屋上に始まり、終わるセカイ
野良ガエル
屋上に始まり、終わるセカイ
【月曜日】
俺は昼休みの屋上でいつも通り一人、なにをするわけでもなく寝転ぶという贅沢に興じていた。寝ているくらいなら迫っている試験の勉強でもした方がいいのだろうが、そいつは無理だ。この
俺は小学生の頃からすでに集団生活というものが苦手で、そのまま今に至る。集団があれば、そこに必然的に発生するグループ、駆け引き、格差、スケープゴート。表立って見えなくても感じてしまうそういう空気。そこから逃れるにはもう、一人になるしかない。
目を開け、心を閉じる。視界に広がる快晴の空は、限りなく心を無に近づけてくれる。しかし清々しく空虚な青は、突如としてその何分の一かが覆い隠されてしまった。雲ではない。人だ。彼女は確か、
……なぜ彼女がここに? しかもどう考えても俺を覗き込んでいる感じだ。覚えはないが、俺はなにか彼女に対してやらかしたのだろうか? どのみち、そんなことに思考を割いている時点で、俺の平穏かつ虚無な昼休みはここに終焉を告げていた。
「大変なことになったよ。トオル君」
藤倉巴は笑っていた。その第一声で分かるほど、彼女は『違って』いた。同じ空間にいて、何度か目にする中で構築されたイメージとはまるで別物の表情、口調。俺の呼び方も違う。
「大変なこと、って?」
俺は仕方なく起き上がり、背面の汚れを払いながら藤倉に向き直った。セミロングの黒髪が、屋上の風に揺れている。
「実はね、君は、白川徹は【小説の主人公】に選ばれてしまったんだよ!」
「……、はぃ?」
変な声が出た。そして、開いた口は塞がらなくなった。そんな俺の表情を見てか、藤倉は笑みをさらに深くする。いや、日本語的には難しくないんだが。
「そして、この私――――藤倉巴は【小説のヒロイン】に選ばれました。よろしくどうぞ」
お辞儀をしながら、制服のスカートの端を両手でちょいと摘み上げる。アレかあの『お姫様的なあれ』。残念ながら、ドレスのスカートとかじゃないので、全くサマになっていない。
「えっと、意味が分からないんだけど。ってか、藤倉さんそういうキャラだっけ?」
「いや違うよ? これはキャラを立てる為にやっているんだ。普段の私では、少々陰気臭い小説になってしまうだろう?」
不遜な語り。確かに俺の知る彼女は少し暗めではあったが、それでも『この藤倉巴』は『ない』。完全に中二病じゃん。
「えーっと、ごめん。なんかの罰ゲーム、とか?」
きっと当たりだろう。俺はヒエラルキーの低さになら自信があるんだ。そういうもののマトにされたに違いない。
「罰ぅ?! なんてことを言うんだいトオル君。罰どころかこれは祝福されるべき決定事項だよ。この世界において君とこの私はさしずめアダムとイブ。さぁ、ここから二人で物語を育んでいこうじゃないか!」
どうやら罰ゲームではないらしい。曰く、祝福らしい。俺には性質の悪い呪いに見える。
仁王立ちでドヤる藤倉。そのテンション高めの表情は、俺の話が通じないであろうことを雄弁に語っていた。
ハッキリ言って、マトモじゃない。表に出してなかっただけで、藤倉巴とは元々こういう人物だったんだろうか。
このとき、俺の頭は前日の寝不足と心の平穏を乱されたことによって、苛立ち易くなっていた。くそ、この女、黙らせてぇ。
「アダムとイブねぇ。んじゃあ、アダムとイブにならって俺らも致しますか? 俺屋上とか初めてなんすけど」
藤倉の台詞から印象に残った単語を抜き出して無茶苦茶言い、手をワキワキさせる。ま、どうせこれも通じないんだろうけどな。
一瞬の、間。
「ま、待ちたまえ! これは官能小説じゃないからっ」
藤倉はひどく狼狽えていた。
あぁ、下ネタは効くんだ。
って、ちょっと待て。ヤバいこと口走ってなかったか俺。なんでそっち方向に行った? 色々と溜まっていたとはいえ。
冷静になって世間的な正邪を考える。考える間もなく俺が悪いことになる。魔女裁判の絵が浮かび、即座に攻守は逆転する。攻撃は最大の防御なんて言葉はあるが、今の攻撃は最大の弱みと化した。
「い、今の発言はジョークなんで気にしないで! ていうか忘れて、マジで」
今度は俺が狼狽える番だった。
藤倉は腕を組み、顔を逸らしながら横目で俺を睨んでいた。
「頼むから、ね?」
両手を合わせて小刻みにお辞儀する。昼休みを妨害された挙句、なぜ俺は謝っているのだろうか。だが今の発言を尾ヒレ付きで世に放たれたらトンデモナイ事になるから、仕方がないのだった。藤倉に仲のいい人間がいなかったとしても、炎上には野次馬さえいれば充分なのだ。
「いいよ」
しばしの沈黙の後、にまっ、と藤倉は笑った。
「ただし、今日からしばらくこの私とこうして、昼休みに屋上で会話すること」
人差し指を立てて、圧をかけてくる。昼休みの貴重な孤独が削られるのは痛いが、ここはプライスレスな条件であったことを喜ぶしかないか。
「しばらくって。いつまで」
「だから、しばらく。具体的な日数が決まっているなら、その表現は使わない」
藤倉は口の片端をさらに吊り上げる。くそっ。俺の孤独で平穏な昼休みはどれだけ奪われるというんだ。しかし、
「おーけー、OK。了解しました」
背に腹は代えられぬ。最悪の事態になれば平穏な昼休みどころか、生活の基盤が崩れ去るかもしれない。
「そして、その際はこの私のことを『巴』と呼ぶこと」
いつの間にか指の形はVサインに、条件は二つになっていた。この訳の分からない戦いに俺は敗北し、彼女は勝利したのだ。
「分かったよ。それで手を打とう藤倉さん」
「と、も、え」
くうっ。
堪えろ俺。ここでまた下手に切り返したらもっと立場が悪くなる。
「分かった。分かったよ。ところで、と、巴」
気のせい、だろうか。藤倉の身体が微かに震えた気がした。
「最初に、俺になんて言ってたんだっけ」
覚えてはいるが、理解は出来ていない。だから、聞き間違いかもしれない。
藤倉はきょとんとして、そして笑った。口元に手を添えて笑っていた。邪気のない、小さな子供のような笑顔だった。
「しょうがないなぁトオル君。もう一回言うから耳をかっぽじって聞きたまえよ」
「君は【小説の主人公】に選ばれてしまったんだよ!」
あぁ、やっぱりそう言ってたんだよなぁ。
「そしてこの私は【ヒロイン】。喜びたまえ! 友達ゼロの君だけど、友人をすっ飛ばしてヒロインが現れたよおめでとう!!」
あー、うるせー。だが、友達ゼロは大して間違いでもないので反論はしない。
で、結局なにをすればいいわけ?
意味不明だし、目的もまるで分らない。一体なにの必要があってそんな茶番をしなければならないのか。
というか、なにをすれば主人公なんだ?
「そもそも、どうやって巴は……その……小説化? っつうの? そのことを知ったんだよ」
この話に付き合う時点でどうかしてもいるが、根本的なところは確認しておく。
「分かりやすく言えば、神の啓示みたいなものだよ」
うわっ。
「嫌な顔をすることなかれ。宗教上の神というか、神の視点とかの神だから」
知らねえよ。
「ほら、アレだよ。小説の冒頭なんてのはその世界においては連続する一場面でしかないのに、突然自己紹介を始める主人公がいるだろう? おそらく彼らが無意識に受け取っている啓示と同じものだよ。この私に降りてきたものはね」
ますます知らねえよ。だったら自分で主人公をやっとけよ。とは思ったが、口に出す元気は出なかった。
「そろそろ時間だから戻ろうか。では、明日もこの二人の物語をよろしく!」
俺の頭を埋め尽くす疑問符をよそに、自称ヒロインの藤倉は満面の笑みでクルリと一回転を決める。
やはりそのテンションは普通ではない。というか、スカートで足を上げるなよ、はしたない。
******
【火曜日】
昼休み。いつも通り屋上で寝転がる俺。だが、いつも通りにならないことを知っている。だから心には雑念が蔓延る。
適度に雲の浮かぶ青空を眺めていると、視界に藤倉巴が出現した。時間からして、下で昼食を摂っていたのだろう。
「こんにちは、トオル君」
「どうも」
俺は彼女の顔ではなく胸元の水色のリボンを見る。
予告されていたとはいえ、気分が沈む。表情には出てないよな?
「おやおや、ヒロインがやって来たわけだけど君は起きないのかい。この私は制服が汚れるのが嫌だから、残念ながら一緒に寝ることは出来ないが」
「俺だけ寝ててもオーケーなら」
せめて、身体くらいは寝てたい。
「ふふふ、屋上で寝るというのは主人公の見本みたいな行動で結構なのだけど、知ってるかい。ヒロインを適当にあしらうと、大変なことになるんだよ」
「大変、って。どんくらい」
「そうだねぇ、君のその行いに読者は大激怒。例えて言うなら、『アンケート至上主義の週刊漫画雑誌』でアンケート最下位を取るような危険度さ」
俺は身を起こす。
「そりゃあ危険すぎるな。数週間で世界が終るかもしれねぇ。しかし、読者、ねぇ」
目の前の藤倉が曰く、俺は小説の主人公に選ばれたらしい。
「つまり藤倉さ、巴が俺を主人公に小説を書いてくれるってこと?」
藤倉は「くっくっく」とわざとらしく笑った。てか、絶対わざとだろ。
「そんなちゃちな次元じゃあないんだよ。この世界の誰かが書くとか、そういう話じゃない」
「はぁ」
なんかテンションが上がってきているところ悪いが、俺は気の抜けた返事しか返せない。
「物分かりの悪い主人公でごめんだけど、いまいちそれがどういうことなのか理解出来てないんだよなぁ」
「考えるんじゃない、感じるんだ。君はただ君が感じるままに、あるがままであればいい」
藤倉は右手を差し出すように俺に向ける。あるがまま、ねぇ。誰かといるときにそれを要求するのは、割と無理難題だ。
それに、こんな風に屋上で会話してるだけの小説なんて退屈なんじゃないのか?
「それじゃあ、ここらで一つ思考実験とでもしゃれ込もうか。読者はおそらくこの私のルックスレベルが分からずイメージに苦慮しているかもしれない。というわけで、この私のルックスを脳内で描写してほしい。なに、答え合わせなど出来やしないから存分に盛って、どうぞ」
盛って、とか言い出しやがったぞコイツ。あるがままとは一体。などと心の中ではぼやきつつも、俺は一応脳内描写を試みる。目の前の人間を観察する。
藤倉巴――――現時点でのドヤ顔はかなり腹立つものの、澄ましていれば顔面偏差値は平均以上有ると思われる。目は吊りでも垂れでもない。黒髪のセミロング。胸は制服の上からだとあまり存在感がないから、脱いでもそこまでではないと推測する。背は高くも低くもないといったところだろう。 総合すると、悪くはないがヒロインを名乗るには華が足りず荷が重いという感じだ。ちなみに俺の好みというわけでもない。
「終わったかい、脳内描写」
「ああ」
「ちゃんと綺麗に描いてくれたかい?」
「綺麗っていうか、正確。正確に描く、つまり心が綺麗」
「悪いようにはしてないだろうね」
「だから、正確な描写。悪くは言ってない。真摯な対応、紳士嘘吐かない」
ちょっとカタコトになってしまったかもしれない。
「ふぅん。ホントかなあ」
疑いの表情で藤倉は俺に詰め寄る。一歩、二歩、近い――――そして、接触の一歩手前で止まる。
「君は小説の主人公。君のウソは読者にはバレてしまうよ?」
これはマズイ、嗅覚も刺激する距離である。文字通り空気が変わる。藤倉の値踏みするような上目遣い。まつ毛の形。距離感が狂うとさっきの見方も変わりそうになる。
「ま、いいや」
にまっ、と笑う。
「この私はトオル君のことを信じているよ。なんたってヒロインだからね」
主人公とヒロイン。
とはいうものの、普通なら物語の登場人物はそんな役割を知るはずもない。その時点でこの話はどこかおかしいのだ。もっとも、俺たちは物語の登場人物と違って、そんな荒唐無稽な話をしている以外はなんの特殊能力もない、波瀾万丈なストーリーもない普通人である。特に俺は、『どこにでもいる普通の』なんて口が裂けても言えない劣等感の塊だ。
主人公とヒロイン。
主人公にとってのヒロイン。
それを称するこの女は、一体なにを考えているのだろうか。
「気になってるんだが、小説の主人公ってことは、俺の思考はどこかにダダ漏れなわけ?」
話題を転換し、心の距離を取る。俺はふざけたこのシチュエーションに即して真面目に質問した。
「ふふふ、そうだねえ。お天道様が行動を見ているように、どこかの誰かが脳内を見ているかもしれない。だから行動だけでなく思考にも気を付けるべきだね」
「でも、人ってそんなに理論整然、というか順序立てた思考はしてないよな」
「うん。混沌としているね。それに、欲望や殺意が渦巻いてるから、そのまま垂れ流したらR指定がかかってしまうだろうしね。きっと大いなるフィルターみたいなものがあるんだよ」
適当だなこいつ。だが確かに、エロ展開がなくても日常の些細な出来事からR18以上の想像をすることもある、殺意も然り。思考の順序の問題もあるし、小説に書かれる内面というのはありのままではないだろう。
「トオル君は特に、負の感情で毎日がつまらないといったタイプだよね。日々を楽しむのが下手っていうか」
うるせぇな。その通りだよ。
俺は露骨に溜息を吐いて見せる。
当たりすぎていて反論する気も起きない。
「そんなトオル君には、私のとっておきをくれてあげよう。『神の視点思考法』を」
なんだそりゃ。
「つまり、神の視点が主人公の本来知りえぬ情報を暴き出すように、嫌な奴とかに勝手に設定を作って脳内でこき下ろすのさ! そして心の安寧を得る」
「はぁ」
よく分からない。つまり?
「君は、そうだね、おそらく隣の田島君のことが好きじゃないだろう」
あー、まぁー、好きではないな確かに。話していると、こっちを下に見ている感じが透けてくる。自覚ありでやっているなら論外だし、自覚なしならこれまた論外だ。というか、なんでこいつ俺の内面事情を知ってるのか。そんなに態度に出ていたとでもいうのか。
「君が田島君の言動で苛立ったとしよう。そんなときは、三人称の小説のように勝手に脳内補完するのさ。たとえばこんな風に――――田島には余裕がなかった。なぜなら唯一無二と信じていた彼女に浮気されており、先日酷いフラれ方をしたからだ。彼にはなんの落ち度もなかった。だが彼の心は今、地獄に落ちていた――――とかね。憐れむべき相手ならば、心に余裕も生まれるはずさ」
「田島ざまぁ(笑)。ってか捏造じゃんか」
別にそこまで恨んでもないんだが。
「でも使えるかもしれないな。つまり、こういうことだろ。藤倉巴はソシャゲの廃課金者である。しかし、とにかく運がない。僅かな貯金も底を尽き、ついには親の金にまで手を伸ばしてしまった。その罪悪感から逃避するために生まれたのが今の風変りな藤倉巴である、と」
「私は孝行娘だし、ご利用は計画的だよっ!」
上半身を乗り出し、藤倉は口を尖らせる。
「はいはい」
だから、近いって。
今のところ、主人公とヒロインはこうして屋上で与太話をしているに過ぎない。
この会話に、一体なんの意味があるのだろうか。
******
【水曜日】
「あー、また寝てる」
目を開ける。視界に飛び込むのは、曇天の空と藤倉巴。午前中色々あって俺は疲れていた。しくじったのは自分。自業自得。とはいえ、器の小さい俺の気分はどん底まで落ちており、横になった途端意識も落ちかけていた。
逃避癖は相変わらずだ。
「……わりぃ」
欠伸をしながら、身を起こす。あー、体が重い。
「ねぇ、柵のとこまで行こうよ」
「えー、下からこのツーショットとか見られたら面倒くさくないか?」
特に今は、どちらかと言えばお前の立場が悪くなるんじゃないか。俺はそういう意図を込めて藤倉の目をを見る。
「大丈夫だって、皆そんなに暇じゃないから」
自分は他人の中の他人、それすら忘れ――――、と口ずさむ藤倉。歌、だろうか。
「ったく、分かったよ」
俺はのろのろと藤倉の後に続く。横に並び、下の様子を見る。
「人がゴミのようだ!!」
「ちょ、なんんだよいきなり」
「って、言ってみないかい? スッキリするかも」
「やだよ。てか、そんな高さじゃねぇし」
たかだか、地上四階じゃあねぇ。そもそも、今の藤倉の叫びは下に届いてないだろうな。
「ゴミといっても大きさはピンキリだよ。むしろ目につくゴミはそこそこの大きさじゃない? 滅茶苦茶ちっっっっさいものをゴミというあたり、あの大佐はキレイ好きだったのかもね」
多分そういう話じゃねーと思う。塵と書いてゴミと呼ぶイメージでは?
「でも、だとしたら俺の部屋のゴミはあれでも小さすぎるわ。ペットボトルとか溢れてるし」
「んー、なるほどね。ペットボトルくらいに人が見えるのは二階が一番近いかな? じゃあ二階から叫ぼうか」
「出来るわけねーだろ」
俺は溜息を声にした。
「午前中は、大変だったね」
藤倉は優しく、労うような声を出した。
「言うなよ。昼休みはそういうのを忘れるためにあるんだぜ」
俺は気を使われるとみじめに感じるタイプなんだ。それにやらかしたのは俺で、自業自得な話だ。
「ごめん」
この屋上では珍しく、しんみりとした声。別に彼女に怒っているわけではないのだが、いちいちそれを言う元気もない。
「でも、安心してほしい」
「安心?」
俺は横目で藤倉を見る。彼女は自分の胸に手を当てて、歌うように告げた。
「君の心を疲れさせるものは、ここには一切存在しない!」
いやお前が、とはあえて言うまい。
「どういうことだよ」
「この世界、今ここ、昼休みの屋上という世界においてトオル君は小説の主人公、この私はヒロイン! それ以外の要素は存在しないっ! 今、この物語において世界の中心は間違いなくここ、否、世界はここにしかないんだ」
それは踊るような声だった。そしてあまりにもセカイ系な発言だ。
「いやいや暴論過ぎだろ。じゃあこうして見下ろしてる世界はなんなんだね」
「それは『屋上から見た景色』という屋上のいわば背景のようなものさ。君の知っている人間も、今は君の記憶の中にあるだけの『ただの情報』さ。目の前にいる、ヒロインであるこの私以外はね」
「でも午前中は確実に存在しただろ、嫌なことに午後だってこれからある」
「そうだね。だけど今は昼休みだろう? これは昼休みの物語だ。昼休みの屋上の物語だ。だから、この世界、この小説にはそれ以外が存在しない。この時だけは、なにもかも忘れて楽しもうよ」
もしもそんな風に、嫌なところだけはすっ飛ばして繋ぎ合わせたものが記憶だったら、どれだけいいことか。
「俺は、最初から嫌なことは忘れようとしてたっつうの」
それが出来ていたかは怪しいが。蒸し返したのはどこかの誰かさんだ。
俺たちはいつの間にか完全に向かい合っていた。柵の側にいながら、下界のことなどもはや眼中になかった。
不意に、強い風が吹いた。藤倉は短い悲鳴を上げ、スカートを押さえる。心配しなくても風程度じゃ見えやしねぇよ、と俺は思ったが、事態はそれだけでは終わらなかった。焦った藤倉は脚をもつれさせ、そのまま後方へ倒れ込んだ。
尻餅を表す短い悲鳴。
俺の目に飛び込む白。
正確には、白と灰色の中間色だ。
そりゃまぁ、今日は曇りだしそんな色だよな。俺は今――――空を見ている。
「トオル君、っ」
小刻みに震える声。
「せっかくサービスシーンの神が舞い降りたっていうのにあらぬ方向を向いてるなんてっ! 現実における貴重なパンチラシーンがこの小説に刻まれるところだったんだよ?!」
怒声に顔を向ければ、すでに立ち上がった藤倉が拳を握りしめて俺を睨んでいる。
正直、こんな時ですらスラスラそういうメタ発言が出てくるのは凄いと思う。でも、自分でパンチラとか言うなよ一応レディだろ。
「なんだよ。紳士の対応をしてやったのに、もしかして見られたかった? なら悪かったな。今からでもたくし上げて、どうぞ」
「っ、バカ」
耳まで真っ赤にした藤倉が、力無く呟く。
確かに馬鹿だ。バカバカしいしアホくさい。けど、おかげで少しは気が紛れた。
俺は心の中で藤倉に感謝した。
とっさに出た下品な発言は、どうやら見逃してもらえたらしい。
こんな会話がなんの役に立つのか、多分なんの役にも立たないだろう。
相変わらず昼休みに屋上で会話しているだけの他称主人公だが、そのノリには少し付いていけるようにはなっていた。
「あー、なんか怪獣でも魔王でもいいからやって来てさぁ、唐突に日常が終わりを告げねぇかなあ。なーんて、たまに思うよ」
日々蓄積する鬱屈。それでも生きていかなければならない現実。すべては無駄な抵抗だと思わせる『ナニカ』に終わりを責任転嫁出来たら楽だろうな。
幼稚な発言であることは否めないが、ぶっ飛んだ思考のこいつはどう返すのか。
「残念ながらね。そんなに親切な終りは、来ないよ」
口を開いた藤倉のテンションは予想した以上に低かった。小説がどうこう言う彼女ならば喰いつきが良いかとも思ったのだが。
「親切なのか? 怪獣や魔王が」
「そうとも。なぜなら彼らのような存在は、終りを教えてくれるからね。終りを意識し、ある種のカタルシスとともに生を終えることが出来るなら、それはむしろ良いことだよ。終りなんてものは、大抵がその予感さえなく訪れるものだから」
「まるで『終り』を知ってるような言い方だな」
藤倉は俺から目を逸らし、無言で肩まである黒髪をかき上げている。
なんだか、神妙な空気にしてしまったかもしれない。
「ねぇ」
こちらに目線を合わせないまま、藤倉が呟く。
「おぅ」
「炭酸は、大丈夫?」
炭酸。炭酸飲料のことだよな?
「へっ。あぁ、好きだけど」
こちらが話題を転換するまでもなく、全然関係ない質問が飛んで来た。
「パンと米は、両方好き?」
「あ、うん」
「そっか」
ここでようやく、藤倉は俺の目を見て笑った。
「それじゃあ、また明日」
今日の昼休みははこれでお開きとなった。
いつも異常なテンションの屋上の藤倉。それだけに、一瞬見えた暗い表情が妙に気にはなった。
こいつは一体、なにを考えているんだろう。
憂鬱な午後のことよりも、今はそのことが頭を占めていた。
******
【木曜日】
この屋上に誰かが来ることは殆どない。皆は別の然るべきスペースで昼休みを過ごしている。この屋上には幽霊が出る――――そんな噂をいつか田島が言っていた。俺以外に人が寄り付かない理由はその辺りかもしれないが、俺は霊感がないし他人より怖いものなどないからむしろ都合がいい。もっとも、そんな噂はなくともこの場所に人気はないだろう。昼休みに疲れた身体を引きずって上まで行く奴は物好きだ。人がくつろぐようには作られていないしな。
そんな屋上には先客がいた。
レジャー用のシートを広げ、その上に靴を脱いで女の子座りをしている藤倉巴だった。
「ふふふ。遅かったね」
余裕の笑みを浮かべているつもりなのだろうが、肩が大きく上下している。
「そりゃあ、俺は歩いて来てるからな」
誰かさんと違ってな。
シートは一人分空けてあった。巴は特になにも言わない。
俺は少し躊躇いながら、ヒロイン様の隣にゆっくりと腰を下ろす。屋上で寝るのが常態化していたため、こうして普通に座るのも随分と久しぶりだった。ましてや、誰かの隣など。
「トオル君ってさ、お昼食べてないよね。いつもここで寝てるとき、食事した形跡がないし、もしかしてダイエット中?」
失礼な。痩せる必要があるように見えるってか。こちとら能力はともかく体型は標準だぞ。
「別に、なんとなく食ってないだけ。出来るだけボーっとしてたいからな」
俺はちょっとした皮肉を返す。
「よかった。じゃあ今日は一緒にお昼が食べられるねぇ」
聞いちゃいねぇ。巴は嬉しそうに、シートの中央にある無地の白いトートバッグの中に手を入れる。
「トオル君のために今日は美味しいものを用意してきたよ」
そういって取り出したものは、袋だった。コンビニ袋。
「えっ。この流れ、手作りじゃねぇの?!」
失礼とは思いつつ、思わず口に出た。巴風に言うなら、物語的にはそっちの方が自然な流れかと思ったので。
「失礼だな君は! 私のお金で買い、私の手を経由して愛情を注入してあるならば、それはもう立派な手作りだろう。世の手作り派だって素材から手作りな人間は殆どいない。そう考えれば、似たようなものさ」
うん。似たようなものではないと思う。という心の内が顔に出てたからだろうか、巴は語気を強める。
「それとも君はなんだね! 不味い手作り料理と美味い出来合いの品、前者を食べたいという変態なのか!! 私は確かにヒロインだが、『完璧超人だけどなぜか料理が料理だけ壊滅的でそれに無自覚』――――みたいな天ぷら、失礼、テンプレヒロインと一緒にしてもらっては困る。私は、ちゃんと無知の知を知っている!」
うん。そんなにドヤ顔で自分の料理下手を誇らなくても、ねぇ?
プリプリと怒りながら取り出してきたのは、パンとおにぎり、そしてペットボトルだった。
「コンビニにおける、この私のもっとも好きなパン、おにぎり、そして飲み物だ」
「なるほど。組み合わせとしては、怪しそうだな」
ドーナツに近い菓子パン、肉系おにぎり、乳成分入りの炭酸飲料。ここで俺は昨日の唐突な質問の真意を知る。
「文句ばかりうるさいなぁ。この私は、これを揃えるために三種のコンビニをハシゴしたのだよ! 愛情の深さが分かるだろう。ちなみに、好物だから二人前食べるとかは余裕だよ?」
「すみませんでした。めぐんでください」
昼飯抜きが常態化している身でも、目の前で食われるのは流石にキツイ。
「分かればよろしい」
俺はコンビニ族の手から三種の神器を受け取った。
「どう? おいしい?」
やや、不安げな声。まぁ、自分がおいしいと思っていても他人の味覚は異世界だからな。
「うまい」
ただ、これは本心だった。
「ホントに?」
「ああ、読者に誓って嘘じゃねえよ」
巴は、自分好みの言い回しによる肯定的な感想がよほど嬉しかったのだろう。
「よかったぁ。ふふふ、やはりこの私のチョイスは間違いないね!」
台詞こそ不遜な感じだったが、ただただ嬉しそうな笑顔を浮かべていた。俺が目を逸らしたくなるくらいの眩しい表情だった。
俺が食べ始めたのを見て、巴も自分の分の封を切って食べ始める。その姿を横目で見る。この屋上ではよく大笑いをしているその口も、食べるときは女の子らしい小ささだった。ドーナツ風の菓子パンから欠片が制服に落ちる。それを取り除きながら、スローペースで彼女は食べていく。俺の食べる手は止まっていた。
もしもこの屋上に誰かが入ってきたら、俺たちはあらぬ噂を立てられるだろう。
だが、そんな心配も、なんだかどうでもよくなってきていた。
それに、ヒロインの言葉を信じるなら『今この世界には二人しかいない』。だったら、確かに無用な心配だ。
「そういや巴はさ」
「ん、なんだい」
「昼休み以外は、今まで通り普通だよな」
「そう見えるかい?」
「ああ、そう見えるね」
巴が『こう』なった月曜の昼休み以降、俺は彼女の様子を今まで以上に気にかけてみたが、驚くほど普通だったのだ。今まで通り、少なくとも俺なんかよりは遥かに上手く日々を過ごしているように見えた。
「ふふ、まぁギャップ萌えってやつかな」
「いやいや、ずっとおかしな奴がたまに見せるマトモさならグッとくるかもしれないが、比率が逆だろ。ずっとマトモな奴がちょっとの間おかしな言動をするなんてのは、ストレスによるアレみたいじゃん」
実際、ほかの連中がこの巴を見たら心配すると思う。
「ヤな言い方するね、トオル君」
確かに。だがそれは、なんだかんだで壁が崩れてきたおかげとも言える。
「でも、普段の私のことなんて考えても無駄だよ」
「なぜ」
「この世界には、君の言っている普段の藤倉巴なんか存在しないからだよ。この屋上ではこの私がヒロイン。そして君は他の連中と違って『この私』を独占出来るってわけだよ。だいいち、普段の私なんていうこの私の亡霊みたいな存在の話をされても、読者はきっと混乱するよ。この世界に、存在しない者の話なんてね」
昼休み以外の自分を亡霊呼ばわりとは。この巴が自分のことをいちいち『この私』と呼んでいるのは、たまたまではなく必然の強調だったのか。
「じゃあ巴は、普段は、殆どの時間は死んでるってことになるのか」
「うん」
即答される。
「君は? トオル君は、どうなの」
質問を返される。
俺は少し沈黙する。
「まぁ、大差ないかもな」
ぶっちゃけ、即答してもいいぐらいではあった。
「ところでさ、トオル君の好きな食べ物ってなんなの? この私の好物は今日紹介したけど、それだけだと不公平でしょう」
そんなに神経質になる話題だろうか。
「カレーだけど」
子供っぽいと思われそうだが、事実だからどうしようもない。いつ食っても美味いし大量に食っても飽きない。それが理由だ。
「そっか。カレーか。うん、覚えた」
「作ってくれるってか?」
「ううん。覚えておくだけ」
にへへ、と巴は笑う。なんだよそりゃ。
「あっ」
驚いた声を上げた巴。見ると、制服のスカートの上に肉系おにぎりの具の欠片が落ちていた。口に入れると嬉しい濃厚ダレも、服に落ちると厄介だ。
「あぁもうシミになってるじゃん。取れるかなぁ――――まぁ、別にいいか」
具を取り除いてハンカチで擦る。それでも残る頑固な汚れに、巴は諦めたようだった。
「ごちそうさん」
「お粗末さまでした」
巴が食べ終えたタイミングで一緒に手を合わせる。お粗末さま、ってお前作ってないやんけ、という突っ込みは飯と共に喉の奥にやる。
「写真を撮ろうよ」
「なんで?」
「別になんでもいいじゃない。アレだったら、一緒にお昼を食べた記念でもいいから」
屋上で異性と昼食を共にする。初めてのことではあった。今更感はあるし相手はこんな奴ではあるが、どちらかと言えば記念すべきことなのかもしれなかった。
俺が煮え切らない態度をとっていると、巴はトートバッグからずるりと自撮り棒のようなものを出してきた。計画的じゃねえかよ。
「分かった。好きにしろよ。ただし拡散するなよ」
自分でもなに様だと思う発言だが、ツーショットの写真は危険物だからな。
「するわけない。君にも送らないし。そもそも連絡先を知らないしね」
「あっ、そう」
屋上で二人で会い、今日は飯も一緒に食ってはいるが、俺は巴の連絡先すら知らない。先週までは殆ど会話することもない間柄だったのだから、不思議な話ではない。そして、屋上以外では今まで通り喋っているのだから、連絡先は知らなくても問題はない。変な関係ではあった。その変な関係こそが巴の所望する物語なのか。
写真を撮り終え、巴はニヤニヤしながらスマホの画面を眺めていた。
俺にとっては激レアな、異性とのツーショット。一応どんなものかと確認しようと身を乗り出すが、巴は咄嗟にスマホを胸に抱え込んだ。
「だめ」
「なぜ」
「読者ですらこの写真を画像として見ることは出来ない。この写真を『見る』ことが出来るのはこの私だけ。そっちの方が断然良い。一人だけと二人では、ゼロと1とくらい絶対的な差があるんだよ」
「俺の肖像権は?」
巴は答えなかった。代わりに、スマホを抱え込む手に力を込めた。なんとなく俺は、散歩で帰ろうとしたときに「断固動かぬ」という感じでその場に居座る犬を連想した。
好きにしろよ。ただし俺との写真に言うほど価値はないぞ。
「ふふ、今日は楽しいねぇ。主人公とヒロインらしいイベントだ。幸せな時間だよ。ねぇ、トオル君」
「あー、まぁ」
突然のひねりない言葉にひねりなく返せるほど俺は男ではない。
「たとえこの先なにがあろうともね、物語として切り取られた幸せな時間は不変なんだよ。今日という日は永遠に残る。物語の外がどうなろうとね」
かみしめるように言う。
「そんなもんなのか」
「そんなもんなんです」
上機嫌な口調で、巴は言った。
巴は昼飯のゴミと自撮り棒、そしてシートを畳んでトートバッグに入れる。
昼休みの終わりは近い。俺たちは屋上のドアへ向かう。
「なぁ、巴」
「うん?」
「結局、お前の言う小説ってのは、どういうことなんだ?」
これは、真面目な質問だった。
ふざけた会話劇を貫く【小説】という概念。それがなんなのか。どういうことなのか。巴がなにを思っているのか、考えているのか、気になっていた。おそらく、この質問の深度は声のトーンで伝わっていると思う。彼女がそういう機微を察する人間だということは、なんとなく分かってきた。
「たとえば、星」
静かに、語りが始まった。俺は真剣に耳を傾ける。
「星は、それぞれがとてつもなく大きいし、個性がある。けれど、これだけ離れていると、一見見分けのつかない夜空の星になる。この地球だってそう。球状をしているとはいっても、今こうして存在している僕らにはそれが知覚出来ない。地面は平面さ。それは、距離の問題でそう感じる、と言えるかもしれない。でも、この私は単に距離の問題ではないと思う。それは次元の違い。次元の違い。捉え方の次元が異なっている――――」
藤倉の目が、俺の目を捉えた。
「だから、こうしてこの世界を生きている私たちに対しても、別の捉え方の次元が存在するんじゃないかと思ってる。私たちの行動が、文字として捉えられ、残る次元がね」
言っていることはぶっ飛んでいるが、その語りは真剣そのものだった。
「それが、小説の次元?」
分かるような、分からないような。しかし、巴がこの概念に持っている深度だけは分かった。俺には計り知れないという意味で。
「その次元で登場人物たちは、永遠の生を生きるといってもいい。ただし観測者が、読者が存在しなければ、存在自体が無い物といってもいいかもしれない。生き続けるし死に続ける」
それが、藤倉巴の考え。
なぜその小説の次元において俺が主人公となり彼女がヒロインとなっているのか。なぜ屋上の昼休み限定なのか。そういった疑問は、おそらく意味をなさない。
そういう物語なのだろう。謎の納得をしている自分が
特に行動をしているわけではない主人公。俺は、これからなにかをすべきなのだろうか。
******
【金曜日】
小雨が降っている。
流石に屋上厨の俺でも、こんなときは中でおとなしくする。試験も近いし、やることはなんでもある。
だというのに、俺は傘を持って屋上に来ている。完全なる奇行である。
今日は止めにしておくか? そう巴に下で確認をすればいい話だった。だが、ここ以外の場所で彼女に声をかけるのは、人目を気にするという理由だけでなく躊躇われた。それに、あの変人ならばという謎の信頼もあった。
そんなわけで俺は、寝転べもしない濡れた屋上に、ただ立っていた。
静かな灰色の屋上。傘が受け止めきれなくなった水滴が目の前に滴り落ちる。それを眺める。
(流石に、今日はないか)
その考えが浮かび上がったとき、背後でドアの開く音がした。
振り返る。ドアの隙間から巴が顔を出す。ピンク色の傘を広げる。俺は黒い傘の内側で、多分薄く笑っていた。
「ふふ。下に君の姿がないからもしかして、と思ったんだ。でも、まさか本当に雨の日の屋上にいるなんてね」
近くまで来て巴はそう言った。
「今日も今日とて、主人公とヒロインはここにいる! 誇ってくれ、やはりトオル君は私にとって最高の主人公だよ」
巴はそうした表現を、少なくとも自分の中では真剣に扱っているのだと思う。だから込み上げてくるものが少しあった。
「土砂降りだったら、さすがに出てこねーよ。ただ、このくらいならまぁ、約束しちまったからな」
この屋上で毎日話をすること。それが彼女の言った事だ。
「なるほどね。じゃあ今日は珍しく神にでも感謝しよう。ありがとう」
巴は目を閉じ、笑った。
少しの静寂。
「ねぇ」
「世界が終るとしたら、その色は黒、白、どっちだと思う?」
世界の終り。それは少し前に俺が話題に出して、空気が重くなった話だった。
俺も目を閉じ、黒い世界で答えを探った。
「白、だな」
「どうして?」
「この世界が、小説だから」
この回答を、巴は気に入るだろうか。
「っく、あはは」
彼女は笑っていた。その心は。
「いいね、いいねぇ! 実にその通りだと思うよ。だけどもさ、だとしたら今日の空はまさに終りの空、そんな色をしていないかい?!」
目の端の涙を拭うような動作。もしくは、雨でも目に入ったか。
「いや、白じゃなくて灰色だ。それはきっと文字の黒が溶け出しているんだろうぜ。だから、まだ終わらない」
スラスラと、中二病的表現が出てくる。まぁ、もとを正せば俺もこういう人間ではあった。昔は好きだったのだ。こういう概念的遊戯が。
「あはっ、っはははっ! くっ、っくく、あははは」
そんな俺がツボに入ったのだろうか。藤倉はこの濡れた屋上で転げ回りやしないかと心配になるほど笑い転げていた。
「最高だよ! っ最高だ。もう大好きだよトオル君! ――――でもね」
笑いが止む。
「世界は、終わるんだよ。今日」
そこに冗談めいた雰囲気はなかった。
だから、俺は言った。
「そう簡単に終わりゃしねえよ」
そんな中二病的な概念論で、俺たちが嫌う亡霊の時間が、現実が消えてなくなるわけがない。別に良い意味だけじゃなく、むしろ悪い意味でそんな簡単に終わりは来ない。不運に選ばれた突然の終りなんてのはニュースで目にもするが、世界は存外にしぶといのだ。
「はたしてそうかな? 君が、私が抱いているイメージ。それは所詮想像にすぎない。この世界はどこまでが本当でどこまでが想像か? ともあれ、想像なんてものは簡単に裏切られる。イメージは崩れる。世界が簡単には終わらないというのも、それはただの想像。思い込みなんだよ」
お前の主張だってそうだろ、と思った。
たとえば、俺の目の前に存在している景色、目の前に立つ巴のどこか寂しそうな立ち姿、ここ数日で見慣れた制服姿の彼女。それらは間違いなく存在している。イメージ? 思い込み? そんなもので世界を作れるほど俺の頭は上等じゃねぇ。
だが、反論よりも先に藤倉の口が動いた。
「今日で、私はこの会社からいなくなる」
言葉はシンプルだった。意味もシンプルだった。
だが、理由は分からない。
「なん、だって? 今なんて、言った」
聞き間違いかもしれない。
「私は、今日、この会社を辞めるんだ。だから、今日でお別れだよ」
巴は傘を手放す。屋上の地面に転がるピンク色の円。彼女の制服には、瞬く間に雨の染みが広がっていった。
「どうしたんだよ、急に」
そういう兆しは、なかったはずだ。
こいつは俺よりも上手くやっているように見えていた。
理由はなんだ? 人間関係、仕事の内容、あるいはもっと個人的な事情。
「別に、急に決まったことじゃないのさ。もっと前から決まっていたんだ。もっともその頃、君は『私』を見てもいなかっただろうけどね」
巴は笑う。その顔は雨で濡れている。
確かに言う通りだった。
俺は他人に興味がない。なかった。
学生時代を上手く生きてこれなかった弊害で、他人と関わるのが恐ろしかった。
昔のことを思い出す。居たくもない教室、全てが悪口に聞こえる人の群れ。本当は屋上とかに行って一人で過ごしたいのに、学校における屋上は一部の人間の溜まり場と化していた。その反動もあって、社会人になった俺は昼休みは会社の屋上で独り、飯も食わずに過ごしていた。要領が悪く仕事が出来ない俺にとっては、結局会社も居心地の悪い場所だった。だから、毎日昼休みだけは誰とも関わらずに心を落ち着かせていたってのに。
「お前は最初っから、終わりを知ってたんだな。人の昼休みを邪魔するだけして、勝手にいなくなるってか?」
矛盾した発言だというのはすぐに分かった。邪魔者ならば、一刻も早くいなくなった方が良いはずだ。
巴はしばらく答えなかった。雨はすでに彼女の全身を染め上げていた。
「シナリオは、二つあったんだ」
微かに震えた声で巴は言う。
「私が会社を辞める前の最後の一週間。この間に、君と二人きりでお話をする。問題は、一番言いたいことを最初に言うか、最後に言うか。私は、その後の展開の変化恐れて後者を選んだ」
ゆっくりとした、しかし妙にはっきりとした声での語りに、俺は割って入ることが出来ない。
巴は深呼吸を三回、徐々にストロークを短くして繰り返す。
そして、
屋上で異性から告白される。
自分とは無縁だと思っていたシチュエーションの、突然の到来。
ハッキリ言って、俺には混乱しかなかった。
「なんで、俺なんだ?」
思わず口にしていた。
にまっ、と巴は笑った。
「残念ながら、この世界の終りまでもう時間がない。想像にお任せするよ。それに、謎が謎のままなんてことは現実じゃあよくあることだよ。謎も、意味深な伏線も、回収される必然はないんだ」
俺は人に好かれるような人間じゃない。それは今までの人生経験を踏まえた自他共の評価として揺るぎない事実だ。なぜそんな俺を巴が好きだというのか、この俺に分かるはずがない。
「最初に告白して、君が受け入れてくれたら残りの期間を甘々で過ごす。そのパターンを選ばなかったわけだから、この私のことは、最後までミステリアスなヒロインでいさせてほしいな」
自嘲気味な声。そうだ、ヒロインだ。
「一体なんだったんだ。主人公とかヒロインってのは」
「トオル君の人生はトオル君が主人公ってことさ。そして、君は自分で卑下しているほど魅力のない人間じゃない。君に惚れるヒロインだっているんだ。それを知ってほしかった。一つの側面は、そういうことさ」
別の側面とは、なんなのだろうか。おそらく、答える時間はないのだろう。そう、昼休みはあと少しで終わる。
巴が言っているのは、人生の主人公は自分だという一般論の域を出ていない。それは確かに事実ではあると思う。だが集団の、社会性の目で見たとき、人は歯車か、それを駆動させる方に二分される。大抵の人間は歯車で、俺はその中でも不良品の方の歯車で、摩擦を起こしながらも無理やり自分を噛み合わせてきた。そして、歯車の物語なんて無視して進むのが社会ってやつだ。そんな世界で、自分が主人公だなんて思えるはずがない。
自分でも嫌になるほどマイナス思考が溢れ出して止まらない。負の感情はひたすら足し合わされるだけで、掛け合わさってプラスには転じてくれない。
「世界が終るってのも、嘘なのか。ただのたとえか」
嘘に決まっている。でも俺は力なく声を投げかける。
それを聞いて、巴は意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「さて、そいつはどうだろうね」
いつの間にか、雨は止んでいた。
「ねぇ。君は、この世での最後の会話がこの私とのものだったらどう思う?」
「俺は」
瞬間、巴は俺の答えを遮るジェスチャーをした。
「いや、やっぱり、やめとこう!」
そそくさと傘を拾い、折り畳み、ドアに向かって駆け出す巴。俺はいまだに傘を開いたまま、その成り行きを見ていた。
ドアノブに手をかけ、巴が振り返る。
「今の質問の答えは、この私に教えなくてもいい。でも、昼休が終わる時には考えておいて。この世界の締めくくりとして」
濡れた顔が笑う。
そして、ドアを開けて向こうに消える寸前に、巴はこう言った。
「この私との話に付き合ってくれてありがとう。とても、幸せな物語だった。――――大好きだよ――――さよなら、トオル君」
閉まる音。
ピリオド。
世界は静寂に包まれる。
こうして、俺はこの世界に取り残された。
他には誰もいなくなった。
昼休みの屋上にただ一人。
いまだに傘を握りしめたまま呆然と立ち尽くす。
独り、ひとり、ヒトリ……望んだ静けさのはずだった。
一人。
いや、
本当に、そうか?
本当に、俺一人だけか?
いるんじゃないのか、俺を見ている誰かが。
巴は言った。俺は【小説の主人公】、自分は【ヒロイン】だと。これは俺と彼女の【昼休みの屋上の物語】だと。
だったら、いるはずなんだろ、【読者】も。
なぁ、そうなんだろ。
なんてな。
あいつに毒され過ぎだ。俺は一体なにを考えてるんだろうな。
ようやく傘を閉じ、空を見る。小説の終わりのような、白い空を。
でも、もしも見ている誰かがいるなら、今の心境を聞いておいてほしい。
知覚できない何者かに向けて、あるいは自分自身に向けて。俺は祈るように述懐を始める。
あいつの最後の問いかけ。この世界での最後の会話が自分とだったら、どう思うか。白川徹は藤倉巴のことをどう思っているのか。
そもそも、俺たちがまともに会話をしたのは、今週の五日間分の昼休みだけだ。俺は結局、制服姿の彼女しか知らない。
告白されたからどうだとか。
巴の事が好きか嫌いかだとか。
そんなことは簡単に整理出来るはずもない。
あいつはもしかしなくてもヤバめな奴で、関わらない方が吉だとも感じる。
だがそれでも、
まだ、話し足りない。
これだけは確かだった。
言いたいことや聞きたいことが、具体的には言語化できないけれど沢山ある。言葉にならない感情が、現在進行形で生まれ続けている。ずっと忘れていたような、あるいは初めてのような感覚。
その中でただ一つ確かなこと、
綺麗な【終わり】なんてクソ喰らえだと俺は思った。
もう間もなく、昼休みの終わり。
俺と彼女と、昼休みの屋上の物語は終わる。
ここでそれを見届けるというのは、つまり午後の仕事に遅れるってことだ。水曜日に仕事でやらかしている俺は、さぞかし大目玉を喰らうことだろう。
近々資格試験だって控えている。他人に割く時間なんて本来はない。
でも、それらは全て、屋上とは別の下界の話だった。
今、一つの世界が終ることに比べれば、どうしようもなく小さな事だった。
セカイの終焉を告げる鐘が鳴る。
いつもは下で聞いていた、憂鬱な午後との境界線。それは安っぽい音の録音されたチャイム音だ。
耳慣れたはずの音は全く違う印象で、ありえないほどのスローペースで終わりを刻んでいく。しかし止まることはない。
不意に、まるで走馬灯のように記憶が脳内を流れる。ここでの、巴との会話。
思い返せば、本当にどうでもいいような内容だ。
仕事にも一切関係ない。
生活の役に立つわけでもない。
ただここにしか存在しない、意味のない、実のない、馬鹿みたいなやり取り。
周りを一切気にしない二人だけの会話。
そんなもん、
楽しかったに、決まってるだろうが。
終末の鐘の終わり。
俺の心は、既に決まっていた。
あいつのことは必ず――――この物語の外で捕まえる。
【World's End】
屋上に始まり、終わるセカイ 野良ガエル @nora_gaeru
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