インフルエンザと一緒じゃん。


ふぉぉぉぉぉしっかりする


 沈黙。


「は?」

「あ」

「いま、『ふぉぉぉぉぉ』って言ったでしょ」

「言ってない」

「いや、言った」

「嘘だぁ」


 とわたしは混乱しきって、ひきつった笑いを返すしかない。


「逃避しないの、現実から。いや、上野にとっては虚構から? どっちでもいいけど」

「噛まれてないじゃん、わたし。ウイルスがうつる余地ないじゃん」


 高嶺は右上に視線を漂わし、考える。


「あ、上野、目擦ったでしょ。粘膜からうつんだよ」


 泣いたときだ。涙を拭った。


「たしかに触ったけども、教えてくれなかったふぉぉぉぉぉじゃん

「そんなの、常識でしょ?」

ふぉぉぉぉぉゾンビ映画オタクのふぉぉ常識は世間のふぉぉぉ非常識でしょ?!」

「ふぉーふぉー、うるさい。基本的にインフルエンザ予防と一緒なんだ」

情報源ソースは?」

「ゾンビ対策マニュアル」

「同人誌じゃん」


 分かってないなぁ、と高嶺は大きくため息を吐く。


「もー、いいよ。よし、早く行こ、川崎に。ペースを上げよう」


 と、細い路地から出ようと高嶺は、わたしに背を向けて足早に歩を進める。


「え。ちょっと、待って」


 わたしは高嶺の背中に声を掛ける。高嶺は振り向きもせず止まる。背中に重たい影が差している。


「わたしはうつってんのに。ゾンビウイルス」

「だから……なんなの?」


 高嶺は苦々しく呟いた。

 わたしは高嶺が不自然にスルーしようとした事実にしっかり触れた。


「なんなの、って。もうさ、自分はダメなんだって。別々に行動しよう」

「ちゃんとした病院で治療すれば、大丈夫かもしれない」

「いつわたしがゾンビになっても、おかしくないよ」

「上野は、絶対ゾンビにさせない」

「むちゃだよ」

「むちゃじゃない」

「よく聞いてって」

「聞かない」

「頑固か」

「うるさい」


 高嶺が肩を震わせているのに、わたしは気づいた。


「泣いてる……?」

「泣いてなんか、ない」


 高嶺は頑固だけど、彼女は役者だ。ゾンビウイルスに感染していると分かってすぐに、明るい雰囲気を作ろうと努めていたようだった。なぜ、そんなにわたしにこだわるのか。高嶺は足元を見つめながら呟く。


「あのさ、上野。私はさ──」


 唐突にガタンっと音がして、わたしたちは反射的に大通りの方を見た。ポリバケツが倒れてゴミが散乱している。そして、ざっとゾンビ十匹の群れがのらりくらりとうごめき、近づいていた。その距離十五メートル。


「やば、見つかった」


 ここは袋小路だ。背後の金網に近づく。三メートル以上は確実にある。


「登って越えよう」

「うん」


 まず、高嶺が身軽にひょいと登っていく。そしてわたしも。金網の目に上手く足を掛けられなくて、半ば辺りで手こずる。


「手、貸すよ」


 先に登りきって反対側に乗り越えた高嶺は、金網の上からわたしへ手を伸ばす。わたしも高嶺の手を掴もうとするけど、その瞬間わたしは慌てて手をひっこめた。


「待って、うつんない? 手、触っていいの?」


 顔拭っただけでうつるんだ。


「わからん──」


 まただ。ただ力強いだけの返事。


「でも、なんか、アルコール消毒すればいいんじゃない?」

「それ、ほんと? それじゃほんとにインフルエンザと一緒じゃん」

「いいから、はやく!」


 高嶺は身をぐっと乗りだしてさらに手を伸ばし、わたしの手首を掴む。


「ほら、いくよ」


 わたしは頷く。


「うん」

「いっせーのーせ、で一気に行く」

「分かった」


 ふたりの手はがっちりと手首を掴みあった。


「いっせーのぉー、せぇ!」


 高嶺の声が路地に響く。その威勢とは裏腹に、びーんと体が引っ張られるばかりで、まったく動かなかい。高嶺の潤んだ目を見て、わたしはうしろをゆっくり振り向く。

 わたしの両足を、ゾンビたちの手が掴んでいた。

 力比べだ。高嶺もわたしもより一層、握力を込めた。金網にかかっている指が痛い。


「くそっ」


 それでも動かない。ゾンビの引きでスニーカーがぼろっと脱げて体勢を崩す。「この日のために新調したのに」と余計な未練が駆け抜けるが、それどころじゃない。両手で宙ぶらりんになってさらに指に金網が食い込む。


「ねぇ、高嶺」


 危ない。わたしは決意した。


「もう、いいよ」

「なにが」

「はなしてよ」

「ムリだ」


 ここまで来たら、やけっぱちだ。


「そんな一生懸命、構わなくていいんだよ。わたしと高嶺は、全然住む世界が違うんだから」

「はぁ?」

「高嶺は、運動神経もいいし、いろんな人に好かれてるし、それにほら、ゾンビ対策マニュアルだってある。で、わたしはといえば、今日に限って見たって、お荷物だ。一緒にいる道理なんてないんだ。持つべき人がぜんぶ持って、逃げてよ。高嶺には資質があるんだ、生き残る資質が」

「──資質とかじゃないんだよ」


 と高嶺は叫ぶ。


「え?」

「こっちはそんなもんで行動してんじゃないんだ」

「じゃあ、なんだっての」

「さっき下で言おうとしたこと、言うよ」


 高嶺は歯を食い縛りながら、わたしを見つめる。


「上野が居なきゃ、今ごろ私はダメだった」


 逃げているときにわたしが伝えた言葉だ。


「事務所に入るか迷ったときも、慣れない仕事で悩んだときも、忙しすぎて辛かったときも。いつだって上野が背中を押して励ましてくれたじゃん」

「そんなの当たり前でしょ」

「上野の当たり前なんて、全然当たり前じゃないんだ。少なくとも私には。上野でしかあり得なかった。気を使う必要のないやつぁー、上野だけなんだよ」

「でも、」

「もう一度言う。上野が居なきゃ、今ごろ私はダメだった」


 ゾンビたちがわたしの服の上着をぐぅーと引っ張っている。


「私んなかでは大事な約束なんだ、あの公園でした上野との約束は。責任を果たさなきゃ」

「公園の約束……? なんの──」


 アタマの片隅の記憶の棚が、不意に開いた。

 夕暮れのちっちゃな公園だ。

 昔の約束がふっと甦る。

 高一の頃、どんとん人気者になって遠い存在になっていく高嶺が『私は一生、上野と、ばかみたいなことやるんだよ』と強く宣言して、くすぐったい気分を味わった、いつかの夕暮れの公園。

 なんだって今頃、思い出すんだ。それだってテキストの機能。創作だろ、創作。このタイミングに思い出すなんて、あまりにご都合主義じゃないか。


 なのに、なのに。思い出した記憶は鮮明だった。昨日の雨を含んだ公園の匂いも、肌に触れる夕日の温度も、照れた心のざわざわも、ありありと浮かんで。も思い出す。

 わたしは高嶺の瞳をじっと見つめる。


「もう行けよ。ふぉぉしたら、わたしも果たさなきゃならないふぉぉとがある」


 もう、時間がない。

 語り手ができることは、語ることと語り終えることだけだ。裏を返せば、語り終えるのを果たさないと、語り手とは呼べない。

 それにあの頃交わした約束だって。

『じゃあ、んだ、一生ね』と言ったあの約束を果たせなきゃ、高嶺の親友とは呼べない。どこにもないこの世界で、いま、この関係だけは嘘じゃない。それはあなたにとってもでしょ?


「くっ」と高嶺が手に力を込める。


 その理由わけ。わたしは空いていた手で、高嶺の手をぎりぎりと引き剥がしているから。


、こんなときに」

「そう約束したんだ。だから、はなせ」

「上野の頼みでも、それはムリ」

 

 細い通路を埋めて脚を掴むゾンビの群れを、わたしはちらっと見る。覚悟を決める。


「──じゃあ、力づくでいく!」


 渾身の力を振り絞り、わたしは高嶺の手を突き放した。高嶺が「しまった」と目を見開いている。ゾンビのそれとは違う、感情のこもった瞳だった。


「いてっ」

「上野!」


 引っ張ってくるゾンビの群れの上に、わたしは身をおとす。掴みかかってくるゾンビなんて無視して、高嶺に叫ぶ。


「高嶺、絶対に逃げきってよ!」


 涙でぐしゃぐしゃになった高嶺は、歯を食いしばる。ぐーっと錆び付いてるみたいに小さく頷いて、金網の向こう側へと飛び降りた。そして──。


「約束する」


 ──そう言い残し、後ろを振り向かずに走っていく。どんどん小さくなって、向こうの路地を曲がって消えた。

 すごい役者だ。別れをもろともしない。


 そう、それでいい気がする。

 これで終わり。

 もうこれが君にとって最適な物語ではないというのら、よーく分かっている。サービスとしては失格。

 狂っても構わないといったけれど、システムから狂いすぎだ。いや、ちょっと待った。君が狂っててこうなった可能性もまだある? いや、今となってはどうでもいい。ど ちらにせよ、最的化なんて無りにきま ってる。


 だけれど今のわたしには これが最適なおわり方だったんだ。お荷物だったわたしが最後に大きな決断をして、高嶺がいき残り、それと共に ものがたりが終わる。これが最てきかい なんだ。

 ああどんどんしこうが鈍ってくかんかくが あるな、くそっ。これじゃ そうそうに語れ なくなりそう 。

 もう、どうにでも なれ。

 くさった あ た ま でかん が  え られっ




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