ゾンビ数センチメートル。

 高嶺はバットを振り抜いた。


「どこ行ってもいるな」


 さすがに東京、道を見渡せばゾンビがうろつく。

 ゾンビは歩道も車道も関係なくうろつくからか、歩いて逃げる隙は充分にある。けれど、気は抜けなかった。

 わたしたちは、なんとか人気のない地域へと離れようと神奈川方面へと二キロほど移動していた。


「多摩川だ」と、高嶺。

「多摩川?」

「そう、いまTwitterで調べた。東京を封鎖するってさ。多摩川と荒川でゾンビを隔離するって」

「なるほど」

「多摩川を渡れば川崎市に着いて──」

「わたしたちの勝ちってところだね」

「そのとおり!」

「でも歩いてかぁ、遠いね」

「ゾンビが古いタイプで助かったよ」


 最新版の猛然と走るタイプのゾンビでなかったのが、不幸中の幸いだ。緩慢な動きのゾンビのあしらい方も分かってきてすこし落ち着きが出てきた。高嶺はゾンビが居たら、ぶんぶんバットを振って道を切り開く。


「さっきから、躊躇ないよね」

「優しさ見せてられっか。『腐ってネズミ色』だし『ふぉぉぉぉぉ』って言ってるし、確実にゾンビ。やむなし」

「なるほど」

「早く、知ってる業界人あたりゾンビになってくんないかな」

「へ?」

「嫌だなって思った奴は、『いつか絶対、殴リスト』に入れてんの」

「いや、めっちゃ物騒、そのリスト」

「ストレスフルな業界なんだよっと」


 と言ってゾンビをぶっ倒す。川崎市方面へ伸びる高架の道路をなぞりながら、神奈川を目指す。


「高嶺が居なきゃ、今ごろわたしダメだったね」


 なんとなく今伝えたくなった言葉を、正直に高嶺に言った。


「へ。冗談言ってるうちなら、まだヨユー」


 たしかに高嶺が居てくれたおかげで、余裕はあった。

 その余裕が思考を膨らます。


 この先、ストーリーはどうなっていくのだろう。

 わたしに何ができるだろう。

 語り手としてできることは、語ることと語り終えることだけ。やれることは多くない。

 そもそも、語り手、という立場は奇妙だ。昔から本を読むときにそう感じていた。

 こっちの世界に存在しながら、どこかの世界へと、ぺちゃくちゃ調子よく語っている人物。

 ものすごい緊急事態に冷静に説明文を挟んだり、ラスボス登場で急に語り方が仰々しく雄弁になったりする。

 よく知らない誰かに向けて、結末も知らないストーリーを必死こいて説明している。

 まだ経験すらしていないのに『そのときは思わなかった、まさかあんな冗談が現実になろうとは。』とか、未来を暗示しちゃってる。さっきの違和感の正体はこれだった。

 つくづく変な感じ。

 もしかしたら語り手は、「どこで終止符を打つべきか」なんてことも考えているのだろうか? と、ここまで思考してあることに気づいた。


 終止符を打つ?


 よく考えたらどういうことだ。

 もしわたしが終わりを決めたなら、そのあとわたしはどうなるのだろう。「小説が終わっても登場人物の人生は続く」とかよく聞くけれど、この場合はどうなる。「わたし」は文章を生成するサービスの一部だ。文章の生成を止めることは、血の巡りを止めるようなもんじゃないのか。

 生者にあって死者にないものは、たゆまぬ思考だと思う。それが停止したら。

 え、やだ、怖い。

 その先は虚無だ。


 ──語り手が、語り手であると自覚していると、いろいろ不都合も多いからだ。


 その意味するところがやっと分かった。わたしはこの物語を終わらせることが、とっても怖い。語り終えることは、自分の息の根を止めるのと同義なんだ。

 ああ、地面を踏んでる感覚がない。ああ、そうか。なるほど。

 語り手が語り手だと自覚していること。

 それは語り手として、資質に欠けている。


「――危ない!」


 高嶺の声に現実に引き戻される。ゾンビの開き切った手の平がわたしの数センチメートル先まで迫ってきていた。

 なぜだかわたしは、スローモーションで時間を引き伸ばしたみたいに、冷静にゾンビを観察できた。至近距離で見るゾンビの瞳は濁っていて、暖かみは一切なく、だからといって人をっちまおうという気概もなく、思考の片鱗もなく、どこまでも無であって。


「――うわっ」


 ゾンビの指がわたしの鼻先に触れたその一瞬、高嶺がゾンビを蹴り込んでいた。


「ぼーっとしてんな」

「ご、ごめん」

「ちょっと来て」


 高嶺に強く腕を引かれながら、わたしは涙ぐんでいた。

 助かった。高嶺が居なければ、今ごろは。

 わたしは、でっかいお荷物なんだと意識して泣けてくる。

 わたしは目を擦って涙を拭い、なんとか気持ちを切り替えようとする。

 雑居ビルと雑居ビルの間にある細い通路に逃げ込む。十メートルほど進んで袋小路の金網を背にして、高嶺は声を飛ばしてきた。


「ねぇ、やっぱり、今日の上野は変だ」

「この状況のほうが、よっぽど変だ」

「うるさい。世の中のことより、上野のことのほうをよく知ってんの! 私は」

「なんだそれ」

「隠してること、ぜんぶ話せ!」

 

 金網の向こうに続く通路で寝ていた野良猫が、にゃんと飛び退くほどの声を上げ、高嶺は腰に手を当てた。

 わたしは唾を飲む。一人で背負っていくには、少々荷が重いが、だけど説明して何になるか分からない。けれど高嶺は黙って見つめるばかりだ。このときの高嶺はテコでも動かない。わたしは観念したように肩を落とす。


「分かったよ。わたしはさ、この世界はさ。実は――」


 今までのことをすべて高嶺に打ち明けた。

 要約すれば、こんなもん。

 こっちは虚構で、画面の向こうが現実です。

 そしてわたしは語り手です。

 高嶺の反応は──。


「んなときに、冗談言うなよ!」


 ごもっともすぎる。


「いや、冗談じゃないんだ」

「じゃあ悪趣味だ。私はそういう類いの話が好きじゃないって知ってるでしょ? そんな妄想、オカルト、スピリチュアルな類い」


 反応は予想の範疇だった。

 もしも「わたしは仮想人格の語り手」が事実だったとして。または、妄想だったとして。

 けっきょく証明しようがないのだから、何も変わらない。高嶺はどちらにしろわたしを心配するし、わたしはどちらにしろ変人だ。


「べつに信じなくたっていい」

「いや、そういう問題じゃないっての。上の空じゃ困るんだって」


 わたしの場合、語ることに夢中になって、こちらの世界での振る舞いが手につかなくなっている。先ほどのゾンビの強襲で証明済みだ。でも──。


「こっちは語ってなきゃ、死んだも同然なんだ」

「どこに!」

「画面の向こうに!」

「上野、もう、いい加減にして!」


 高嶺は叫んだ。

 分かってるよ。半ば物語ることを諦めていたりもしている。読んでる君には申し訳ないけれど、ブラウザバックしてもらって、延々と文章綴ってるっていう選択肢だってある。なんなら、もう君がスクロールする度に、こうやってうだうだ喋って時間稼ぎをしている向きもある。


「その妄想とリアルと、どっちが大事なんだよ」


 と、高嶺は哀しげに眉を落とした。

 あっちがリアルで、こっちが人の想像の中に創られた虚構なんだよ。というのはどう考えても狂人じみている。でも、実際に読んでいるんだ、完全に画面の向こうを意識できるんだ。


 しばしの沈黙が続き、そして高嶺は意を決したように言葉を放つ。


「分かった。じゃあ百歩、いや一万歩譲ってそれを受け入れるとして。現実よそ現実よそ虚構うち虚構うちでしょ。虚構こっちの問題のほうが今まさに降り掛かってるピンチなんだから、どうしたって優先順位高いに決まってる」


 そう言われてみれば、そうかもしれない。

 少し冷静になってきた。高嶺は念を押すようにゆっくり言った。


「頼むからしっかりしてよ、私も怖いんだから」


 わたしはその言葉にはっとした。ふっと心が軽くなった気もした。

 高嶺も怖いんだ。

 あまりにも平然としていたけれど、彼女は気丈に振る舞っていただけだったんだ。わたしを心配させまいと、必死にやっていた女優の演技だった。

 ごめん、気づかなくて。

 ずっと高嶺に寄りかかりっぱなしだった。

 自分を奮い立たせるように、しっかり頷いた。

 分かった。これから、ちゃんと──。


ふぉぉぉぉぉしっかりする





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