嘘つきの幸福論

詩章

嘘つきの幸福論

 昨日、失恋をした。


 人を好きになったのは初めてだった。


 君の最後の言葉が、脳裏に蘇る。


 現実と向き合うため、僕は再度手紙を読み返すことにした──






 ひと月前、僕は彼女と遭遇する。


 風邪をこじらせて肺炎になった妹の見舞いで、僕は大学病院に来ていた。


 案内看板を見て妹の病室を探していると、女性の声が耳に届いた。

「どこに行きたいんですか?」

 振り返ると優しく微笑む小柄な女の子が立っていた。服装からしてこの病院に入院していることが分かる。自分と歳はあまりかわらないようにみえた。少なくとも、高校生には見えないことからも学年は違っても同じ中学生なのだろうと予想できる。

 声音も穏やかで、なんとなく親切な人なのだろうと思った。

「えっと、妹の見舞いに来たんですけど、この病室ってどこにあるんですかね?」

 僕は母から渡された病室の番号が書かれたメモを見せた。

「あぁここなら棟が違うんで連絡通路を通って隣の棟に行かないとですね、こっちですよ」

 彼女は病室まで案内をしてくれるようだ。


 間がもたないので適当な会話を投げ掛けてみた。

「あの、いつも困ってる人を助けてるんですか?」

 僕は、彼女が話す前にその瞳が一瞬、こちらの様子をうかがうように動いたことを視界の端で捉えた。

「んーそうですねー。でも私がやってる人助けって自分のためなんで、別に私が優しいとか親切とかそういうことじゃないんですよねー」

 どういうことなんだろうか。僕はもう一歩踏み込むことにした。


 他人に興味を持つのはいつぶりだろうか。


 この時僕は彼女の置かれている状況など知るよしもなく、彼女とこれから深く関わりを持つなんてこと想像もしていなかった。


 そして僕は、運命の1歩を無意識に踏み出した。



「なんか正義の味方みたいですね」

 彼女は立ち止まり驚いた顔で僕を見る。かと思うと急に声をあげて笑い始めた。

 なんだろうこの人。情緒不安定なのかな?

「あの、なんか変なこと言っちゃいました?」

 なんとか笑いを押さえ込み彼女が嬉々として話し始める。

 彼女は先程よりも少し砕けた話し方になっていた。

「いや、説明を求められると思ってたら君が変なこと言うからさー」

 やっぱ変なこと言っちゃったのか。

「すみません。あまり会話が得意ではないので」

 実際、僕には友達も少なく学校でもほとんど会話の機会はないのだ。そのことについて、僕は特に何か思うことはなかった。

「いや、別に会話が下手なんて言ってないよ。むしろ私は君と話すのが楽しいくらいだよ」

 思わぬ言葉に僕の視線は彼女の方へと一瞬で引き寄せられた。彼女は僕と目が合うと、嬉しそうに笑った。僕は思わず視線をそらしてしまう。

 

 優しく微笑む彼女を見ていると不思議な感覚を覚えた。

 数秒の沈黙が訪れ、次は何を話せばいいのだろうかと焦燥が襲う。

 会話が楽しいと言ってくれた彼女にがっかりされたくないのだろう。いや、少し違う気がする。きっと、僕は彼女を楽しませたいのだ。

 そんなことを考えていると彼女から質問が投げ掛けられた。

「君は時間あるの? 暇ならちょっと座って話さない?」

 断る理由はなかった。

 妹にも今日は見舞いに行く約束をしている訳ではないので時間を気にする必要はない。

「わかりました。そこのソファーに座りましょうか」

 僕らは休憩室のソファーに並んで座った。

 思ったよりも彼女が距離を詰めて座ってきたことに戸惑いつつも、平静を装うことにした。




「実はさ、さっき君は正義の味方みたいって言ったけど、私的にはなんで人助けしてるのって聞いてほしかったんだよねー」

 そうだったのか。会話って難しいな。

 ゆっくりと沈黙が広がり始める。

「いや聞いてよ! 聞くでしょそこは!」

 え? そうなの?

 彼女はなぜか僕の横腹を小突いてくる。彼女はなんだか楽しそうだ。だけどくすぐったいのでやめて欲しい。

「えっと、なんでそんなことしてるんですか?」

 彼女は得意げな顔で答えた。

「私、もうすぐ死んじゃうんだ!」

 え、どゆこと? 笑うとこ? なにこれ?

 困惑する僕の顔を見て彼女が笑い始めた。

 あぁ、やっぱ笑うところだったか。

「君、最高だね!」

 なぜか称賛を頂いたので僕は感謝を告げた。

「ありがとうございます。で、どういうことなのか教えてもらいたいんですけど、今のは冗談的なやつですか?」

 よく考えると会話が全く進んでいない気がする。

 すると彼女はまた優しく微笑んだ。僕はなぜか、その表情を儚いと感じた。

「冗談じゃないんだなーこれがー」

 彼女は悪戯にわざとらしくニヤリと笑った。そしてこう続けた。

「ホントに死んじゃうんだ。あと1ヶ月くらいなんだって、私の余命。こんなに元気なのにねー」

 他人事のようにぼやかれた言葉。その内容は、素直に信じられなかった。まだ冗談を言っているのかと思ったが、彼女から仮面のような笑顔が消えたことからそれが真実なのだと理解した。


 その途端、会話ができなくなった。


「あれ? どうしたの?」

 無邪気な彼女の声音とその言葉に、自分でも理解しがたい感情が僕の中に揺らぎ、きゅっと唇を噛んだ。

 彼女が無言の僕を覗き込んでくる。チラリと盗み見た彼女の瞳は、とても綺麗だった。胸が締め付けられる音が聞こえてきそうだ。

「君が死ぬことがショックなんだと思う。なにを話せばいいかわからなくなった」

 ありのまま状況を説明することしかできなかった。

 更に深く俯くと彼女の手が僕の頭を撫でた。


「君は、優しいね。たぶん私なんかよりずっと優しいんだね」

 顔をあげると彼女は温かく微笑んでいた。僕はどんな顔をしているのだろうか。

「さっきの続きだけどさ。私が人助けをするのは、誰かを助けた分だけ神様がご褒美をくれるんじゃないかって勝手に思ってるだけなんだ。だから自分のためってこと。でももう叶っちゃったかも。神様も大盤振る舞いだ」

 なるほど、そういうことか。途中から言ってる意味はわからなかったけど、彼女がなぜ人助けをしていたかは理解できた。


「あのさ、僕たち友達にならない?」

 僕の人生でこれ以上前向きな言葉はきっともう出ないだろう。この発言には自分でも驚いている。誰かに自ら歩み寄るなんてホントに久しぶりだ。

「うん、いいよ」

 柔らかな表情で微笑む君にみとれそうになる。

 僕は、やっぱり君は笑っていた方がいいと思った。恥ずかしくてとても伝えることはできないだろう。



 こうして僕たちは友達となった。



 それから僕は学校が終ると病院に通う生活を続けていた。

 幸い自転車で通える距離なのでお金の心配はなかった。中学生のお小遣いでは移動距離に限界があるのだ。


 会話を重ねる度に彼女の情報が蓄積されていくことが嬉しかった。

 名前。年齢。好きな食べ物。性格。口癖。


 だけど、病気のことについてはいつもはぐらかされ、教えてはもらえなかった。


 それでも、痩せ細りやつれていく彼女の姿を見ていると、その時が近づいているのだと考えてしまう。一度理解してしまえば、ただただ残酷な現実を受け入れる他なかった。

 いったい彼女はいつからこんな理不尽と向き合っているのだろうか。自分だったらあんな風に他人に振舞えるのか? きっと苦しくて、泣きたくて、逃げ出したいはずだ。そんな彼女に僕は何をしてあげられるのだろうか?

 彼女のことを想う程、考えなければいけないことが増えていく。

 肥大し続ける不安が僕を押し潰そうとしていた。


 その一方で膨らみ続けた別の感情も限界を迎えようとしている。もう我慢することはできないだろう。


 彼女が上手く歩くことができなくなって数日が経った。

 ベッドで横になったままの会話を続ける日々。 



 そして、僕は自分の気持ちを伝えた――




 彼女は泣き出してしまった。

 僕は、どうすればいいのかわからなかった。


 気づくと、僕の目に映る景色が揺らいでいた。

 僕はあの日、彼女がしてくれたように彼女の頭をそっと撫でた。不器用でぎこちない手の動きが、この行動は正解なのだろうかと不安を煽った。

 視界の揺らぎが激しくなる。高ぶった感情で溢れた雫が不安も思考も押し流してくれたおかげで、僕は僕のできる精一杯で彼女と向き合うことができた。


 嗚咽に混じり、微かに空気を震わせた彼女の声を僕は捉えた。

 それは、初めて聞いた彼女の弱音だった。

「・・・・・・くない・・・・・・死にたくないよ……」


 消え入りそうなその言葉に、いつの間にか握った拳が僕の掌に爪を立てていた。

 僕は、抑止できない感情の起伏に戸惑いつつも、それを静かに受け入れた。


 僕は、初めて誰かのために涙を流した。


 それは彼女に対して何もしてあげられない悔しさが半分。彼女が遠くへ行ってしまうことへの恐怖が半分。

 西日でゆっくりと茜付き始めた病室は、優しさで満ちていった。

 


 室内にゆっくりと静寂が満ちていく。

 僕が先に言葉を発していいのだろうかと考えていると彼女の声が聞こえた。落ち着いた、いつものやさしい声だ。

「泣き顔、見られちゃったな。恥ずかしいし今日は帰って。あと、ありがと」

 僕は思った。君には【ずっと】笑っていて欲しい。



 翌日は日曜日で、僕は家族と父方の祖父母の家に行くことになっていた。

 昨日の今日でモヤモヤした気持ちを抱えたまま彼女と会わない1日を過ごした。



 翌週の月曜日。

 僕は終業のチャイムと共に教室を出た。



 途中で祖父母にもらったお小遣いで彼女が好きだと言っていた花と花瓶を買い、自転車を走らせた。





 彼女の病室は、空になっていた。




 頭が真っ白になった僕は、恐る恐る受付へ向かった。自分の身体なのに、うまく力が入らない。まるで足に重りがついているのではないかと思うほど身体が重たい。

 次々と勝手に頭に浮かんでくる言葉と想像をを壊し続け競り上がる吐き気を必死に押さえ込んだ。



 受付で、僕は彼女の名前と部屋番号を伝えどこにいるのかを確認した。




 彼女はもう、この世界のどこにもいないことがわかった。


 崩れるように座り込む僕に、心配そうに看護師さんは何かを言っている。口がパクパクと動いているのが見える。

 視界はぼやけ始め、少しずつ呼吸が荒くなっていく。息苦しく、耳に届いていた音が段々遠退いていく。

 呼吸すらも煩わしく、僕は生きる気力すらも手放そうとしていた。僕は、僕という存在が消えていくような感覚に身を委ねた。



 瞳を閉じたその時、機能を失いかけた聴覚に声が届いた。


 彼女の声がした。



「大丈夫?」


 振り返ると、彼女の母親が立っていた。

 彼女に似た声質の母親の声に僕は無意識にすがり付いたのだろう。


 僕の腕を掴み、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。


 なにを話せばいいのかわからなかった。



「そこのソファーに座りましょうか。歩ける? あの子から手紙を預かってるの。読んであげて」

 顔をあげると彼女とそっくりの微笑みが僕を優しく包んだ。

 目が腫れている。そりゃそうだ。僕なんかよりよっぽど辛いはずだ。


 ソファーに座ると便箋を渡された。


 小さく丸い彼女の文字を見るのは、意外にも初めてだった。

 僕はまた一つ、君のことを知った。

 もう君に会うことはできないけれど……



 手紙の内容は、僕の良いところと悪いところ、他愛もない話、それからあの日の返事が数枚に渡って書かれていた。



 僕はどうやら失恋をしたようだ。


 手紙にはこう書かれていた。


【君を幸せにするのは私じゃない。だから君とは付き合えない。ごめんね。】


 そうか、僕はフラれてしまったのか。恋愛って難しいな。僕にはもう無理かもしれない。

 涙が溢れるがこれがどういう感情の涙なのか自分でも整理がつかない。

 優しく頭を撫でられて更に涙が込み上げてくる。君との思い出が走馬灯のように頭の中で再生される。





 結局、落ち着くのにかなり時間がかかってしまった。

「あの、もう大丈夫です。すみませんでした。手紙ありがとうございます」

 恥ずかしくて目を合わすことができなかった。

「あの子、幸せ者ね。ありがとう」

 顔を上げると見覚えのある微笑みがそこにあり、再び感情が激しく波打つ。

 

 あぁ……君に会いたい。そう強く思った。


 心がそう叫んでいた。


 悲痛な叫びに心臓を締め付けられているような感覚。僕はこんなにも感情的な人間だったのだと驚く。

 きっと、君の影響だ。


 だけど、僕は……


 すみませんお母さん、僕は彼女を幸せにはできなかったようです。

 心の中で彼女の母親にそっと謝った。


「手紙、ありがとうございました。では、失礼します」

 逃げるように去ろうとすると彼女の母親は僕を引き留めた。

「ちょっと待って。良かったら最後のお別れに来てくれない? あの子も喜ぶと思うわ」

 日付と会場名が書かれた紙を渡された。そういうことだろう。

 喜ぶのだろうか?

 僕は、もうなにもわからなくなっていた。

「ありがとうございます」

 行ってもいいのかな。



 帰宅し、食事も取らずベッドに横になった。

 とてもご飯が喉を通るとは思えない。なにもする気にならず暗い部屋の中で何を考えるでもなく天井を見ていた。何かを考えれば、意識は彼女へと引きづられていく。


 今は、考えたくもないんだ。もう君に会えないなんて。






 いつの間にか寝てしまい気づけば時計の針は日付を書き換えていた。時刻は午前4時。

 変な時間に起きてしまったな。


 バックから便箋を取り出し仰向けのまま天井に向けてかざし眺める。


 まだ家族の誰も起きていないのだろう。無音の世界が僕を包む。


 静けさが、止まっていた思考の背中を押す。


 目頭に灯る熱がゆっくりと受け入れがたいその事実を体に、心に、きざみつける。



 昨日、失恋をした。


 人を好きになったのは初めてだった。


 君の最後の言葉が、脳裏に蘇る。


 現実と向き合うため、僕は再度手紙を読み返すことにした。




 最後の1枚を読み始め、あることに気づいた。


 手紙越しの照明に照らされ、手紙の裏に書かれた文字がうっすらと浮かび上がる。


 跳ね起きてベッドに座り直し、裏面を読む。





【君は、私を幸せにしてくれたのに、なにも返せなくてごめんね。君があの日、友達になろうと言ってくれたとき、死ぬほど嬉しかった。これを読んでるときはきっとホントに死んじゃってるんだろうけどね。神様も粋なことしてくれるよね。まさか最初で最後の恋をさせてくれるなんてさ。こんなご褒美もらっちゃって私は幸せ者だね。それに、君が私を好きになるなんて! 嘘みたい! ホントだけど! 本当は君の彼女になってやっても良かったんだけどさ。それじゃ君が私を大切に思ってくれて次に進めなくなっちゃうと可愛そうだと思ってね。まぁずっと私だけを思ってくれてても良くってよ!


 嘘。本当は君に幸せになってもらいたいから、ちゃんと次に進んでね。さっきも言ったけど君は私を最高に幸せにしてくれた。でも私は君を幸せにできない。だけど君には幸せになって欲しい。だからさ、必死に恋愛しなさい! 私のためにも。それが君が唯一できる私たちが幸せになる方法だよ。わかったかい? 約束だからね! 遠くから見守ってるからね。私を好きになってくれてありがとう! 大好き!】



 いつから涙が流れていたのだろう。これは、嬉し涙かな。



 君は、なんと言うか、嘘つきだな。



 でも僕も君に嘘をついていたようだ。



 あの日、僕は君に好きだと言った。



 だけど本当はさ……大好きなんだ。



[おわり]



 

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