第3話 名前

 体育祭用のTシャツを失くしてから一週間、今日は予行演習の日だ。Tシャツは再注文したが今朝までに間に合わず、俺は仕方なく白い体育着で全体練習に臨んだ。

 全校生徒が団ごとに分かれた統一カラーのTシャツをまとっている中で、白無地の体育着を着ているのはほんの数人だ。人混みに紛れた犯罪者のように肩をすぼめていると、本部テントの向こうから歩いて来るグリーン団の団長の姿が目に入った。

「申し訳ありません!」

 こういう時こそ先手必勝だ。俺は団長に向かって九十度の角度でお辞儀をした。

「災難だったなぁ」

 最敬礼が功を奏したのか団長の声は穏やかだ。

「まぁ、今年はあっちもこっちもトラブル続きだから気にするな。今朝なんて女子更衣室から三年の短パンが消えたらしい。まぁ大方そそっかしい奴が間違えただけなんだろうけど」

 新しい団Tシャツが経営企画室に届いているから受け取って帰れと、団長は俺の肩を軽く叩いた。改めて深々と頭を下げる。今年の三年生はゴールデンウィークがまさかの十連休だった上に、受験対策で取得済みの英検を再受検しなければならず、例年以上に時間に追われているらしい。そんなタイトなスケジュールをやりくりして体育祭をマネジメントしてくれていることを考えると、余計な手を煩わせてしまったことが申し訳なさすぎて頭を上げられない。すると、

「もう行っちゃったよ」

頭上から鈴を転がすような声がした。


「君もTシャツ忘れちゃった系?」

 声の主は緑のジャージの三年女子。最上級生らしくアイシャドウにまつエク、赤い口紅にうっすらチークまでいて、体育祭当日でもないのに随分と化粧が濃い。今しがた学年リレーの練習が終わったはずなのに汗のひとつもかいていないところを見ると、練習には化粧程熱が入っていないらしい。団Tも家に忘れてきたのか、俺と同じように白い体育着を着ている。


「あー、えーっと……」

 異性の先輩に不慣れな俺は、彼女のガラス玉のように大きな眼を正視出来なくて視線を落とし――彼女の手首の包帯に気が付いた。

「本番は頑張ろうね」

そう言って笑う先輩のエメラルドグリーンの短パンには『斉藤』の文字が刺繍されている。その裾からき出しになっている産毛ひとつ無い真っ白な腿。斉藤さんは俺の視線を揶揄からかうように蠱惑的な笑みを浮かべると、絶対領域のあたりで小さく手を振って、校舎に向かって歩き出した。軽やかに振られた桜色の指先が、俺の視界を鮮やかに染め上げる。


 綺麗だ、想像していたよりもずっと。


 俺は遠ざかる斉藤さんを心と目に焼き付けた。

 どこかでヒカルが俺の名前を呼んでいる。

 全体練習も後半にさしかかり、「筏渡り」の練習が始まるのだ。

 

 *


 体育祭当日。クラスの非リア達が「体育祭マジック」を期待する中で、周囲にはリア充ということになっている俺もまた、何かの奇跡を期待している。

 棒引きに80メートル走、クラス対抗リレーに障害物。だが、自撮りにはしゃぐ同級生達を尻目に、俺は目を皿のようにして斉藤さんを探し続けた。


 どこにもいない――。


 あれだけのスタイルだ。人目を引かないわけがない。まさかと思うが今日もTシャツを忘れて来たのだろうか? 衣装が無ければ競技に出してもらえないという噂を聞いたことがあるが、あれは本当だったのだろうか?

 焦りと失望で俺はその場にへたりこんだ。


「何ぼうっとしてるの? あっちでみんなと写真撮ろうよ」

「なんだ、ヒカルか」

「なんだ、じゃないよ。カイってば、昨日からちょっと変だよ? 体育祭なんだからもっと楽しも?」

「そうだよな」

 俺はヒカルに促され、ライトグリーンのTシャツを着た集団に合流した。そうか、トラックの中ばかりに気を取られていたけれど、斉藤さんも三年生の輪の中で仲間との自撮りにいそしんでいるのかもしれないよな。同じ学校なんだし、会う機会は他にもあるだろう。年に一度の体育祭だ、俺も割り切って楽しむとするか。

 そう思い直し、俺はヒカルと初めてのツーショットを撮った。体育祭の開放感が、俺たちの距離をぐんと近づける。

 ヒカルも飽きることなく俺に頬をすり寄せて、いつまでもシャッターを切り続けた。シャンパン色のヒカルのスマホに、俺の虚ろなつくり笑いが何枚――何10枚と閉じ込められていった。

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