四章 金星と闇の大祭 3—3
「八十助さんと茜は恋人どうしだった。だけん、八十助さんは、御子を……」
御子を宿し、茜と愛しあったころの彼に戻ろうとしたのだろうか。茜が還俗して帰ってくるまで待つつもりで?
あるいは、自分だけ年老いていく姿を茜に見られたくなかったから?
いや、それ以前に、八十助には、すでに寿命が近づいていた。
茜は、これからも百年、二百年と生きていく。
そのとき、そこに自分がいない。
それが、さみしかったからだろうか。
その寂寥(せきりょう)は、他のものでは埋めることのできないものだった。
さみしさが降りつもり、つもり、つもった。
両肩を押しつぶし、重みで何も見えなくなった。
ただひとつの思いが八十助をつき動かす。
他のすべてを犠牲にしても。
何人の命をうばってでも。
ーーあの時に帰りたいーー
ただ、それだけ……。
「茜も、今でも、この人のこと、好いちょう。だけん、自分やつと同じに、仲を裂かれたサトさんと吾郷さんに同情しただないか。そうで、吾郷さんをかくまった」
威が、ささやく。
「でも、この人のしたことは、ゆるされることじゃない。この人のせいで、ほんとは笑ってられるはずだった人たちが、何人も不幸になった」
やりきれない。
始まりは、ほんのボタン一つのかけちがい。
一人の常人と、一人の巫子の結婚が、ゆるされなかったこと。
茜と八十助が結ばれていれば、こんなにも多くの人が、今、なげき悲しむことはなかったのに。
立ちつくす魚波たちのもとへ、鉄砲をかかえた勝がやってきた。たおれているのが八十助だと知り、がくぜんとする。
「この人だったか。わやつの祝言に、あげん(あんなに)尽力してごさいたに(尽力してくれたのに)。そうが、なんで……」
年を負うごとに、うらやましい気持ちのほうが、まさってきたからではないだろうか。
同じ常人と巫子なのに、一方は許され、一方は許されなかった。それが、悔しかったから……。
すべてが終わったのに、なぜか、むなしい。
(わも、わかる。一人の人を想い続ける気持ち……)
でも、もう魚波は理解していた。
自分は、おくびょうだから逃げられないのではない。
因習だらけの、このきゅうくつな村を、うとましく思いながらも、たしかに愛している。おきてを守り、御子を守り、生きていく。
それは自分にとって、息をするのと同じほど自然なことなのだ。
だから、もう言わなければならない。
お別れの言葉を。
「……威さん。わのこと心配して来てごして、ありがとう。だけど、もう、お別れだ。このさきは、わやつ、村のもんだけで、なんとかすうけん」
威は泣き笑いのように顔をゆがめる。
「やっぱり、いっしょには来てくれないのか?」
「わは、この村が好きだ。泣いたり、笑ったり。たまにはケンカすうこともああけど。話せば、みんな、わかる人やつだ。村ごみ(村ごと)家族みたいなもんだけん。わは、この村を守り、御子を守りたい」
「そうか……」
威は、さみしそうに笑う。
やっぱり、ずるい。
魚波だって、さみしくないわけではない。
いや、さみしさなら魚波のほうが、ずっと上だ。威より、何千倍も。
半身をちぎられるように、魚波の大切なものを、ごっそり持っていかれる。
この悲しみに、これから、ずっと、魚波は耐えていかなければならない。
魚波の人生は常人の何倍も長いのに。
八十助のように、さみしさに狂わないようにしなければ。
「じゃあ、元気で」と、威が手をさしだす。
魚波は、その手をにぎりかえした。
切実に、くちづけたいと思った。
せめて最後に一度だけでいい。ひとつになりたいと。
魚波が、そう願うと、下腹が熱くなった。
あの濃密な陶酔の前兆がある。
今、くちづけると、きっと、威に御子を渡してしまう。
それは威の家系の呪いをとくには、重要なカギだ。
でも、威は、それを望んでいない。
銃で頭を撃ちぬかれても、腹を裂かれても、またたくまに治癒してしまう。
そんな不自然な方法で生きのびることは、これっぽっちも望んでいない。
その特別な力を得ることは、二千年ぶんの御子や村人の思いも、しょいこむことだ。
それにしばられることを、威は、よしとしない。
そういう人だ。
威は自由な風だから。
「さようなら。威さん」
「いつか、また来るよ。かならず、いつか」
ああ、会えるといいね。
五十年もたって、長生きした、あなたを見たいよ。
子や孫をつれて、会いにきてくれればいい。
そのころには、威と雪絵の仲も、ゆるされているだろう。
去っていく威の背中を見送った。
長い夜が明けかけている。
うす桃色にそまる空に、金星が輝いていた。
魚波は、その星に手をのばした。
どんなに追い求めても届かない。
明るく輝きながら、消えていく星。
まるで、あの人のよう。
さよならと、心のうちで、もう一度、つぶやく。
魚波にとっては、これは長い人生のほんの序章。
これから多くのことを経験し、多くの人々と出会い、別れる。
でも、きっと、あかつきの空に金星を見るたびに、魚波は思いだす。
遠い昔、あの星のように輝いていた季節があったと。
大切な友と、すごした日々を……。
了
東堂兄弟の探偵録 出雲御子編〜第三話 金星のラプソディ〜 涼森巳王(東堂薫) @kaoru-todo
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