――これは全て、俺の、後悔のお話です。



 母さんの音は、この世の誰よりも鮮やかでした。

 太陽に照らされてきらきら光る、翠を秘めた深い黒髪。どんな色も溶かし込んだ万華鏡みたいな黒は、母さんの操る声とそっくりだった。

 その声は、どんな役でも演じてみせた。ままならない感情を、慟哭を。言葉にできない熱量そのまま呑み込んで、自分の内に落とし込む。時には一端を研ぎ澄まして、ある時には凍土の豊かさそのままに。

 自在な歌声にそれらをのせる。恋を懐古する老人にも、諦め悟った若者にも成ってみせた。まるでその内に何人もの人が住んでいるようで、それでも全部が母さんの声だと確信する、胸のざわつく引力があった。

 釘付けて、染め上げる。魔法みたいに惹き込まれた。憧れた。

 母さんは魔法使いで、俺達は少しずつ違った形に、この魔法を受け継いだ。


 母さんが亡くなったのは、俺達が十になるかどうかの頃でした。

 しんしんと降った雪が、全ての音を吸い込んで閉じ込めてしまう、とても寒い日――凍りの白は、俺達の世界にあった色も、音も、何もかもを奪い去っていった。


 身寄りを無くした俺を引き取ったのは、むかし母さんのいた楽団の座長さんでした。母さんをよく知るその人は、無意識だったけれど――俺に母さんの面影を重ねていた。

 母さんから受け継いだ魔法は、俺にそれを教えました。

 きっとこの魔法は、空っぽになってしまった俺がもう一度、たくさんの感情に触れられるように。俺がもう一度、その中身を満たしていけるように、助けようとしてくれていたのだと思います。


 でも、そのときの俺は――母さんの遺した魔法を、呪いだと思った。

 相手の心がどんな感情に占められているのか、何となく手に取れる。次々と俺の前に現れる人たちの感情が、くるくると浮かんでは消える。どれも違って色とりどりに鮮やかで、少し下をのぞき込めば、その誰もに、濁流みたいな密度の深みが窺える。

 何も持たない真っ白な俺は、あんまりたくさんの音を前にして、どうしていいのかわからなくなった。

 頭がずっと熱っぽくて、眼の奥に、光が舞うような錯覚がちらついていた。

 目の前のひとが、俺に、何を求めたいのかが――


 空っぽの俺は、不格好に「母」を、演じようとしていました。


 俺の浅はかな演技は、あっさりと、座長さんに見破られた。

 その人はひたすら、自分を責めて泣きました。俺に演技をさせたことが情けない。不甲斐ない、と。

 優しくてあったかくて、同時に、もう戻らない影を想う、身が裂かれるような痛み。その涙が、空っぽになっていた俺に初めて注ぎ込まれた感情でした。

 涙が止まらなくなって、俺も座長さんと一緒に、一日中、泣き続けていました。


 俺は母の魔法で、一つずつ、世界の色を取り戻していきました。

 楽団にはたくさんのやさしい人がいて、俺を俺として認めてくれて、暖かい居場所をくれた。少しずつ歌声が戻って、楽団で歌えるようになった。色んな人と声を重ねる経験をした。どれも、楽しい時間だったけれど。


 叶うなら、――俺の一対と、また歌いたい。


 楽団で初舞台を記念したその日、カーテンコールの中で大々的に、妹を探す決意表明をしました。ものすごく、……ものすごく。座長さんに怒られました。母さんによく似た美人だとけしかけて、その場をうやむやにして逃げました。

 座長さんはきっと、相良を実の娘のように可愛がります。俺には分かっていました。あの人は母さんのことをずっと、どうしようもなく未練がましく想い続けて、今も忘れられてない。そして何より、相良が可愛いことは真実だから。

 やっぱりというか、座長さんは俺に協力してくれました。そして――母さんの支援者だった人たちも。

 若くに亡くなった母さんのファンは本当に大勢いる。元々、母さんの魔法の後継としても俺を歓迎してくれてたその人たちは、大好きな人の忘れ形見が揃うことを、強く望んでくれました。

 母さんの支持層は身分に関係なくほんとうに広くて、俺はまた、まだまだ母さんには敵わないなって痛感した。


 俺の背丈が伸びきって、舞台にも随分慣れた頃。相良は俺に会いに来てくれました。


 背丈も、声も、手のひらの大きさまでぴったり同じ。やっぱり俺達は半分ずつなんだって、涙が出るほど嬉しかった。泣き疲れて眠ってしまって、目が覚めた俺の枕元には、相良からの置き手紙と――覚えのない花が、花瓶に一輪。

 相良が俺と同じように、半身である俺を探してた事が、何よりも心の支えだった。

 公演に都合がついた時には、最終日に必ず、花束を持って会いに来てくれた。だから俺は、そんな相良を、いつも思いっきり抱きしめに行った。

 俺は歌い続けて、そのうち母さんと同じように、歌姫としての二つ名までいただけるようになりました。

 その頃から俺は、相良を楽団に誘い始めた。

 相良が公演に見に来られることは滅多になくて、なかなか会えないぶん、つい。他の色んなことを、話したくってしょうがなくて。情けない話だけれど、その頃になってやっと、本来の目的を思い出したんです。……やっと一人前になれたから、これなら相良の居場所に相応しいって、そう思えたのも、すこしだけ。

 でも相良も、簡単には頷かなかった。

 相良も俺と同じで、優しい人達に恵まれて、大切にしてきた場所があったから。

 また、相良と会えない時間が続きました。なんだかいつもよりも気が塞いで、早く相良に会いたくてたまらなくなって、俺は毎日、花瓶を見つめてばかりいました。相良がいつも花を入れてくれる、旧くて縁の欠けた花瓶だけは、他の花を入れずに、いつも空のままにしてあります。

 沢山の綺麗な花束を貰うようになっても、頂き物で、見たこともない色や形の花に出会っても、俺が待っていたのはやっぱり、あの一輪だけの、飾り気の無い花だけで。

 俺の不安は――誘いが断られるって、予感していたからなのかもしれない。


 急に相良が遠くなってしまったように感じました。寂しくて、悲しくて、毎晩泣いてばかりいた。歌という俺達の絆が、他の誰でもない、相良に否定されてしまったような気がして、頭が真っ白になった。

 相良の顔を見るのが、少しずつ、怖くなっていった。

――相良にもう、俺が、要らなくなっていたら。どうしよう。

 公演の最終日が憂鬱だった。これが終わってしまったら、また相良に会えなくなる。

 次に会えるのは、いつだろう。


 これが最後になったって、有り得ない話じゃないんだ。

 相良が来てくれなくなったら、それでもう、――お終い、なのに。

 今まで絶対だと信じていた繋がりは、少しも永遠なんかじゃない。たったひとつのきっかけで、簡単に壊れてしまうものだった。


 それは、壊れました。壊したのは、俺でした。

 俺の目の前で、俺を庇って、相良は撃たれた。


 相良が俺の誘いを断った、二日後。覚悟していた公演の最終日なんて――馬鹿みたいだ。別れに前触れなんて無いって事を、こんな形で、身をもって、いまさら知った。

 ほんとうに、馬鹿だった。


 相良が抱いていた花が辺りに散らばって、鉄と花の匂いが混じりあう、生温い粉雪が舞っていました。相良の長い黒髪が、だんだんと赤黒く染まっていく。


 それを、俺は。見ていることしか――



――とても、寒い。

 コートもマフラーも持たない和泉が、薄着のまま、黒いアスファルトの道端で立ち尽くしていた。ずきずきと痛む包帯の下の傷と、喉が、いやに熱い。

 ウインドブレーカーを返した記憶はないものの、手元にもない。「ならいいか」と。考えるのをやめる。

 夜空を仰いだ。一面の暗い場所から、とめどなく、真っ白な粒が降りてくる。静かで、いつまで見続けても終わりがない。変化もない。音もしない。

 時間が、止まったみたいな空。


 守りたかったものは、とうに喪われていた。

 自分が「また」、この手を伸ばせなかった所為――なんて後悔すら、させてはもらえない。何も覚えていないからだ。だから、八つ当たりも、自責も――なにも。

 現実はただ静かに、事実の許容を強いてくる。

 記憶を持たない間抜けに、無理矢理「答え」を呑み込ませようとする。


「どうして相良が、死ななきゃいけなかったの」

 つたない問いかけには、誰も答えてくれないのに。


 経過は教えてやれないが、結果だけは納得しろという。


 次から次へと、溢れてくる。言葉はからだ。何だっていい――意味の無い譫言うわごとは、内容物とは一致しない。殻の中には、得体の知れない泥が詰まっている。

 果たして、言語になりうるものなのかどうかも分からない。

 だとしても。不完全でも吐き出し続けなければ、効率が悪くとも排出しづけなければ。今にも、喉が塞いでしまいそうだ。

 回顧と怨嗟えんさで、窒息してしまう。

 息すら出来なくなる。溺水させられそうな衝動を、遣る瀬が無い。

 認めたくない。

 認められない。

――認めない。


「そんなの、嘘だ」

 そんな事実など、知らない。


 雪が舞う。アスファルトに降り、積もりだす。北の街を氷で閉ざす――長い冬がはじまる。

 音が聞こえない。雪がすべてを吸っているのか、真実、此処が静かなのかは解らない。頬に当たって氷が溶ける感触も、ずいぶん遠のいた。この肌が、氷と同じに冷えきったから。分からなくなってしまったのだ。

 瞼を開ける。視界に白い粒がぼやける。睫毛まつげに雪が積もっていた。ふと見下ろした地面は白一面に塗り替えられて、見回す辺りの景色も全て、いつの間にか変わってしまっている。

 魔法でも、目の当たりにしたかもわからない――


 白いワンピース姿の少女が、そこにいた。


 ふわりと舞う雪が薄く積もったアスファルトを、真白な裸足が踏みしめる。

 嘘のように音がなく、存在感が希薄だ。体温で雪が溶け、黒く刻まれる足跡ばかりが、彼女が幽霊でないことを示している。

 全く同じ目線の高さ。同じ四肢のかたち。深い藍の秘められた黒髪がさらさらと揺れ、切り揃えられた前髪の下に、金色の大きな瞳がはめ込まれている。

「兄さん」

 気づいた時には、抱きしめていた。

 間違えようもない――その声。

「俺の名前、呼んで。……そうじゃないと、俺、……気が、おかしくなりそう」

「……兄さ」

「おねがい、だから……」

 強く抱く。確かめる。幻ではなく此処にいる。

 腕の中で戸惑う気配がした。「苦しい」と意思表示をする手が、控えめに和泉の背を叩く。聞き分けのない兄に、呆れてものを言わなくなる。

 全て、双子の妹の仕草だった。考え方の癖も、背を叩く優しい強さも、諦めに移るまでの間も。紛れもなく、焦がれた半身だ。

 仕方がない、と。その溜め息はとびきり淡白で、兄に甘い。


「和泉」

――貴方から呼ばれる名は、どうして、こんなにも愛しい。


 総身がぶわりと熱をもった。銀世界が、色をまとう。

 さっきまでの憔悴しょうすいが嘘のようで、事実、嘘だった――狂おしいほどの感情が溢れ出してくる。尽きそうもない。いまの自分なら、どんな事でも出来る気がした。何だってしてみせようと、思った。


 この身体は、相良を護るために在る。

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