夜を越えて、きみと

藤野羊

プロローグ

 わたしには、記憶、というものが無いようなのでした。


 曼珠沙華が一輪咲いただけの、雑草の伸び放題な空き家の庭先。わたしのはじまりはそこでした。幼い子どもが真っ赤なクレヨンで力いっぱい描いたような、少しかたむいた感じの花でした。

 しゃがみこんだまま、塗り込めた朱をつついて揺らすばかりの子どもは、傍目はためにはいくぶん奇妙にうつったことでしょう。


 一見して住宅街である辺りに、人がいたかどうかはわかりません。

 わたしはおしりについた土を払って、立ちあがり――雑草がおおきいのか、わたしがちいさいのか。草のあたまがぴょんぴょん邪魔をする視界に、庭の出口を見つけました。

 濃い土の匂いをかき分けて、掴んだ洋風の鉄柵は、ぎいと音を立てて開きました。花といばらが装飾された、絵本に出てきそうなとびらは、表面がでこぼこと浮き出ています。

 古い血に似た、錆くさい匂い。

――ところで、わたしは何であったのかと。

 自分が歩いているものは道路で、きらきら光るアスファルトで舗装がされていて、脇の溝を覆うふたは開けてはいけない。そういったことは分かります。

 でもどうしてか、わたし自身がどこから来たかとか、名前だとか。あの曼珠沙華のそばにいた理由すら、てんで分からないのでした。分からないまま、歩きました。


 たくさんの車が走る、大きな通りを横切った先は、また、知らない家が集まっていました。窓がオレンジに光っていて、鼻をくすぐる生ぬるい匂いには、ほんのうすく、ひとの髪の脂が混じっています。

 街灯に足元を照らされ、わたしは夜を自覚しました。

 帰らなければ。そう咄嗟に頭に浮かびました。


――さて、どこへ。

 

 胸に浮かんだ問い掛けは、どこか他人事のような感触です。すると、さっきまで迫ってきていた、わたしを急き立てるものは、ふっと消えていきました。

 振り返っても、わたしの小さな影が伸びているだけです。

 わたしはひどく安心して、また道をゆっくり、なぞっていってみることにしました。

 さっき渡ったより細い道には、さっきよりも速い車が走っていました。なかなか変わらない歩行者用信号を待つ間、向かいの中華料理屋のメニューを読みあげてみたりしました。


 突然、悲鳴じみた声といっしょに、身体が強く引っ張られました。

 わたしには、そんな声を上げられるようなことをした覚えはどこにもありません。しかしよく周りを見ると、わたしがさっきまで立っていた場所に、赤い自転車が倒れています。

 わたしは、ラーメンにおぼれる夢を見たまま、かれるところだったようでした。

 わたしを庇ったその人――彼に。自転車の持ち主が平謝りをやめません。わたしと彼の無傷を理解して自転車を起こすまで、彼は優しく言葉を尽くしていました。

 わたしたちをするりと追い越していった後ろ姿に、自転車は便利だよなあと、うらやむ気持ちが過ぎります。


 信号を渡り切ってから、彼はわたしにもう一度、痛いところは無いかと聞きました。

 わたしは、ないと答えました。それでも彼は心配そうで、どこか痛くなったら病院に行くようにと、何度もわたしに言い含めるのです。

「病院に連れてってくれるようなひと、いないよ」

 言ってから、ひどくかなしい気持ちになりました。胸の奥がぎゅっとねじれて、名前のわからないあたたかいものが搾り取られていく、にぶい痛み。

 うつむいたわたしに視線を合わせて、彼がしゃがんでいました。彼は笑っていましたが、ほんの一瞬だけ、わたしの痛みが彼にも伝染したような、ぎこちない顔をしていた気がします。


 こうしてわたしは彼の家に招かれました。

 彼は一人暮らしのようで、アパートのお部屋はさっぱりしています。きょろきょろと眺めるわたしを我に返したのは、彼が用意してくれたラーメンのにおいです。

 思い出しました。わたしはとてもお腹がすいています。

 盛大にお腹を鳴らしながら、スープまで一滴残さず飲み干したわたしは、おなかが満たされてうとうとして、すぐに眠ってしまいました。


 彼はわたしをハナちゃんと呼びました。わたしがあの場所で、曼珠沙華を見ていたことを話したからです。「それに、笑顔が花みたいに可愛いから」わたしはその軽薄に畏敬の念を抱き、彼を少女漫画君と命名しました。

 彼はよく分かっていないようでしたが、名前を呼ぶと笑顔で返事をしました。

 少女漫画君は、わたしの素性について何も聞きませんでした。普段作るごはんを、ただ二人分、お皿に盛りつけてくれました。外に出たいと言えば、わたしには大きな手袋と帽子を貸して、もういいというまで散歩に付き合ってくれました。

 歩きながら考えても、わたし自身がだれなのかすら、見当もつきません。

 まだ冷える夜に、ふたり分の吐く息が白む様子を眺めてばかりいました。


 わたしはだんだん、あの恐ろしいものが、再び迫ってきている感覚に襲われ始めました。それは決まって、少女漫画君の家でのんびり過ごしているときにやってきました。

 あたたかいお風呂、おいしいご飯、ふわふわの布団に、甘いココア。そして時おり混じる、少女漫画君の鼻歌。――それらがすべてまぼろしで、ひどく頼りないまやかしのように感じるのです。

 ついに心が決壊したその日、わたしは台所で野菜を刻んでいた少女漫画君の足に縋って、ひたすらに泣き続けました。

 少女漫画君はやさしくわたしの背をさすって、わたしが泣き止むまでそばに居てくれました。そんなことが何度も続きました。


 恐ろしいそれの正体は、ずっと、分からないままでした。

 でも、その頃からぼんやりと。涙を流し、意味の解らない言葉を吐くたび、形のなかった輪郭がはっきりとしはじめました。大きな硝子に凍った霜を、体温で懸命に溶かしていくような、ひどくゆっくりとした変化でした。

 それはおそらく、わたしにとって大事なものであったように思うのです。


 わたしは一度、一人で外に出てみたくなりました。

 彼と二人では見えないものが、一人なら見える。ばかに根拠のない確信です。先に寝たふりをして、少女漫画君がお風呂に入った隙に、忍び足で外に出ました。

 春だというのに雪がちらつく、季節外れの夜空でした。


 散歩でたどった道を逸れ、細い路地へ、知らないほうへ、でたらめに歩きます。

 身体は冷え、手と耳の感覚が遠のいていきました。ばれないようにと先走ったわたしに防寒着の用意などなく、なけなしの体温は容赦なく雪に奪われます。

 かじかむ手のひらを吐息で暖めながら、それでも歩き続けました。そこにわたしの意思はありません。足が勝手に前に進んでいました。

 少女漫画君に出会った日と同じなのに、もうずっと、答えに近づいている。そんな焦りに背を押されるのです。


 身体の中心がぽかぽかと熱をもち、いつの間にか、小走りになっていました。

 走って、走って、それでもどこにもたどり着かない足に、ようやく実感したのです。


 わたしはそれに、ひどく焦がれているのです。


 ひとつ思い出してしまえば、どうして思い出せなかったかが分からなくなる。

 懸命に取り戻したひとかけらは、色々な感情を引っ張り出しては、あれこれとわたしに押し付けていきます。どれを受け取ればいいのか困ったわたしは、ただそこに立ち尽くすことしかできません。


 気付いたら、横には少女漫画君が立っていました。

 見上げたその顔が、見たこともないほど冷めていて、わたしは一瞬で顔を背けました。足がすくんで動けないまま、ずいぶん長い時間だったように思います。

 とさり、と軽い音がして、少女漫画君が尻餅をついて苦笑していました。その感じは、いつもの少女漫画君でした。

 やっぱり、怒るのは苦手だと。そう言って笑っていました。

 立ち上がってこちらに差し出した手は、氷よりも、冷えていました。


 帰る場所は見つかったの、と。

 少女漫画君は、わたしの心を見透かしたように問い掛けました。まだだよと答えると、いつもの顔で笑いながら、わたしに帽子と手袋をはめてくれました。

 片道だけで足が棒になったわたしを、少女漫画君がおんぶしてくれました。少女漫画君は華奢でちいさく、かんたんに潰れてしまうのではないかと心配だったのですが、そんなことはありませんでした。

 いつもよりも高い視界が、ゆらゆら、少女漫画君の歩調に合わせて揺れます。今はもう、懐かしい視界――元の「わたし」も、少女漫画君くらいの身長だったから。

 まだ形になっていない記憶を、意味の合っていない言葉で、ぽろぽろと喋り続けました。少女漫画君が踏み込みを遠慮してくれた意味は、あんまりなくなりました。少女漫画君はおおむね静かに相槌をうって、ときに質問を投げかけます。すると不思議と、答えを象る欠けた記憶が、ふわりと手元に戻ってくれるのです。

 冷たい背中に身体を預けたまま、わたしは心地よさで眠ってしまいました。


 わたしの記憶はもう、確りした手触りがありました。きっと明日、少女漫画君にすべてを話そう――そう思いました。

 マスクをつけ、声でなくなっちゃった、と筆談で笑う少女漫画君を見るまでは、決心があったのです。

 わたしにだって、その風邪の原因を察するくらいの余裕がもう、とうの昨日に生まれていたのです。


 少女漫画君は、わたしの記憶の中にも出会ったことがないほど、ばかだ、と思いました。考えなしで、直情的で、何より、こんな甘ったれのわたしに笑いかけてくれた、ひどくやさしい人なのです。

「どこか、……あの家じゃない居場所が、ずっと、欲しかった」

 少女漫画君を布団に押し込んでぐるぐる巻きにして、枕元に座りました。おでこが信じられないほど熱くて、あわてて体温計のありかを聞いても、少女漫画君は首を横に振るばかりでした。

 そういえば、少女漫画君は一人暮らしなのでした。盲点だったのだろうと思いました。

「歩いても、なにも見つからなかった。わたしに都合のいい場所が、都合が悪くない所になら――外の世界にならあるはずだ。そう思っていただけだった。……そんなもの、外にだってあるわけなかったのに」

 額に絞ったタオルをのせて、スポーツドリンクを渡すことしか出来ません。わたしはとても、無力なのでした。

 それでも少女漫画君は『ありがとう』と紙に書いて、ただ笑ってくれました。

「わたしを受け入れてくれるだれかがいれば、それだけでよかった」

 わたしは少女漫画君に、どうしてあのとき怒らなかったのか、と尋ねました。すると少女漫画君は、それはたぶん、俺の役割じゃあないから。と眉を下げました。

 少女漫画君は、魔法使い君だったようでした。

「それがあるかもしれないのは、外じゃない。わたしが逃げた、あの場所だ」

 少女漫画君の、家族のことを聞きたくなりました。少女漫画君はもらわれっ子で、今の家族と血のつながりは無いのだと、わたしに教えてくれました。

 わたしはいやなことを聞いてしまったかと思ったのですが、少女漫画君が家族のことを話す表情は、とても楽しそうなものでした。

 少女漫画君が少女漫画君になった理由が、なんとなくうかがえたような気がしました。

「もう一度。……もう一度だけ、向き合ってみよう。いろんなことは、それから考えればいい。ぜんぶ話して、わたしも聞いて、……たくさん、考えて、」

――それでも本当にだめだったなら、その時は。

 

 わたしは筆談の紙に、少女漫画君を見舞うための花束を、一生懸命描きました。すべての記憶が戻って、消えかかった手の感覚がおぼろげになっても、鉛筆を動かす手は止まりませんでした。

 自分が一体何をしているのか、その自覚も無く。


 無我夢中で伸ばした指先は、何とも知れないあたたかいものを掴んで、こちら側へと引っ張り出しました。


 甘いココアの香りがする真っ白な花束を、もう見えなくなった手で、少女漫画君に渡しました。

 少女漫画君はしばらく驚いていたようでしたが、花びらのやわらかい部分をすこしかいで、わたしの描いた花よりもずっとやさしい顔で微笑みました。

 男の人にそんな笑い方ができるのかと、わたしはどきりとしてしまって、しばらくの間、何も言えなくなってしまいました。



 少女漫画君が口を動かしました。わたしの意識は夢の中のようにふわふわして、身体もそこにはありません。それでも最後に、ひとつだけ後悔したのです。


 少女漫画君の声を、もう一度だけ聴きたかったな、と。

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