第7話 残夏
それから三週間余り。ナツコに再び会えたのは、始業式を六日後に控えた金曜日の午後だった。
さすがに紫雲祭も間近なこの時期ともなると、クラス展示の準備も切羽詰まって、こんな俺にも召集のLINEが入るのだ。久しぶりの校舎内。どのクラスの生徒達も木材や塗料を持てるだけ抱えて狭い廊下を忙しなく行き来する。
だが、俺とナツコだけはその輪の中からはじかれて、やることもなく時間の過ぎるのを待っていた。
ナツコを再び見つけた時、彼女は例の、立花こずえが落ちた階段の降り口に立って、ぼんやりと踊り場を見降ろしていた。暑さのせいで空気が揺らぎ、彼女の薄い背中を陽炎のように見せている。俺は驚かさないように、静かに近寄り声を掛けた。
「ナツコさん?」
ナツコは返事をしなかった。
「俺、あの後、あなたのマンションに行ったんだよ」
ナツコは黙ったままだった。
「あの建物、もう誰も住んでないんだね」
俺を振り返る気もないらしかった。
「斉藤さん?」
苗字を呼んでみる。
「なあに?」
久しぶりに聞く、鈴のような声。
「あなたは本当に斉藤さん?」
彼女の細い首筋に緊張が走った気がした。
「知りたいの?」
「うん、知りたい」
ナツコはゆっくりと俺を見た。
「いいよ。但しあなたがホントのことを教えてくれたらね」
「あ、ああ、うん」
俺の何を知りたいのだろう? あなたへの気持ちだったら包み隠さず見せたはずだ。
だが、ナツコが口にしたのは予想外の質問だった。
「少し前に、この階段から落ちて死んだコがいたでしょう?」
ああ、立花のことだろう?
「あなた、去年はわりと仲良くしてたよね?」
弓尾から何か聞いたのか?
「それなのに、急にそのコに冷たくなったのはどうして?」
それが、今知りたいこと?
「何故って言うか……」
俺は考えを巡らせた。これは正直に答えるべきか? 下手に答えて地雷を踏んだりしないだろうか? そもそもなんでそんなことを知りたがるのか? だがナツコはじっと俺の答えを待っている。
「本当のことを言って?」
熱を帯びたまなざしに射抜かれて、俺は覚悟を決めないわけにはいかなかった。
「……重かったんだよ」
「彼女が?」
「彼女の俺への期待が」
「あなたへの期待?」
「友達以上の関係を俺に望んでいるんじゃないかって」
「ああ……そう……そんなこと……」
「俺に脈があるって勘違いしているみたいなのが、なんかたまらなく嫌だった」
ナツコの肌が、いっそう白い。
「そうなんだ……」
「うん、ごめん」
俺はどうして謝ってるんだろう?
「『お前ごときに惚れる俺じゃない』ってこと?」
ナツコの言葉に俺はうなだれた。
「あたしがもしもあなたを好きだと言ったら、あたしも身の程知らずになっちゃうの?」
ナツコが手首の包帯をほどき始めたから、俺はちぎれんばかりに首を振る。
「そんなことがあるわけない。あなたはもうずっと前から、俺にとっては特別な人だ」
ナツコの目元が赤く染まる。
もう止めよう。もう止めようよ。あいつの話なんてしたくない。それより今度は、あなたが僕の質問に答えて。
「あなたのことを教えてくれ」
ナツコが例え何者でも俺の気持ちは変わらない。あなたの正体がなんだとしても俺は全部を受け止める。だけど知りたいんだ。教えて欲しいんだ。嘘偽りないあなたの全てを。
俺の質問には答えずに、ナツコは指で包帯を絡め取った。手首の傷が窓の光に曝されている。奇妙な形。何度となく想像したどの形とも異なるそれは、工業製品の接合部のように手首の上を水平に――真一文字に横切っていた。
「気になるの?」
傷を凝視する俺の視線をナツコが見咎める。
「う、うん。あ、いや……」
傷は手首をぐるっと一周していた。
この違和感はなんだろう?
「変でしょう? ここだけいつまでもプラスチックだから困っちゃった。他はちゃんと人間の皮膚になったのに」
ナツコは奇妙なことを言いはじめた。
「お焼香に来てくれた日を覚えてる?」
お焼香? 立花の家に行った日か?
「あたし、あの後、カイ達の後をつけたんだよ」
まさかナツコさんは立花の家族?
「あなた駅ビルで、青いサマードレスを着たマネキンに見惚れていたでしょう?」
いや、見惚れていたのはマネキンじゃなくて……。
「気が付いたらあたし、その服で王子駅行きのバスに乗ってたの」
ナツコはニコリともしない目で俺を見返した。
「本当のことを教えてくれてありがとう。あたし、ずっと、カイがあたしに冷たくなった理由を聞きたいと思ってたんだ……」
幽かな笑みを浮かべて、ナツコは俺の顔を見た。そしてゆっくりと、美しいその身体を背中から何もない空間へと倒していく。立花が死んだ踊り場に向かって。そう、階下には、彼女の命を奪った踊り場が、まるで奈落の底ように口を開けていた──。
俺は咄嗟に腕を伸ばし
辛うじて彼女の左手を捕まえた
ほどけた包帯が指に絡みつく
汗ばんだ手の中で
硬さを増す恋人よ
俺が惹かれたあなたの顔が
みるみる凍り付いていく
不意にナツコの重みが消えた。
俺のてのひらには、白くて華奢なナツコの手の代わりに、プラスチックの手首がひとつ残されていた。
愛しいひとは人形に戻って――ただの物言わぬ物体に戻って――自分の重みに耐えかねたようにスローモーションで落ちていく。無機質な雑音が校舎に響いて、あの日と同じ踊り廊下で、制服を着たマネキンがバラバラに砕けちっていく。
ああそうだ。立花はそういう奴だった。俺が避ける理由を知りたがった。あの日もそうだ。忘れ物を取りに戻った俺を見つけるなり、「わけを聞かせて!」と追いかけて来たんだ。
「ねぇ今の音、何?」
弓尾が教室から顔を出した。そしてマネキンの手首を握ったまま、
「何あれ? やばーい」
と奇声を上げた。
「ヒトかと思ったらマネキンかぁ。どこのクラスの大道具だろ? 谷崎はなんか知ってんの?」
黙れ。
「ってゆうか、なんかアレだね。こんなこと言ったら不謹慎って叱られちゃうかもだけど……」
いいから黙れよ。
「警備員さんがこずえを見つけた時って、こんなふうだったのかなぁ?」
頬を微かに紅潮させて、弓尾が俺の目を覗き込んだ。「全部お見通しだよ」と謂わんばかりのアーモンド型の二つの
あの日立花こずえにしたのと同じように、力任せに。
残夏 ──zange── 朔(ついたち) @midnightdaisy1103
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