第5話 密室の夜
「ここまででいいよ」
俺を制すナツコさんの言葉を無視して強引に同じ駅で降りた。
「ひとりじゃ帰せません。そんな服じゃ危なっかしくて」
本心だ。赤いワンピースは胸元が露わで男の衝動を煽り過ぎる。
ナツコさんは一瞬ためらったが、
「じゃあ来て」
と、俺を従えて歩き出した。
ナツコさんの家は駅から5分のマンションだった。随分と古い建物で、オートロックも管理人室すらもない。エレベーターも調子が今ひとつだというので、俺達は階段でナツコさんの自宅まで上った。
「寄ってく? 何もないけれど」
それは期待していた誘いだった。辞退するのが紳士の振舞いだし親がいたら気まずいだろうが、俺はもう少しナツコさんと一緒にいたい。
錆びた鉄が軋んでナツコさんの家の扉が開く。目の前にぽっかりと現れた好きな人の住まい。窮屈な玄関にキッチンを兼ねた廊下が見える。その向こうにあるのは殺風景な6畳ほどのフローリング……。
「こんなところに住んでるの?」
意外過ぎてストレートに聞いてしまう。
「まあね」
「ご家族も?」
「いないよ。一人暮らしだから」
ナツコさんはこともなげに答えたけれど、俺は反射的に彼女の左手を見てしまった。包帯に透けて彼女の孤独が見えるような気がしたのだ。
「取りあえずその辺に座ってて」
そうナツコさんに促され、俺はベッドの端に腰を下ろした。所在ないので、ここへ来る前に自販機で買ったペットボトルの栓を捻り、一気に飲み干した。
炭酸水が俺の体に水脈を作る。
その冷たさに「俺は今生きている」そんなことをふと思った。
「一人の時は何してるの?」
テレビもパソコンも無いここで? ナツコさんは俺の不躾な質問に気を悪くしたふうもなく、小首をかしげると、
「そうね……。踊ってるかもしれないね」
と、冗談めかして答えた。
「踊ってる? ここで?」
「そう、ここで」
「どうしてまた……」
からかわれているんだろうか? それとも──
よっぽど変な顔をしていたのか、ナツコさんは笑いを堪えると、
「家具が無さ過ぎて、床が広いから」
冗談にもならない理由を言った。
痛々しさが彼女の端正な顔立ちに陰影を刻む。俺は心の底から言った。
「見たい。見せて、ナツコさんの踊るとこ」
懇願する俺に艶やかな一瞥をくれると、ナツコさんはやおら片足を蹴り上げて危ういフェッテをひとつだけ試みた。
赤いスカートが翻る
まるで金魚の尾びれのように
いびつなターンの軸がぶれる
支えなければと立ち上がった刹那
水風船は滑り落ち
俺の足元で飛沫を上げる
なめらかな素肌の感触に
おののく俺に身体を預け
いたずらな美しいひとは
挑むように無防備になった
密閉容器のようなこの部屋で、俺達はまるで呼吸に喘ぐ二匹の魚だ。
この人を守りたい──心に空いた穴を塞ぎたい──痛い程強く願った。
ナツコさんが抱える苦しみを、心に刻まれた傷を、折れそうな身体を、過去を未来を、全てを受け止めたい。
俺にだからそれができる。命のあっけなさとしぶとさの両方を垣間見てきた俺だからこそ。これから先はもう二度と、あなたに命を手放させない。
もう感情がはち切れそうで、俺は彼女を抱きしめた。薄いTシャツ越しに感じる命の確かさが俺を勇気づけ導く。
床の上に倒れこむと、赤いワンピースのスカートが床に綺麗な弧を描いた。
*
翌朝、自分の部屋で目を覚ました。
あれからどうやって帰ったのか。俺はあちこち擦り傷だらけで何故か蒲団まで砂まみれだ。まずい、母さんに怒られる。介護疲れかこのところ母さんは少し気が立っているんだ。
俺は大きく溜息をついた。早くこんな生活から解放されて一点の曇りもない青春を謳歌してみたい。気を紛らわせようとスマホに手を伸ばしたが、待ち受け画面に更に陰鬱な気分にさせられた。LINEの緑色のアイコンの右上には見たこともないくらいの通知の数が示されている。
観念してトークルームをタップしたらヒカルからの「もう知らない。大嫌い」の文字が。
「ごめんな」
他に言葉が見つからなくて俺は土下座のスタンプを押す。そしてすぐに考え直して送信を取り消すと、また別のスタンプを押した。そんなことを何度となく繰り返しても、いつまで経っても既読は付かない。きっとブロックされたのだ。
仕方ない。それよりも俺にはもっと気がかりなことがある。
それは未だにナツコの連絡先を知らないままだということだ。学校は今日から夏休みだし、自宅を知っていると言ってもアポ無しで行けるわけじゃない。
GW明けからずっと楽しみにしていた夏休み。それが今では俺とナツコの仲を隔てる邪魔者になってしまってる。
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