あっちもこっちもスクランブル。

 わたしははっとして顔を上げる。なぜか不思議な違和感を感じつつ周りを見渡す。

 喧騒だ、渋谷スクランブル交差点だ。わたしは行き交う人の間に、ぽつんと立ち尽くしていた。

 日本の都市風景を象徴する、世界でもっとも有名な交差点。巨大な四つのデジタルサイネージに映像広告が踊っている。

 足音と、会話と、エンジン音と、CM音楽と、信号の音。ここは環境音のサラダボウルだ。


「上野、何してんだ、早く帰るよー」


 雑多な音の中から耳が拾った、聞き慣れた声の方――渋谷駅の方へ――を向く。

 横断歩道を埋める雑踏の中で、手招きをするのは、高嶺だ。そうだ、あらかた二人で近況報告をし終わって帰るところだった。


「ごめんごめん」

「はぐれんぞー」


 違和感の正体を掴めないまま、高嶺の隣へ並び、歩き出す。高嶺がぼんやりと質問をしてきた。


「いっつもここ来ると思うけどさー、すごい人の量じゃん」

「うん」

「不思議じゃない?」

 

 正面から、次々と人が流れてくる。わたしたちの合間を抜けるサラリーマンを避け、わたしは肩を斜めに向けて進む。


「え、何が?」

「ほら、こんなにたくさんの人がいるのに」

「うん」

「点でばらばらの目的地に向かってるはずなのに、なんで人とぶつからないんだろうね?」

「なんだ。それなら、わたし知ってるよ」


 そんな些細な疑問か。すぐにパッと回答も浮かび、わたしは得意げに声を弾ました。


「え、教えて教えて」


 高嶺は目を輝かせていた。


「それはね――」


 ここが仮想の「世界」だからだよ。

 全てが計算された仮想の人々だからだよ。


 そう口に出そうとした瞬間、ぞわっと嫌悪感が背中を駆け抜け、額に不快な冷や汗が流れた。


 あれ?


 わたしは足を止める。高嶺が不思議そうに、わたしの表情を覗き込んでいる。地面が反転していくような錯覚で、一歩二歩ほどよろけた。


「え、嘘だ」


 なんで──。

 なんで、あの冒頭の文の記憶が消えていないんだ?


「どうした? 急に青ざめて」


 高嶺はすこしの変化も見逃さない。


「いや、なんでもない」


 わたしは平静を装い、歩むスピードをやや速めた。


「いや、絶対、なんでもなくないでしょ、お腹でも下した?」


 高嶺の憶測に乗っかることにする。


「そう、それ」と、素っ気なく。

「たく、いっつも拾い食いなんかするからだ」

「いや、拾い食いはしないよ。わたしは野良犬か」


 つっこむ気力は、まだぎりぎり残っていた。



 ばたん、と駅構内のトイレの個室に籠り、ドアに背中をつけて息をふっと吐く。

 状況を整理したい。なんらかのエラーだろうけれど。


 えーっと、つまり。つまりはこうだ。

 まず、この「わたし」は仮想の語り手だ。

 今まで嘘みたいに頭の中からすっぽりと抜け落ちていた、君という読者の存在を今は意識している。 

 そしてこの「世界」は言うなれば、シミュレーテッドリアリティ、胡蝶の夢。わたしたちは全員、読者の世界のために創られた、仮想の世界の住人だ。


 一通り、確認したとて。推測したところで状況が変わるわけではない。

 現実感が強烈なスピードで希釈されている気分だ。どうする、わたし。


 あんなにばかげてて愉しく笑った家族会議さえ、親友が遠くの存在になって怖れたあの胸騒さえも、仮想の記憶。全部、フィクション

 これが、世界五分前仮説ってやつか。

 この仮説は否定できやしない。


 そちらの世界で君が読んで、画面を挟んでわたしが語る。天啓のように突然、自分が語り手と意識してしまった場合、何が起きるんだろ? わたしにはまだ分からない。


 じゃあ、もしも高嶺に「ねぇねぇ、こちらの世界は創作物で、わたしは仮想人格で、今わたしは違う世界に語りかけているんだぁ」なんて言ったら? 狂人の沙汰だ。


 スマホが鳴る。LINEに「長くない?」と高嶺からのメッセージが届く。

 これ以上、待たせられない。

 ええもう、なるようになれ。もう逆に思いっきり陽気に諦めて、語り手の使命を全うしようかな、と思うことにする。


 高嶺になくて、わたしにあるもの。

 語り手っていう自意識。


 自分のやるべきことが「これだ」ってはっきり見つかる人ってなかなか居ないんだ。

 語り手っていう役割ロールを、全力でこなすのもありなのかもしれない。



   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「えーと、悪い悪い」

「もー。けっこう待ったよ」


 わたしは苦笑してみせる。高嶺も、創作物なのだ。いまだに信じられないけれど。


「帰ろっか」


 雑多な駅構内の階段を下りながら、地下鉄のホームに向かう。『黄色い線の内側までお下がりください』というアナウンスを聞きながら、わたしは辺りを眺めた。


 この駅を行く人々もすべて、計算されて人のように振る舞う、言わば哲学的ゾンビのような存在で、この都市も全てが計算されて制御された、都市のように振る舞う哲学的生きる廃墟なのだろう。


 そんな思考がぐるぐる回りながら歩いて、地下鉄のホームに並ぶ。今の自分の状況も悩ましいが、君に対してちゃんと語れているのかも気になる。


「哲学的ゾンビねぇ」

「ゾンビ?」


 高嶺がきょとんとした顔で聞いてきて、やっと無意識で呟いたのに気づく。


「ああ、ゾンビ。あの、そのゾンビ動画あったじゃん、あれどうなった?」

「見てみる?」


 取り繕った返事に、高嶺は素直にスマホを取り出して、SNSを見る。そこには、バズっていたあの映像にぶら下がるように他の映像もSNS上に載っていた。


「あれ? これ、別の映像?」

「同じ場面を違う角度から撮った映像だな」

「え、それってさ」


 ――フェイク動画じゃなくない?


 そんな疑問がアタマを駆け抜けて、思考がぴたっと停止した。でも時間はちゃんと動いてて、定刻通りにびゅーんと電車がホームに滑り込んでいく。

 しかも、お呼びでない『ふぉぉぉぉぉ』の不協和音も一緒に乗せて。


「えっ?」


 ゆるいスピードで入ってきた電車の窓から、吊革を掴んでたたずむゾンビの姿を見たと同時に、わたしは体勢を崩した。高嶺がわたしの二の腕をぐいっと引っ張って、登りの階段へと走り出していた。


「車窓から目があったよ」と、わたし。

「見たよ、ゾンビだ、腐ったネズミ色だった」と、高嶺。


 人の流れに逆らって、階段へと向かう。わたしはホームへ振り返る。

 電車と扉がぷしゅうと開くと『ふぉぉぉぉぉ』の響きが地下鉄のホームを満たす。雑踏がぐわりとどよめく。のろりと車両から出てきたゾンビの充血した目が、わたしたちの方へと向いた。


「ほらほら、来たよ。ゾンビだゾンビ」


 と、高嶺は平然と言い退ける。なぜに余裕綽々。芸能界に居ると緊張感をその辺においていくのか。わたしも、つられて悪態をつく。


「くっそ、なんちゅう世界観」


 わたしは階段を駆け上がりながら、自分の状況を呪った。

 ――この物語は、どこに向かってるんだよ。

 語り手としてできるのは、語ることと語り終えることだけだ。この世界の設定はどうなってんだ? いや、考えたところで分かる訳がない。語り手だって自覚している時点で、なにやら様子がおかしいんだ。世界観がバグってたって不思議じゃない。


「地上に出るぞ」


 駅を飛び出しスクランブル交差点へと駆けて、風景を一望したわたしたちは止まる。

 高嶺は口を開けた。


「うっわ」


 ずらりと横断歩道の向こう側に並ぶ、ゾンビの群れ。


「ゾンビも、信号待ちするんだ」

「いや、それよりも」

「あんだけ居んの」


 うしろを振り向けば、駅の出口から吐き出されるように逃げる人々。地下鉄からのゾンビから逃げてるんだ。

 歩行者用の信号機が青になる。奮い立っているかのように揺れ動くゾンビの群れに、わたしは背筋が凍りつく。


「借りるよ」


 声のほうへ顔を向けると、高嶺が野球少年の金属バットをぱっと取り上げ、ぶんと振っていた。おい何すんだよ、って子供の高い声を無視して――。


「上野、はやく逃げるよ」

「どこへ?」

「わからん――」


 見も蓋もない言葉を力強く放ちながら、通りを歩み始めた。


「――でもこの様子じゃ、どこ行ったってゾンビにぶつかる。まずはクルマを捕まえよう」


 と高嶺は周囲を見渡す。

 でも、目当てのクルマもゾンビが現れてから消えていた。そりゃ皆、クルマで逃げたほうが安全だから、乗ってる人はとっくにここから離れているんだ。


「訂正、行けっとこまで徒歩」


 先は長くなりそうだった。

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