幻日

 音高く、雪風が鳴いた。

 大粒の結晶が緩急に踊って、真っ白な路に舞う。力なく横たわる男の手に、薄氷が降り始めていた。

 微かに動く。ざりざりと、指が積雪を抉った。

 同じように倒れ伏す、揃いの装備のチームの彼ら――意識を戻せたのはたったひとりだ。

――なんたる無様だ。悪に敗れてこのような、

――いや。お前達ならできるはずだ。あと一人でもいい、起きられないか――

 部隊長たる彼の叱咤は届かない。

 ただし彼にも余裕は無かった。休む暇なく積もりゆく冷気も、掠れて半分雪に埋められた視界も気にならない。とにかく身体を起こさねばと、ままならないもどかしさに頭が熱くなる。

 音と、言葉。

 脳に根を張るのはその二つ。そこまでは覚えている。

 この手足を木偶に、意思と正義を霞に変えた。隙の有無は問題でない。その「警戒」にこそ針を掛け、引き寄せ礼して踏み込んだ。無色の毒に気付いた時には手遅れで、受け容れてしまったそれが、この身の内容なかみを変質させた。

 おそらくは。

 今となっては思い出せない。数秒ごと、ほろほろと不確かに崩れていく。「元あった」ものの手触りが遠のいて、初めからこうであったような安堵が染み渡っていく。

 

 何も変わらないはずだ。変わった? 何が。自分は何を言ってる。

 

 守るべき家族がいて、果たすべき責務がある。己の芯はここに有る。ならばこの違和感は、気の迷いで思い違いの錯覚だ。

 他人事の異物を頭から追いやる。

 任務は失した。己が伏せているのはそういう意味だ。惨憺たる現状に光を見出すなら、部下の命がみな無事であることか――彼らもまた人の親であり、誰かの愛し子だ。

 人命の前に面子など意味をなさない。どれほど情け無かろうと、命さえあるなら誇るべき勲章だ。何も失ってなどいないのだ。

 もはや敵意はなかった。握っていた手をゆるく解く。頬を埋める雪の冷気に幼い記憶を懐かしみながら、その眼差しをぼうっと緩ませた。

「じゃあ。お元気で」

 ひと好く笑った少年と、後ろに佇む瓜二つの少女。

 彼らを害する気持ち、など――一切、どこにもない。

 

 ■

 

「しーのーちゃん。ちょい、時間いい?」

 四時限目が終わり、昼休みにざわつく二年フロアの廊下。友人と移動教室から戻ってきたばかりの紫乃を手招いたのは、よく見知った顔だった。

 校則に掠りそうなぱさついた茶髪の少し下、その表情は珍しくも真剣そのものに引き締められている。

「何したんすかカザミン先輩。氷の女王陛下から逃げてきたんすか、大人しくお仕置きされに行って下さい。わたしも見た……付き添いだけはしてあげますから」

「違ぇよ!? ……あのな、オレがココに来るって、そんなん理由は一つだろ?」

 声をひそめ、場所を変えたいと主張する――拒絶の隙なく急き立てられる。

 心配そうな友人らに「友達だから大丈夫」と言い残すのがやっとだった。

 引きずられるがままだ。転ばないよう、追いかける足は自然と小走りになる。 

「カザミン先輩。からかったのはすみませんて。着いていきますから。逃げませんから……さすがに無言連行は怖、」

 風見はこちらを見ない。

――手元の教科書と筆箱、諸々の資料集を放り投げた。

 そこでやっと「見えた」らしい風見が、潰れた声を漏らしながら受け止める。山と積み上がり三冊、四冊――最後の一冊が滑りかけ、落ちるすれすれで止まった。

 一連の曲芸を拍手で称えると、当の資料集の角で軽く小突かれる。

 やっと足を止めた廊下の突き当り、紫乃を見た風見の表情は、珍しくも弱っていた。

「オレが目ぇ離してた間に、ヘンに、おかしくなっちゃったんだよ。イズミちゃん。なんか知らねぇ?」

 風見が「目を離していた」期間に、紫乃は心当たりがあった。

 あの日から一ヶ月経っただろうか。雪は本格的に街を埋め、間近に迫る長期休暇に気分が浮き立つ――今はもう、そういった時候だ。

 窓から見える渡り廊下、雪に足を取られる生徒をぼんやり眺めながら、風見の不安が堰を切るのを聞いていた。

「オレの話も上の空で」

「はぁ」

「どうしたんだよって聞いても理由教えてくんなくて」

「だと思うっすよ」

「北支部来ねぇし来てもすぐ帰っちゃうし」

「そりゃそっすわ」

「これからメシ行こって言っても前よか付き合い悪くて、メッセージも返信遅くて、こないだなんてきっぱりはっきり断られて」

「それは先輩の下心とか好感度とかそっちのハナシじゃないすかね」

「違ぇしバカ!!」

 涙目の風見を一通りいじめて、その辺りで攻撃をやめた。窓枠にすがってしゃがみ込んだ背中が、いつもより心なしか小さく見える。

 溜息と罪悪感とをねて、無理矢理に飲み込んだ。

 理不尽な八つ当たりだという自覚はあった。紫乃自身とて、現状を一体どうすればいいのかと、今の今までずるずる迷っているというのに――

 

 端末に保存してあった一枚の写真を、風見に突き付けた。

「最愛の妹さん、見つかったんすよ。寸暇も惜しんで可愛がりたいのと、まあ、この子にカザミン先輩みたいな虫は付けたくないって意味なんじゃないっすかね」

 そこには鏡写しの双子が、片や笑顔、片や真顔で、写し取られている。



「……中央本部、だあ?」

 喫茶店のテーブル席、座して足を組む羽住はすみは、珈琲の味をゆるりと堪能している。

 カウンター席から立ちあがり、彼女に詰め寄る。冬部の巨体に正面を塞がれた気配を感じたか、羽住が片目をすこし開けた。

「噂に聞く短絡だな。北の溝鼠ドブネズミ

「……おーおードブネズミだろうがゴリラだろうが上等じゃねぇか。中央のお偉いさんだか何だか知らねぇが、テメェらがあいつに何したか、忘れたとは言わせねぇ」

――お前は死ねと、そう言った。

 研究のため、人喰の情報を得るため犠牲になれと。あの作戦はそういう代物だった。

「我々は常に、社会の安寧あんねいと最大多数の幸福の為に動いている」

「目的が立派だろうがそうでなかろうが大して変わりゃしねぇ。他人の命なんざ、テメェらには見えてねぇんだろうからな」

 喫茶店は貸切。機密保持の為だと羽住が主張したためだ。そうは言えども雪深いこの時期、ましてや夜に、除雪の甘い裏路地へ入ろうとする輩はまれだろうが。

 店主である雪平も、注文の品を揃えてから席を外している。

 初対面の女に呼び出され、いぶかりつつも話を聞けば中央本部の使者だという――露骨に警戒する冬部に対し、彼よりずっと線の細い彼女は、威嚇に取り乱す気配もない。

「安心しろ。中央の計画の柱は再起不能だ。貴様を呼んだ理由は他にある」

「ああ? 何をごちゃごちゃと抜かしてやがる」

「貴様は未だ、安岐和泉が中央に『何を』提供していたか、無知だろう」

 羽住の指摘はまったくの図星だ。

 分かりやすく狼狽えた大男を前に、しなやかな指がコーヒーカップを静かに置く。

「情報開示は、貴様がこちら側に加担する事と引き換えだ。冬部さく、ひとつ問おう」

――貴様は、安岐和泉を殺せるか。

 書面を取り出し、テーブルに置く。冬部にその指令を下す旨の契約書。

 無機質な眼光は、声を失った冬部を冷静に見定める。

「計画が頓挫とんざした今、安岐和泉は、いつ鬼化してもおかしくない推奨処分対象となった。呪力値の高い個体が鬼化した際の危険性を、貴様も承知しているはずだ」

 鬼の危険度は、異能の性質と呪力値に依る。また呪力値の高い個体ほど、自身の力を御しきれない末路――暴走の危険を孕む。

 一般論として、呪力値の高い和泉を危険視する理由は分かった。

 

 テーブルの契約書に手をつき、拳を握る。

 ぐしゃりと潰れた紙屑を、作業着のポケットにねじ込んだ。

 

 契約書など不要だ。

「『安岐和泉の処分』にはうなずけねぇ。

 ただしあいつが鬼になるようなら、その時は斬る。それが俺の仕事だ」

 きっと、責任だったから。


 和泉が、一年越しに北を訪れた時の笑顔の下。細い首に絡みついていた、目の覚める鮮烈な山吹色の呪いを、今も克明に思い出せる。

 覚悟なら、あの時からずっと、していたのかもわからない。

「……世にはまれに、生前の記憶を思い出す人間がある。前世から知識と記憶の『贈物ギフト』を得た優秀な人財。中央は彼らを先祖返りとして集め、厚遇、保護している。

 安岐和泉が持つ才は、歌だ。他者の感情と共鳴し、心を動かす技術の粋。歌姫はその体現と呼ぶに相応しい」

 冬部は、棗の集めた資料を理解し切れていない。膨大な情報量というのが理由のひとつで、専門知識と学術用語の散見された資料を読めなかったのがもうひとつ。

「鬼化は、人の感情、執念の成れの果て。ならば、……動かせるのではないかと、考えた人間がいた」

 風向きに寒気がした。

 嫌な予感を、羽住が形にする。

「黒の歌姫。歌唱による働きかけを介し、初期の鬼化個体を人間に戻す装置だ」


――やわらかな音律が、粉雪にじゃれつき旋風つむじを巻いた。

 倒れた女を抱きとめる。石灰に似た脆い角が、和泉の手のひらに転がり落ちた。

 路地の奥。フードを目深に被った、角無の少女を見やる。

「……ほんとうに、良かったの?」

 共鳴させて、知っている。気を失った彼女の鬼化に根差していたのは、幼くして鬼籍に入った娘にひと目会いたいという親心だ。

 鬼化を戻す方法は、鬼化の原因たる感情、執着の操作。完全に消す事は出来ず、鬼化の再燃もありえなくはない――けれど。

「自分はあんたになんて言った」

「……『何も聞くな、この女を人間に戻せ。変な真似したらあんたの歌のことを世間にばらす』」

「声真似まで付けろとは言ってない。きもいな」

 鬼になるほど愛する娘を忘れることは。

 鬼になっても自身を想ってくれていた母に、忘れられてしまうことは。

 とても寂しく、悲しいことではないだろうか――

「脅迫してやらせてる奴に、気なんか遣うな」

 少女は吐き捨てると同時に、預かっていた相良の身体を、和泉に向けて突き飛ばした。軽い身体が跳ね、和泉の腕にすっぽり収まる。

 顔を上げた妹が、身内を甘やかす真綿の笑顔に相対する。

「お仕事、終わったよ。怪我ない?」

「彼女からは、紳士的な取り扱いを受けました。……ところで兄さん、私は着いてくるだけお邪魔かと」

「ごめんね。相良を家で一人にするほうが心配だったから」

 啄むように鼻が触れ、柔らかな黒髪を梳く。頬に触れ合い見つめては、同じかたちを確かめあう。

 角無の少女は胸焼けから目を逸らしつつ、寝息をたてる女のもとへ足を向けた。

 目尻に刻んだ皺が深い。痩けた頬を、震える指先で撫でる。

「俺にできる限りのことはさせて貰ったよ。角は抜けたし、呪力値も落ち着いてる」

「そう、……――」

 少女が路地を振り向いた。

 人の夜目には厳しい、黒ずくめの集団。その頭数や装備、呼吸に至るまでも。人の身よりも夜に適した鬼の目は、しかと全てを捉えている。

「……妹と待ってろ。散らす」

「いいよ。こっちより、お母さんを送っていって。……あの人たちの目的は、たぶん俺たちだから」

「は? いい、……って。あの数相手で人間のあんたに何が出来、」

 苛立った声が、和泉の表情を見て途絶えた。

「できるよ。何だって」

 相良を背後に庇い、冷たい夜気を吸いこむ。


 冬部がやっと、言葉を絞り出した。

「……鬼が、戻る? んな馬鹿な話が」

「本部での訓練期間と北での臨床経験を経て、彼は前代未聞の能力を開花させた。

 共感性で同調リンクした鬼の精神を、自身の心を基準の座標に、本人が元いた場所へ――人間のそれへと引き戻す。……言葉とするなら清廉潔白。揺るがない正義感と価値基準、高い呪力値でありながら鬼に堕ちない精神性を以て、ようやく可能となる奇跡の業」

 和泉が中央本部へと差し出したものは、歌だった。

 歌姫という技術。仮説への挑戦と実験に協力する対価に、和泉は妹の捜索への全面協力を要求した。中央本部は、和泉の齎す成果次第という条件付きで要求を許諾した。

 和泉は歌の研鑽けんさんを続けた。初めこそ不安定だった能力は、実地で磨かれ安定していった。より幅広い鬼の感情に、深く共鳴しうるものとなった。


「この技術は、洗脳の亜種だ」

 和泉はそれを自覚していない。


「感情も欲望も、それ自体が悪ではない。善悪は問わず人間の行動原理の根底にあり、切り離しようもないもの。だが、……歌姫がその気になれば、どんな鬼も人間も根刮ねこそぎそれらを削ぎ落とされ、物言わぬ肉塊と化すだろう。歌姫が鬼に堕ち、異能を暴走させる事態に陥れば、被害は計り知れない。

 この計画の肝は、歌姫の精神が鬼に堕ちるのを阻止する点にある。妹の死の隠蔽は、その為の措置だった」

 和泉の性質上、妹に会うという希望によって、精神は磐石ばんじゃくに安定する。

 また、万に一つの可能性として、妹を見つけた場合――歌姫の半身を発見した場合。歌姫の能力は更に強力なものになるだろう、と。希望的観測まで行われていた。

「妹の死を知る事は、歌姫の暴走の引き金になりうる。清廉たる歌姫が唯一、鬼に堕ちかねない危険性――貴様らが犯した愚は、そういう代物だ」

 冬部の肩が揺れる。初めて、羽住の声に反応を示した。

「最悪の危惧は現実となった。歌姫は現在、極めて危険な兵器だ。中央本部から派遣された多くの刺客が毒を受けた。もはや一刻の猶予も無い」

 

 楽しげな鼻歌が夜をうたう。

 最後のひとりの瞼を下ろして、雪の降り積る路地を、跳ねる足取りで三歩。相良の佇むそこまで、和泉を破ってゆけた人間は誰もいない。

「相良、かえろ?」

 手を繋ぎ、散歩の速度で雪を踏む。累々と転がる大人の身体をひょいと越え、こぼれるハミングを二人で掛け合わせる。

 同じ声、重なる旋律がくるくる色を変え、夜道に点々と星明かりを灯していく。

 

「歌姫が、北で恩師とまで慕った貴様にこそ可能な役回りだ――」

 大きな手のひらが、テーブルに叩き付けられた。

 器物損壊一歩手前、突拍子もない行動に出た冬部を見上げる。彼女の表情に変化はない。今にも怒鳴りだしそうな形相の彼を、冷めた目で見つめている。

 低い声は、怒りを全力で押し込めてなお、沸騰寸前に煮えていた。

「……ここまで胸糞が悪ぃ話、そう聞かねぇな。黙って聞いてるだけで限界だ。気分が悪ぃ。……絶対叶わねぇって分かりきった夢ちらつかせて、対等な取引みてぇな顔して、てめぇらだけが、和泉をいいように利用してたって話じゃねぇか」

 一年前、和泉の生命を有効に消費しようとした中央本部は、まだこれ以上、何もかもを食い潰さなければ気が済まないのか。

 大事にしてきた家族の縁と、愛しい記憶と、誇りとした技術。そのことごとくを利用し、例外なく踏みにじった。

 嫌悪を隠す理由も無かった。我慢も限界だ。一秒たりと聞いていたくはない。

「てめぇらがいいだけ他人の人生弄んだ、その正当なしっぺ返しだろうが。危険? 兵器だ? 上等じゃねぇか。それだけの復讐の権利くれぇ、充分過ぎるほどある」

 店の奥から雪平を呼び、勘定を済ませて席を立った。

 羽住は落ち着き払い、冬部を引き留めようともしない。変わらぬ事務口調のまま、

「調査を行った。あの娘、歌姫のほんとうの妹でも無ければ、」

――その背は振り向かない。

 音の欠けたドアベルが、羽住の声をかき消して、暫くの間鳴り続けていた。


 ■


 紫乃の背を押したのは、薄っぺらい四枚のチケット。

 自分はバイトで身体が空かないから、代わりに使って欲しいのだと。寂れたカラオケ店の受付でふにゃりと眉を下げられて、何となく貰ってしまっていたそれだった。

「いたいたーイズミン、相良ちゃんも」

 学校から帰宅して集まり直し、待ち合わせ場所のオブジェ前で合流した。

 揃いの防寒着を着込む双子は、粗の見つけようもなくぴたりと同一で、物珍しがる周囲の視線を大いに集めている。

 和泉が満面の笑みを浮かべ、紫乃に手を振る。白い吐息が落ち着きなく踊って、衆目が紫乃をも捉えだす――思わず人差し指をくちびるに当てた。和泉が首を傾げる。

 周りを見回し一歩下がろうとした相良も、和泉に腕を掴まれて逃げられない。

 北の街が伝統色のイルミネーションで彩られるこの時期は、同時に北の各地で旧い洋館や史跡が一般開放される。紫乃が譲り受けたちゃちなチケットは、催しに付随する各種サービスの優待券だった。

「……紫乃さん。私はあなた方のお邪魔をしに来たわけではなく、」

「見て見て相良! あっちのほう、すっごい綺麗な蒼だよ!」

――知っていた。単なる友人と最愛の妹、どちらを優先するかなど。火を見るより明らかだった。

 相良からの気づかわしげな視線が痛い。双子の妹に自身の煩悶を察されている気まずさが、情けなさに拍車をかける。和泉の態度に表向き差は無くとも、そこは恋心の為せる技。和泉の意識が自分に向いていないことには気付いていた。

 楽しげな和泉の横顔が、嬉しくも悲しい。

 晴れたのは幸いだが、同時に夜の冷え込みも厳しい。硬質に澄んだ星空を見上げる紫乃は、意識の空白を疑問に逸らしていた。

 二枚だけ譲ろうとしたチケットに、和泉が首を横に振って、

『俺と、相良と、紫乃ちゃんと。三人で行きたいな。だめ?』

 氷の音と混じる足音が、一つだけ止まる。

「紫乃ちゃん。相良のこと、頼んでいいかな」

――和泉の声は、ここまであたたかく滑らかで、「完璧」だったろうか。

 微笑む和泉に言葉を飲み込む。おぼろげでおそろしい気配をやり過ごし、何も分からない間抜けの顔をして、能天気に笑ってみせる。

「了解でっす。相良ちゃんと先に、次のとこ行ってていい?」

「助かる。連絡するから、それで落ち合お」

 あっさりと別れ、和泉の足は人気のない脇道に逸れていく。

 見えなくなった背中を暫く見つめてから、視線を相良に移した。

「とりあえず歩くかぁ、相良ちゃんや」

「……すみません。本当に、……本当に。あの兄は…………」

「まあまあ。分かってたってば」

 歩きながら相良を見上げる。顔の高さは、和泉を見上げた時と全く同じだ。生命の神秘とやらが、ぼやぼやとした感じで頭を過ぎった。

「紫乃さん。唐突ですみませんが、お話があります」

「んー、奇遇ね。わたしもよ相良ちゃん」

 道路脇に寄せられた雪が、イルミネーションの光を反射し彩り鮮やかに光を放つ。

 街すべてを覆い尽くす真っ白な雪化粧。白一面の景色は夜更けにも関わらず目に眩しい。街全体がぼんやり発光しているように錯覚する。

 思わず足を止めた。


 煌びやかな電飾の為だけではなく、街それ自体が奇妙に明るい。

 この世のものではない景色を目の当たりにしているような、えも言われぬ寒気が、背筋を這い上がる感覚がする。

「ねぇ、相良ちゃん」

 先ずはその、黒髪に手を伸ばした。手入れの行き届いた長髪が絹糸のようにやわらかく解ける。光に照らされた糸が、藍とも翠ともつきそうな、からすの羽根の艶を纏った。

 次に輪郭を確かめる。頬は冷たく、よく見れば鼻が少し赤い。

 さらさらと指を滑らせ、肌の滑らかな感触を楽しむ。

 遊ばれている側は、猫に似た金の瞳を戸惑いにまるめていた。

「えっとあの、紫乃さん……?」

 声は驚くほど和泉のそれだ。異なる人柄と困惑の感情のためか、和泉とぴったり一致はしないことを不思議に感じる。

 ひととおりをなぞり終え、紫乃は迷いながら、からからに渇いた口を開いた。


「あなた、……ほんとうに、人間?」


 きょとんと首を傾げた。滅多に動かない表情筋の、一部分だけ。

 口元だけが、三日月の形に笑う。



 近頃北の道端には、穏やかでない装備を整えた、大のおとなが落ちている。

 初めこそ何の事件かとおののいたものの、頻繁になれば感覚が鈍る。虚空の一点を見つめてまともな返答をしないそれらは、北支部までの回収が義務付けられた、極めて質の悪い荷と成り下がった。

 対策部の催事警備、巡回の最中にある風見がぐっと身体を反らした。人間の形をした面倒事は、今夜はやたらと数が多い。

 辟易しつつも一応、端末から冬部の番号を呼び出す。

「たいちょ? オレオレー。あいつらそろそろシカトでよくね? ただでさえ道凍ってんのにさあ、ロクに雪も寄せてねえ裏道回ってかなきゃなんねーし、クソ重いし……つか、雪山に埋めときゃばれねーって。な? そうしねえ?」

 愚痴めいた報告は、さして相手にもされず流されてしまう。風見も解ったようにおどけるが、冬部からの反応は芳しくない。

 そういえば久しく、いつもの怒鳴り声を聞いていないような。

 思い至って、ごく気軽に口火を切った。

「あ、そーだそーだ。イズミちゃんのアレ」

『呪力S、危険度S、角無し。安岐和泉を処分せよ』

 中央からの通達はつい一週間前。破格の報酬が掛けられた首は、指名手配と同等だ。全権を委任されたとする中央本部の男が北支部に陣取り、現在の指揮を取っている。

 押し黙ったままだった冬部が、スピーカーの向こうから、風見に意見を求めた――この処遇が妥当だと思うか、是非を問う。

 即答はごく軽い。

「たいちょにお任せっすわ」

『は?』

「色々と思うトコ無くはねーけど、まー結局オレの頭はたいちょじゃん? オレなりに中立っつー意味で」

 ここ一か月ほど、北支部に中央の人員が多く出入りしている。

 今回の通達に疑問を持つ隊員は少なくない。中央からの客観的な証拠の提示はなされず、納得のいかない指示に「とりあえず」従う殊勝さも持ち合わせず。互いに歩み寄りの気配のない彼らは、どこか一触即発の緊張感すら醸している。

 それに、と続いた声は明るい。

「たいちょの動き次第だ、って。珍しくどの隊も、おギョーギ良くして待ってんぜ」

 虚をつかれたような、冬部からの無音。

 風見は口角を緩めたまま、返答を待たずに通話を切った。



 ベンチで肩を落とし、相良は首を横に振った。

「理由は解りません。けど、怯えて帰ってしまって」

 和泉が相良と合流した時、紫乃の姿はそこになかった。慌てて連絡を取ろうと試みるが、そのどれもが通話中になって途切れてしまう。

 服の裾が小さく引かれたことに、遅れて気付いた。

「あれが、見たいです。兄さん」

 見上げる瞳の透明な金色に、和泉は暫く目を奪われる。宝石よりも澄んでいて、静かな湖面を思わせる。吸い込まれそうだ――気付けば無意識に抱き締めていて、人目を気にした相良の制止が露骨だ。和泉はとろけた笑顔のまま、細腕の抵抗を甘んじて受け続けた。

 相良の指す「あれ」。イルミネーションの無い、人の気配もしない洋館へと、和泉はその手を引く。ずいぶん冷えた指先に体温を分け与えながら、洋館の扉を押した。

 錆び付いた扉は、開いていた。


 煤けた絨毯を踏み、装飾の剥がれかけた階段を一歩ずつ上る。足音とともに木材の軋む悲鳴が響いて、冗談を言い合って吐く息が一瞬で白く染まる。

 奇妙なほど、寒い。この洋館自体が、氷で出来ているように思えた。

「いちばん、向こうの部屋です」

 すいと、細い人差し指が、廊下の突き当たりを示して静止した。

 和泉が頷いてまた、互いの指を絡める。

 ドアノブが緩んでいたが、慎重に押すと扉は開いた。

 物置部屋だろうか。隅々の壁紙が褪せた手狭な小部屋で、壁一面を覆えそうな大きさの「それ」は異質だった。

 枠が錆び、鏡面は曇り、装飾には蜘蛛の巣も張っている。

 割れていないことが奇妙なほどの、壁一面を占める鏡。――いや、

 こちら側にいる二人だけが、映っていない。


 立ち竦む和泉を追い越す。

 ただ、隣の部屋に歩いていくだけ――境界を感じさせず、相良の姿は、鏡の向こう側へと収まった。

 振り返った相良と、動けない和泉の姿が、鏡像としてぴたりと重なる。


 虚像が手を伸ばした。手のひらだけがこちら側、触れられる「現実」に在る。

――手招いているのか。

 ただ差し出された手のひらは、何も語らない。

「……連れてって、くれるの?」

 魅入られるように。触れた指がゆっくりと握り返される。


 柔らかなさざなみに似た音は、幾重にも。そしてようやくひとつ――床を叩いた。


 反射で音を確認した和泉が、顔色を失う。

 大きな鏡の破片が床に刺さって、褪せた光を弾いた。


 鏡を侵食する亀裂は、もうほとんど、鏡を覆い尽くしていた。


 植物が根を広げるように。意思を持った亀裂が、鏡面の世界を細片に変えていく。先程落ちてきた破片すら、何の予兆もなく砕け、風に攫われる。

――自壊を止める術は無い。

 一片たりと、この鏡を残すまいと。確固たる意志が、鏡をただの金属片に変えていく。力尽きた欠片達は次々と床に落ち、時に硬質な音を立て、和泉の周りに降り注ぐ。

 埃と混じって舞い上がった破片が、細氷となって溶けていく。


 手のひらがいつ離れていたのか。そんなもの、和泉には解らない。

 どうして。なんで、と。床に這いつくばり、温度を失くした金属片を掻き集める。ひとつひとつの「向こう側」を覗いては、これも違うと投げ棄てる。

 相良の姿を探し続ける。

「何処、ねぇ、さがら」

 無遠慮に掴んだ欠片が、肉を深く切りつける。幾本もの傷から溢れた粘着質な血液は、他の欠片を掴む度にぼたぼたと滴り落ちた。

 他の破片と擦れて広がり、赤茶けはじめた絵の具が古びた床を彩る。

 掴んだ破片の赤い雫を何度も拭った。切傷が増える。血が玉のように盛り上がって、次々に滴る。伝い流れる。

 自身の手から溢れる血だとは思いもしなかった。捜索の妨げとしか思えなかった。拭えば拭うほどに塗りたくられ、ぬめりが増す。それでも止めない。

 もしかしたらこの破片に、自身の探す「彼女」がいるかも知れないから。

「止めろ、和泉」

 後ろから羽交い締めにされ、床と破片から引き剥がされる。

 何を言われているかも、誰かも解らない。身体が動く限りに抵抗した。手にしていた破片が割れ、鉄錆臭い飛沫が舞う。

 自身を拘束するそれは、いくら暴れてもびくともしない。

「……和泉君、おねがい。こっち見て、気付いて」

 暴れる気力は底をつく。呼吸が整わない。粗い呼吸音は耳障りで、不規則な雑音だ。痙攣が四肢の自由を奪い、視界は霞む。理由の解らない涙が止まらない。

 息が、吐けなくなる。

 何も見えない。


「おいて、いかないで。さがら」

――妹を護れるようになりたかった。


 この生で、北で新しく出会ったものは、望んできたもののすべてだった。

 かけがえのない仲間と友人に出会えた。憧れ、追い付きたい背中を見つけた。無力だった自分が確かに変わった。何よりも、嬉しかった。

 その「変化」は、――悪だったのだろうのか。

「和泉君、ごめん。ごめんね。こんなの絶対、和泉君のためになんないのに……言わない後悔は、嫌だ。……あとで、いくらでも、恨んでいいから」

 妹が誘った死を、自分は、躊躇った。

 二人で一つだと豪語した、自分の半分の為に死ねなかった。それは悪だとする確固たる物差しがぐらついて――そのまま。鋭利なそれが、心臓を突き刺した。

 自分はきっと死ぬべきだった。

 死ぬべきだ。半分きりの不良品など。一人にすら足りない、出来損ないの身体を引きずってなお、生に縋り付こうとする行為が、あまりにも意味のないものに思えた。

 不完全な半分だけが生き長らえて、何の意味があるだろう。

 意味なんてないのに、どうして、痛い――


「生きて、ほしい」



 心臓が、動いているから。

「変化」を、「今」を。手放したくなかった。どれだけ無様でも、自分の命に意味が無くても、捨てたくない縁があった。その出会いには価値があった。

 未練が脈打っている。今に和泉を生かしている。

 死にたくなかっただけだ。理由なんて、ちっぽけで。

 縋りたいものも、守りたいものも、見付けたから。


――本当に。一回死んでも治らない、情けない兄貴だったなあ。俺。


「……置いてこうとしてたのは、てめぇだろうが。馬鹿野郎」

 紫乃に抱き締められていた。和泉に劣らず、紫乃も酷い顔で泣きじゃくっていた。

 和泉の顔を見て、涙の勢いがさらに増す。和泉はあっけに取られながら、何故か血みどろの手のひらを、慌てて紫乃の背中から離した。

 見上げた先には冬部がいた。一か月ぶりに面と向かった大男は、紫乃と同じく血で汚れている。連絡を絶っていた分の気まずさから、冬部がどんな顔をしているのか、確かめることが怖かった。

 俯いた和泉に、冬部が一歩、近づく。


「北支部であいつら全員、待ってんだ。帰るぞ、和泉」

 和泉の頬についていた血を強めに拭い、その黒髪を、乱暴にかき混ぜた。

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