第6話 廃墟

 帰宅部の俺は夏休みに入った途端に暇になった。いや、部活だけの問題じゃない。去年はそれなりにテーマパークだの海だのプールだのと誘いもあった。しかし今年は紫雲祭準備の召集すらかからない。理由は判っている。ヒカルを怒らせてしまったからだ。女子も男子もみんなヒカルに同調し、結果、俺は誰からも相手にされなくなってしまったというわけだ。

 だがそれでも構わない。ナツコがいれば世界を敵に回してもいい。あの日。お互いの渇きを癒しあったあの夜には他の何にも換え難い価値がある。

 俺達の間にある分かちがたいシンパシー。互いの熱で融かし合って溶け合うような――そんな相手に出会えたんだ。表面的な友達なんか何人失っても惜しくない。


 明日からは学校で4日間の夏期講習だ。三時間目が終わったらまっすぐ三年の教室へ行こう。もしかしたらナツコも紫雲祭の準備の為に登校してくるかもしれないし、文化祭の執行委員がいれば彼女の連絡先を貰える可能性もある。


 翌朝、俺は七時に飛び起きた。シャワーを浴びに一階に降りると、リビングのソファに腰かけている婆ちゃんの頬がハムスターのように膨らんでいて、俺はいきなり気分が悪くなった。婆ちゃんの口元がああしてすぼまっている時は、口の中に唾液が溜まっている時なのだ。自分の口腔内から分泌された唾なのに、何故か婆ちゃんは飲み込むのを嫌がってああして口いっぱいになるまで溜め込んでしまう。この春まで俺達家族の憩いの場だったはずのリビングは、今や婆ちゃんが吐き散らした汚物のせいですえた臭いを放っている。

「かあさん! またばーちゃんが唾溜めてるぞ!」

 両親の寝室に向かって叫ぶと俺は風呂場に駆け込んで勢いよく鍵を掛けた。



 それにしても夏期講習は辛い。予習をおざなりにしたせいか内容がちっとも頭に入らない。やはりもう少しきちんとプリントを解いておくべきだったか。しかし俺はすぐに、必死に予習して臨んだ去年の夏期講習も今年と同じようにちんぷんかんぷんだったことを思い出した。国立は俺には荷が重いのかもしれない。心のどこかで限界を認めている自分がいる。

 ベルと同時に、俺は教室の席を立った。夏期講習がレベル別編成になっているお陰であいつらの誰とも同じ教室にならなかったのは幸いだ。

 階段を駆け下りて三年のフロアに急いだ。ナツコは留年しているから特進クラスは無理だろう。そう思い、まずは三Cの教室から確認する。

 「斉藤ナツコ? このクラスじゃないな」

 先輩が怪訝そうに俺を見た。ひるんではいられない、隣の教室に入る。 

 だがD組からH組まで、残り5つの全ての教室にいた誰も彼もが、斉藤ナツコはこのクラスじゃないと口を揃えた。だとするとまさか特進クラスだったのか? 半信半疑で三Iの教室に向かおうとした時、俺はソフトテニス部の女子に呼び止められた。


 「斉藤って名前のコを探してるっていうのはキミ?」

口ぶりから三年生だと判る。

「はい。斉藤ナツコさんです。ご存知ですか?」

 その人は、言いにくそうなそぶりを見せた。

「うーん……。三年生の中で斉藤って名前の女子は、多分あたしだけだと思うんだよね」

 俺は一瞬絶句したが、すぐに気を取り直した。

「留年した人なので、知られていないだけだと思います」

 それを聞いて斉藤さんは更に首を捻った。

「うちの学校は留年させてくれないと思うよ? 病気や不登校で長期欠席した場合は転校することになってるんじゃないかな」

 え?

「あのさ」

 斉藤さんの目には憐みの色が浮かんでいる。

「そのコって自分から『斉藤です』って名乗ってた?」

 核心を突いた質問だ。考えてみれば確かにナツコは一度も自分から「斉藤ナツコ」と名乗ってはいない。初めて言葉を交わした体育祭の予行演習で、彼女が穿いていた緑の短ジャージに『斉藤』と刺繍がしてあったから、俺が勝手に思い込んでいただけだ。

 次の瞬間頭の中に、緑団の団長の言葉が甦った。

──女子更衣室から3年のジャージが消えた──

 頭に浮かんだ考えが、どうか当たっていませんように。

 俺は恐る恐る斉藤さんに向かって尋ねる。

「あの、もしかして、予行演習の時、ジャージを紛失した女子っていうのは……」

 斉藤さんは眉を顰めた。

「あたしのことだけど、それがどうかした?」


  *


 俺は校舎を飛び出した。中庭の赤いタチアオイが目に染みる。景色が次々俺の後ろに飛び去って行く。行かなくては、ナツコの家に。今はアポなしだとかなんだとか、気にしている場合じゃない。

 

 こんな時に限って路面電車がいつもより遅い。ドアが開くのを待つのももどかしく、俺はこじ開けるようにして都電雑司ヶ谷の駅で飛び降りた。

 頭上高くから見下ろす太陽がアスファルトも融かさんばかりに照りつける。だが今、俺の全身から噴き出るのは、そういう意味の汗じゃない。

 ナツコ。

 あなたは一体何者なんだ?


 ナツコのマンションは駅の近くだ。自販機のある角を曲がれば鮮やかな紅色の花をつけた柘榴の木が見える。その茂りの向こう側に、あの夜ナツコと二人で過ごした──つい十日前に忘れられない時間を過ごした──あの五階建てのビルがある──。

 そう、ここだ。

 

 太陽に照らされたマンションは、あの日よりも一層古びていた。だが、目指した場所に辿り着くことが出来たことが俺を心の底から安堵させる。

 だからすぐには気付けなかった。

 ひび割れたアプローチ。劣化して欠けたエクステリア。外壁の大きな傷。物干し竿もエアコンの室外機も見当たらないベランダ――これらが果たして何を意味するのかを。侵入を遮る赤いコーンの列と取り壊し予定日を告げる赤さびた看板が、どういう意味を持つのかを。

 

 俺は泣きそうになりながらゴミの散らかった階段を駆け上がった。

 あの夜と同じ重いドア。

 力を込めてドアノブを回すと、あの夜と同じ金属音が響く。

けれども部屋は、あの日とは全く違う表情を浮かべて、俺を無言で出迎えた。


 薄っすらと積もった埃の上に点々と足跡が歩いている。フローリングの中央が、箒で掃いたようにそこだけ丸い。あの日俺が腰かけていたベッドは、脚が一本外れている。

 ナツコが住んでいるはずのこの部屋は、廃墟以外のなにものでもなかった。

嘘だろう?

 俺はまるで物の怪にたぶらかされた古人いにしえびとのように、何度も何度も駅とマンションを往復した。俺の記憶違いじゃないか? どこかに見落としがあるんじゃないか? 俺は夢を見ているんじゃないか?

 いつまでもいつまでも歩き続けた。

 あの有名な物語の、キングズクロス駅の九と四分の三番線のような秘密の入り口が、どこかの路地裏にあることを願いながら。

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