その声は「前」の名を呼んでいた。鬼籍に入り、とうに捨てた名――ゆるく抱きしめられる。冷える夜気とは裏腹に、回された腕がひどく熱い。

「なに、ひとつ。みじめ、なんかじゃ……。……だい、じょうぶ」

 他人の耳から流し込まれたそれは、自分の声ではなかった。

 聞こえ方の問題ではない。

 こんなモノの言葉ごときに耳を傾けている意味が、何ひとつ理解できないのだ。

 真綿の様な束縛――いや、違う。

「大丈夫。俺は、あなたの味方です。あなたの力に、なりたい」

 大人とはいえ、ほぼ死にていの男ひとり振りほどけない。

 拒絶できない。その意志こそが消えている。癪に触って仕方なかった綺麗ごとが、この肉の動きを固定する。

 思考回路の基盤が、得体の知れないものに置き換えられていく。

「俺、……魔法が、使えるんです」


――いつの間にか叫んでいたのは、抵抗の意志だったのだろうか。

 あるいはもう、おかしくなっていたのかも知れない。

 腕を滅茶苦茶に振り回してわめき散らし、逃れた。振りほどけさえすれば、あの声から離れられれば、何だってよかった。

 襤褸布ぼろきれが地面にうずくまり、息も絶え絶えに立ち上がろうとする。それを口汚く罵り、見下す少年は、浮浪者へ執拗に暴行を加える。加害者である彼も、ずいぶんと息が上がってしまっていた。

 呼吸を整えた彼が、気付く。

 気付いてしまう。

「……ん?」

 うなじがちくちくする。

 金属製のチェーンだった。手繰って引き揚げたのは、年季を感じる錆色のペンダント。縦に長い楕円で、装飾品にしては大きい。走ったら邪魔になりそうなくらい。

 丸みを帯びた側面に、蓋を開けられそうなくぼみがある。

「……――、な」

――写真でも入っているのか?

 それを開ける動作は、指が覚えていた。日に何度も、ことある毎、蓋を開けているというくらい。精緻な細工を指でなぞり、側面に爪を引っ掛けた。

 ぱちりと蓋が開き、中には

「触るな」


 ■


 深まる夜の藍に、桜が白く浮き上がっている。

 一輪毎が大きく、密に咲き乱れた桜の花は、遠目にはさながら、薄紅色の綿飴だ。もこもこと壮観な花弁の群れに、和泉はひどく目を輝かせていた。

「連れてきてくれてありがとうございました。風見さん!」

 人波に揉みこまれかけながら、和泉が心からの笑顔で声を張る。

 風見も喜んでいた。しかし、表情はやや浮かない。

「早く帰って、休んだ方がいーんじゃねぇ? や、イズミちゃんが見てえってんなら全然かまわねーけど……」

 迷子の和泉は、催事警備中の北支部隊員によって発見された。

 頬のガーゼが強い存在感を主張しつつ、コートをはじめとした身体前面に生乾きの土と泥がこびりついている。傍目はためにも分かりやすい負傷者の歩みは鈍い。

 和泉のすぐ前を歩く集団が立ち止まった。そのたび風見が軽く手を引いて、人混みをうまいことすり抜ける。

「ごめんなさい、もうちょっとだけ。せめて一周ぐるっと見てから……!」

「いーっていーって。オレは全然、元からそんつもりだったし」

 桜並木のトンネルを抜けて、屋台の集中する通りに差し掛かる。色とりどりの提灯が夜を彩り、その足下に広がるビニールシートの宴席はどこもたけなわであるらしい。

「あ、あれなつめサンじゃん」

 風見が立ち止まる。指差した方向に、和泉も目を凝らした――花見に開放されている広い一帯。うち、いちばん大きなビニールシート。

「うちの副隊長ってまだ見てねーよな? 金髪で、スーツで、めちゃくちゃ女の子に囲まれてる、あれ」

 ひときわ賑やかな宴席の中心は「よく目立っていた」。

 色素の薄い金糸、涼やかな碧眼。一般人なら持て余しかねない華美なパーツは、男のくっきりとした顔立ちをよく引き立てている。シンプルな細身のスーツが、小説よりも奇なほどに整った容姿を、現実として繋ぎとめていた。

「棗サンっつーんだけど、大学で先生やってて、北支部にはあんまし居ねーの。あれも多分、サークルの飲み会じゃね?」

 酔った学生らの中にひとり、笑みが素面しらふのそれである。宴席のうちでも酒気の薄い一角は、和やかな談笑で温められている。

 和泉が動かない。棗をじっと凝視していた。

 風見からの訝しんだ呼びかけも、さほど届いていない。じき警戒が混ざりはじめた声は、制止の意図を含んでいる。

「……イズミちゃん、イズミちゃん。んな見てっと気付かれ、っげ」

 分かりやすい「王子様」が、二人に微笑みかけていた。

 周囲の学生に声を掛け席を立ち、長身をかがめて、淡い赤にともる提灯をくぐる。柔らかな土が革靴で踏まれる、ふかふかとした足音が、二人の前で止まった。

「久しぶり、安岐さん」


 夜桜のライトアップがまばゆい中で、その一角の落ち窪んだ暗さが重みを増す。

 じっとりと濡れた土に、黒のスニーカーが数ミリ沈みこむ。濃灰の隊服を着こんだ影が、淡々と報告を行っていた。

「はい。……そうですね。顔と服装、体格も一致しました。本人で間違いないとは思いますけれど――」

 黒縁眼鏡の厚いレンズに、横たわった身体が映る。

 襤褸ぼろに身を包む男の頬はこけ、やせ細った手足は異様に熱い。目に見える衰弱がひどいものの、自発呼吸はしっかりとしていた。

「意識に混濁がみられます。ですので本人に確認はまだ、なので万が一、……はい。それで」

 男のそばにしゃがみ込む。隊服の裾が土に濡れた。

 ゴム手袋をはめた右手で、張りの無い髪を掻き分ける。まばらな毛髪を当人の汗で貼り付けさせながら、地肌を露出させ、頭部の満遍ない目視と触診を行う。

「報告にある角は確認できません。呪力値も青、正常範囲でした。附属病院に手続きをお願いします」

 えた脂の臭気が、きつく鼻を刺した。



「は? イズミちゃん、『久しぶり』ってどう――」

 風見の疑問が回答される気配はない。向かい合った両者は、互いに目前の人間のみを相手取っていたから。

 訝る視線は、満身創痍で泥だらけの和泉に対して。

「……泥濘ぬかるみか何処かで、転んだ?」

「気にしないでください。それで、俺に何か」

 問いかける表情は、夜桜を楽しんでいた横顔よりも硬い。賑やいだ花見の夜には不釣り合いで、この空間の温度だけが――主に和泉の醸すそれが、冷えている。

 金髪の美丈夫は、友好的に手のひらを差し出した。

さくから聞いてるよ。君のこと、うちの隊で受け入れることになったって。挨拶できて丁度よかった。留守の多い副隊長だけれど、よろしく」

 握手を求める手に、ややあってから和泉も応えた。ただし、表情は神妙なまま。

「……俺は、何をしたらいいですか」

「そうあからさまに警戒しなくていいよ。でも、話が早いのは助かるな」

 青い瞳がにこやかに細められる。

「頼みたい仕事があるんだ」

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