第2話 包帯

 月曜日早朝。

 俺は巣鴨新田駅から校門に続くなだらかな坂を急いでいた。今日から体育祭に向けた朝練が始まるからだ。先週のホームルームでヒカルとペアダンスを踊ることが決まっていた俺は、昨日の晩から張り切っていた。朝練初日の今日は早めについて、軽く身体をほぐしておこう。

 だが、そんなが、次の瞬には唐突に消え失せてしまった。何故なら俺の目の前を、うちの制服を着た背の高い女子が、包帯を巻いた左手首を朝日に晒して、のんびりと歩いていることに気づいてしまったからだ。


 まさか?


 地味な制服のスカートから、例の無機質で腱の目立たない白い脚が突き出ている。栗色の巻き髪が朝日を受けたところだけ金色で、見ているだけで鼻先がくすぐったい。

 俺は一秒でも長く彼女の後ろ姿を眺める為に歩くテンポを遅らせた。朝練に出るのは今日ではなく明日からにしようと、浅ましい考えを頭に巡らしながら。


 教室に入るとヒカルは、

「カイってば! 遅い!」

と、頬を膨らませて駆け寄って来た。

 すると、横から大地が口を挟む。

「やる気がないなら代わってやろうか?」

 俺は横目で大地を見下ろした。お前なんかヒカルの方で願い下げだ。口に出して言いたかったが、ペアダンスのメンバーを決めるくじ引きで不正を働いた後ろめたさが、いつもなら喧嘩上等な筈の俺を黙らせた。


 俺とヒカルがした不正。それは「俺達は付き合ってる」と嘘をついたことだ。

 『ペアダン』とは我が校の体育祭で男女がペアになって踊る集団演技の略称で、名物競技のひとつでもある。当然練習にも熱が入るので、いきおいペアを組んだ相手と一緒に過ごす時間も長い。となれば、誰と組むかは大問題だ。くじ引きで決めるのが公平なのはわかっているが、相手によっては天国と地獄ほど気分が違うのだから悩ましい。

 だがこのくじ引きには一つだけ抜け道があった。それは「恋人同士は優先的にペアになれる」という生徒自治会による粋なはからいだ。

 俺とヒカルは正式には恋人同士というわけじゃなく、まぁ精々「友達以上、恋人未満」といった関係だ。とは言え、どうせ誰かとペアダンを組むなら、俺は断然ヒカルが良かったし、ヒカルには「こいつとだけはどうしても組みたくない」と言うほど嫌いな奴がいた。そこで俺は一計を案じて、彼女に「体育祭までは恋人同士の振りをしよう」と持ち掛け、首尾よくペアを組むことに成功したというわけだ。


 更に正直に言ってしまえば、これは「絶対に振られない告白」でもあった。もしもペアダンを断られたとしても、それはあくまでもダンスの相手としてであって、異性として拒絶されたというわけじゃない。そのくせもしもOKを貰えたならば、当然何も知らない周囲からはカップル扱いされるわけで、そこから本物の恋人同士に発展する可能性も無くはない。

 事実今、俺とヒカルは良い感じだ。作戦勝ちだね。そうだろう?


  *


 だが、好事魔こうずま多し。

 その事件は水曜日に起こった。

 3時限目の授業中、日中はおとなしいはずのスマホが珍しく通知音を響かせた。休み時間にSNSを開いてみると母さんからだ。なんと信じられないことに、配られたばかりの体育祭用のTシャツをゴミと一緒に出してしまったかもしれないなどという。俺は慌てて返信した。


 俺:どういうこと?

 母:ごめん。今朝、おばあちゃんがね……

 俺:まじかよ……


 俺は唸った。この春から我が家に引き取ったアルツハイマーの婆ちゃんが、また何かやらかしたということらしい……。


  *


 母さんによると、事の顛末はこうだ。

 朝、いつものように婆ちゃんをデイサービスに送り出す支度をしていた母さんは、いつものように俺やおやじが脱ぎ散らかした服と各部屋から集めたゴミをそれぞれ別々のレジ袋に入れ、両脇に抱えて階段を降りた。するとそのタイミングで宅配便が届き、更にいつもより早いタイミングでデイサービスの送迎車が到着した。更に更にタイミングが悪いことに、うちの狭い玄関で予期せぬ大渋滞が発生した折も折、空気を読めない婆ちゃんがリビングからノコノコと現れて力いっぱい放尿したのだ。

 それでも母さんはそんなカオスにもめげず、宅配業者から荷物を受け取り、婆ちゃんを着替えさせて送迎車に押し込むと清掃車を追いかけたのだという。

 そしてどうにかこうにかゴミを清掃員に渡して家に戻り、さぁ洗濯を始めようとして、カエルのキャラクターを描いた蛍光グリーンのTシャツが、忽然と姿を消していることに気が付いたのだった。


 *



 俺が帰宅すると、かあさんは朝より十歳は老けていた。婆ちゃんはと見れば俺を若い頃の爺ちゃんと勘違いして目を輝かせている。加齢のせいか色素が失われた肌が生気を帯びて艶めいているのが忌々しい。

 婆ちゃんのせいで俺の団Tシャツが……。掴みかかりたい気持ちを堪えて目を逸らした。感情的になってもいいことは無い。そう自分に言い聞かせて部屋に逃げ込み万年布団にダイブする。


 それにしても人生はなんとままならないものなのだろう。

 人としてああまで壊れてしまっても婆ちゃんの命はしぶとくくすぶり続けている。十六歳の立花こずえの命のほむらは、あんなにもあっけなく消えてしまったのに。


 俺は目を閉じてまぶたの裏にあの人の姿を探した。左手首に巻かれた白い包帯。やはりリストカットの後だろうか? だとしたら立花こずえと――いや――俺達と同世代のあの人に、死にたくなるほどの悩みがあるというのだろうか?


 顔も知らない人のことを、俺は一心に考えた。閉じた瞼の裏側で、あの人の後ろ姿の輪郭だけが、いつまでたっても鮮明だった。

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