第4話 綿菓子

 体育祭が終わると関東は本格的な梅雨に突入した。

 ほんの数日前までダンス練習や衣装の縫製、友人宅に泊まり込んでのメガホン作りなど、体育祭が生活の中心だったのが嘘のようだ。帰宅部の俺は突然暇になり、チアダンス部のヒカルは部活で忙しくなった。

 そして期末考査まで一か月もないというのに、クラスの奴らは九月の文化祭の話題で盛り上がっている。そして俺はと言えば、宙ぶらりんになったままのヒカルとの関係をどうすべきかと悩んでいた。


 *


「大会が終わるまでは暇が無いんだよね」

教室の机に頬杖をついて、ヒカルは顔を曇らせた。

「大会いつ?」

「七月の三連休」

可愛い唇を尖らせる。

「あーじゃあそれが終わるまでは無理だな」

「そうだね、うーん……」

 ヒカルの眉間に寄った皺に、俺はペアダンの潮時を悟った。勝てない喧嘩はしない主義だ。深追いは止めて撤退しよう。そう観念したその時、

「あ!」

ヒカルが何かを閃いたように瞳を輝かせた。

「足立の花火に行かない?」

「へ? なんで足立?」

 一瞬、立花こずえの顔がよぎる。彼女は足立区民だった。

「花火と言ったら隅田川でしょ? 普通」

「でも雨降りがちじゃん、隅田川は」

 確かに数年前の大雨がまだ記憶に新しい。それじゃあ、七月二◯日は足立区の花火に行くとするか! 俺がヒカルの提案に乗ると、

「いいね! みんなで行こうよ!」

空気を読まない弓尾アケミが割り込んできた。耳ざとく聞きつけた暇人どもが我もと続き、ヒカルと俺は目を見交わした。


 *


 夏休みを明日に控えた土曜日の夜。小菅駅前には俺達三人の他に、秋山、師岡もろおか……総勢八名のクラスメイトが集合した。

 「まずは河川敷に行って場所取りしよう」

 足立区民の師岡が先頭に立って歩き出し、最近付き合い始めたばかりの川内達のカップルがその後に続く。グループデートを決め込んでいる川内は勿論、女子は皆ここぞとばかりに浴衣姿で決めている。不慣れな下駄の鼻緒のせいでぎこちない所作も、学校でのなそれと比べると格段に新鮮で可愛い。いつもはチア部でバク転やバク宙を軽々と決める男勝りなヒカルも、今夜ばかりはやけにしっとりとして見える。

 

 早めに着いたお陰で全員が座れるスペースはすぐに見つかった。だがレジャーシートを敷いてくつろいだのも束の間、

「今のうちに何か買って来とこうか」

と、せっかちな師岡が立ち上がった。それがいいねとヒカルを含む5人が続く。俺も一緒に行きたかったが、留守番を任された弓尾が「ひとりきりじゃトイレにもいけないじゃん」とむくれたので仕方なく残ることになった。


 「なんかごめん。谷崎はヒカルと一緒に屋台巡りしたかったよね?」

 皆がいなくなってから今更のように弓尾が謝ったので、その遅すぎる気遣いに俺は苦笑いしかない。元々こいつがしゃしゃってこなければ、ヒカルと二人だけの花火デートだったはずなんだ。

 しかも一体どこまで行ったのか、ヒカル達は中々戻って来ない。弓尾は沈黙が苦手な性分らしく、

「2Aはシンデレラやるんだってさ。王子役は八田君かな? 逆にシンデレラでも可愛いよね」

などと一人で取り留めも無く喋り続けている。そして、

「ねね、こずえも去年はここの花火に来たんだよね」

などと、素っ頓狂に口走った。

 俺はスマホから顔を上げ、弓尾を睨む。すると弓尾は「ん? どうした?」という顔をする。とぼける気なのか? ほんっとーにウザいわ、お前。


 一年前、立花こずえは確かにクラスの仲間達と足立の花火を見に来ていた。何故知っているのかと言えば、俺もその場にいたからだ。

 去年の夏は師岡にも秋山にもそれぞれにステディな相手がいて、俺と立花は屋台や土手であいつらとすれ違う度に「リア充、爆ぜろ」というお決まりのフレーズを投げつけたものだ。


 「あんた達って一年の頃は仲良かったのにね」

 弓尾は相変わらずひとりでしゃべり続けている。

「付き合ってんのかと思ってたから、急に口をかなくなって驚いたよ」

 なんで? と、弓尾は俺の顔を覗き込んだ。アーモンド型の両目から好奇心がだだ漏れている。

「別に理由なんかねーよ。仲良かったって言っても、たまたま席が近かったってだけだし」

 まずいな。苛立ちが抑えられなくなってきている。婆ちゃんに振り回されているストレスのせいか最近どうも怒りの沸点が低い。俺は気分を変えようと立ち上がった。

「どこ行くの?」

「うんこ」

「え、もうすぐ始まっちゃうよ」

 知ったことか。俺はこれみよがしに大股で歩き出した。


 *


 どれくらい歩いたのだろうか。屋台を覗き込んでヒカル達を探していたら、いつの間にか花火大会の開演時刻が迫っていた。

 まずいことにGパンの尻でスマホが震えている。人ごみの喧噪で気づかなかったが着信は30件を超えていた。ヒカルは怒っているのだろうか? なんと言い訳したらいいだろう? そんなことを考えていた矢先だった──。

 ヒュルヒュルと空気を混ぜる音がして、夜空にぱあっと大輪が咲いた。火の粉を追うように煙が広がり、一呼吸置いてドーンという破裂音が響く。その音を聞き、俺は思っていたよりも会場から遠ざかってしまっていることを痛感した。


 取りあえず引き返そう。大会は六◯分間やる予定だ。急げばまだ充分間に合うだろう。俺は走り出そうとした──が、次の一歩が釘で打ち付けられたかのように動かなかった。

 商工会の提灯が揺れ、焼きそばやお好み焼きの屋台がひしめく往来の真ん中に――花火さえ霞む程に赤いワンピースのあの人が、風ぐるまを片手に佇んでいたから。


 *


「斉藤さん? 斉藤さん!」

 7回目の「斉藤さん」で、彼女はようやく俺を振り返った。

「谷崎カイです、紫雲高校二年I組の。予行演習の時に少しだけ話しましたよね」

 息継ぎもせずに言うと、斎藤さんは目を細めた。

「あたしも自己紹介した方がいい?」

「是非お願いします」

 食い気味の返事がツボだったのか、斉藤さんは鳩のように喉を鳴らす。

「あたしはナツコ、三年生。あ、でもダブってるから君よりも二つ年上だけどね」

ダブ……てことは留年? ……てことは不登校? だから見かけない顔だったのか……。俺は頭に浮かんで消える自問自答を無理やり飲み込んで納得した。やはり包帯はリストカットを隠す為のものだったのだ。きっとそうだ。


 ドーン。パラパラパラ。


 遠く河川敷から暴れ太鼓のように花火の音が鳴り響く。だがそれより強く、一層速く、俺の心臓が早鐘を打つ。


 立ち話のままでは邪魔になるねとナツコさんが言ったので、俺は再び花火に背を向けて歩き出した。

「ひとりですか?」

「まさか。この人混みではぐれただけ。君のほうこそどうしたの?」

「いや俺は……」

 スマホがまた尻のポケットで震え出した。見なくてもわかる。ここれは間違いなくヒカル達からだ。いつまで経っても戻らない俺に痺れを切らしているに違いない。それなのに、

「いや、似たようなもんです……」

本当のことが言えなくて、曖昧あいまいな嘘をついた。


「じゃあ迷子同士、一緒に露店でも回ろうか?」

 そう言って彼女は無邪気に笑うと、当たり前のように右手を差し出した。こわれものにするように恐る恐る握った華奢な指。その白い手が予想以上に冷たくて、俺は汗まみれの自分の指を必要以上に意識してしまう。

 つのる恥ずかしさに、握った指を緩めた時──信じられないことに彼女の方が――その細い指先に力を込めた。


 全身の血が逆流する。俺は貧血寸前だ。

 けれどもナツコさんは涼しい顔で、

「あ、わたあめだ」

などと目当ての店を見つけては、右に左に気ままに踵を返す。俺は夢遊病者さながらに彼女の後をついて行く。血圧がどうにかなってしまったのか、視界が散って景色が飛ぶ。さっきから膝下がふわふわして地面の感触がわからない。いつもならうんざりする長蛇の列にも永遠に並んでいたい、そんな気分にすらなっている。


 夢見心地に浸っていると、

「わたあめって、面白いよね」

 屋台の什器じゅうきを眺めていた彼女が、感にたえないという表情でひと言つぶやいた。つられて俺もアクリル越しに屋台の様子を覗き込む。丁度今、店のおやじが回転する筒釜つつがまにザラメをひとすくい投入したところだ。

 温められて溶けたザラメが芳香を放つ。無数の穴が開いた筒釜は回転しながら細い飴の糸を吐き続ける。店のおやじは絹糸よりも細いそれを割りばしで器用に絡めとり、次々と小さな雲をこしらえていった。


「まるで片思いみたいよね?」

 彼女がぽつんと呟いた。

「ほんのひとつまみの甘い誤解を温めて膨らませて――虚しい期待を育てていくの。わたあめみたいにね」

 ナツコさんはふふっと笑うと、突然興味を失ったのか、なんの予告も無く列を離れた。散歩に慣れない子犬のように引きられるがままの俺。お面、ビー玉、金魚すくい。この美しい人はあれこれと目移りし、列に並んだり離れたりを繰り返して水風船とりんご飴をひとつずつ買うと、俺に水風船を押し付けた。そして──

「君も食べる?」

 まるで共犯者のような笑みを浮かべて、食べかけのりんご飴を俺の口元に差し延べる。勿論、躊躇ためらったりなんてしない。俺はりんご飴をひと口かじって彼女に返した。するとナツコさんも何も言わずに俺の歯形の上をむ。

 これは故意だ。

 間接キスを重ねながら、ひと口そしてひと口と、俺は彼女と交互に禁断の実をむさぼり合う錯覚に陥った。

 

 気づけばいつの間にか小菅駅まで歩いてきていた。スマホの通知はもう三桁を超えている。俺は取り敢えず、

「ごめん、下痢とまんない」

とだけ返信して電源を切った。


「いいの?」

 ナツコさんは小首をかしげている。

「ナツコさんこそ」

 俺の反撃に口元だけ笑うと、彼女は改札に向かって歩き出した。嘘だろ。このまま帰るつもりなのか? 俺も慌てて後に続く。駅の電光掲示板が越谷行きの到着を告げている。


「送って行きますよ」

 俺の申し出に、彼女は長い付けまつげをしばたたかせた。俺の目と同じ高さで揺れている蠱惑的こわくてきな眼差し。俺は今度は自分から彼女の細い手を取った。

「俺、ナツコさんちの隣の駅なんです」

 彼女の表情と指先が、俺の言葉に華やかにほころぶ。そのチャンスを逃すまいと、俺は素早く指を絡ませた。

 小菅から西新井までのたった三駅の「恋人つなぎ」。俺にはその三駅が一瞬にも永遠にも感じられて、全身を締め付ける多幸感に目が眩みそうだった。

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