第五話 CLOSED
翌朝目が覚めると、家の中が騒がしかった。少年は嫌な予感がしたが、窓の外を見ると、その理由はすぐに判明した。
空に大きな虹ができている。虹と言っても七色が薄く伸びているそれではなく、とても鮮やかな、くっきりとした色の太い線。そう、まるで、ガラスにできた亀裂のような――。
思い至った少年はすぐに服を着替えて物語屋に走った。途中、母に止められそうになったが必死に抵抗すると振り解けた。きっと、あとでひどく叱られるだろう。もしかすると、今度こそ外出禁止になるかもしれない。そんなことが頭をよぎったが、
息を切らせて見慣れた小屋にたどり着くと、レイカが玄関の扉の前に立っているのが見えた。悲しそうな顔で、少年を見つめている。目の下に隈もできていた。寝ていないのだろうか。
「物語が終わる。はやく、緑の物語へ」
そう囁くと、少年のもとへ近寄り、巾着から物語を取り出そうとした。少年はその手を振り払う。
「僕は行かない。レイカを置いては、行かない。ぜったいに」
情けなくも、少年の声は震えた。昨夜決めた意志が、空にできた大きな亀裂によって、どんどん引き裂かれていく。レイカには、一緒に幸せになってほしい。それなのに、この物語はもう、終わろうとしている。
レイカは何も言わなかった。ただ、悲しそうな瞳で少年を見つめていた。その瞳を見ると少年は涙が出そうだった。
「……どうして、こんなにはやく終わりが。僕はエンディングにふさわしいなんて、思っていないのに」
「……――物語は、一番美しい瞬間に終わるものでもある。少年、昨日、何か決心でもした?」
息を呑んだ少年を見て、レイカは「そういうこと」と言った。
「でも、そんなの聞いてない……」
「少年は、わたしの話を遮ったでしょう」
レイカは責めるわけでもなく、淡々とそう言い放った。
「少年は悪くないよ。どうせ、わたしのことを救おうと考えてくれたのでしょう? ありがとう、うれしい。でも、気持ちだけ受け取っておく。もう、物語は終わるから」
振り仰いだ視線の先には、大きな、大きな亀裂。さっきよりも広まっている。
「はやく、物語の中に。もう時間がない」
「いやだよ、絶対にいやだ」
「おねがい」少年の手を取って彼女は
大きく見開かれたグレーの瞳は少年をまっすぐに見つめ、もう一度おねがいと言った。「おねがい、わたしの努力を無駄にしないで」
少年は顔を上げる。
「レイカは、こういうときばかり、本当にずるい」
「何のこと?」
いつかのように、瞳を細めてレイカは笑った。やはり、少し悲しそうに。
そうだ、最初から――レイカは最初から、こうするつもりで少年と過ごしていたのだ。今さら、どうすることができよう。
「……なんでもないよ」少年は繰り返した。「なんでもない」
少年が
「ほら、少年。泣いていないではやく行って。時間がない」
「……レイカは、どんな物語が好きなの」
「――え?」
「ずっと、訊こうと思っていた。それくらい、教えてくれてもいいでしょう?」
レイカは不思議そうな表情で少年を見ると、少しだけ笑った。
「わたしは、ピュアな物語がすき」
「ピュア?」
「そう。ピュア。少年みたいにね」
「……からかわないでよ」
「からかっていないよ。本当に、そう思っているから」
レイカは微笑んだ。そして握っていた手をお別れのように一度振って、優しく離した。
すると見計らったように、空からピキッと嫌な音が鳴った。まばらにガラスの破片も落ちてくる。薄い色の空が、世界が、崩れていく。
「少年、本当に時間がない。早く行かないと」
少年は俯いたまま頷く。レイカは仕方ないな、という顔で笑う。
「げんきでね、少年。ちゃんとご飯を食べて」
「うん……」
「名前が嫌なら、変えてもいいから。少年が生きたいように、生きてね」
「うん……」
「それじゃあね、少年。楽しかったよ」
「うん……。僕も。ありがとう、レイカ」
絞り出した声は、伝わっただろうか。最後にレイカの笑顔が見えると、何かとても強い衝撃があって、少年はそのまま眠ってしまった。そして、次に彼が目を開いたときには、すべてが終わっていた。
「あなた、どうしたの? こんなところで寝て。お兄ちゃんみたい」
聞き覚えのある声に起こされた。よく、だらしのない兄を起こしている、少女の声。
「最近は昼でも冷えてきたから、寝るなら家の中にしたほうがいいよ」
少年は少女の幼い声に、恐る恐る顔を上げた。そして、少女と目があった。少女は、少年を見ている。少年の姿が、見えている。そのことで少年は、自分が本当に転送されたのだと確信した。レイカのいる世界から、離れてしまった。もう、あの世界には戻れない。レイカには二度と会えない。
目頭に熱いものがこみ上げて、少年は再び涙を流した。右手には、冷たい感覚が握られている。見なくてもわかる。この世界だ。この兄妹の物語が、少年の手中にある。そして今からは、少年の物語でもある。この場所に転送されてしまったからには、少年はここで生きていくしかない。
いっそ、この硝子玉を壊してしまえたらいいのに。そんなことを思ってしまう。しかしもちろん、レイカの努力を無駄にするような真似はできない。
レイカは、物語は一番美しい瞬間に終わるものでもあると言っていた。あれを前もって教えてくれなかったのは、意図的なのではないかと思えてならない。少年がレイカと共にあの物語に残ると決心させ、物語が崩壊するという後戻りのできない状況を作るのが、彼女の狙いだったのではないか。いや、きっとそうに違いない。彼女は、そういうところがずるいのだ。
初めはすすり泣きだったのも、気づけば少年は声を上げて泣いていた。その姿を見ていた少女は、慌てて彼に「どうしたの?」と繰り返し訊く。
「そういえば見ない顔だけど、お母さんは? はぐれたの?」
少女の問いかけに、少年は答える余裕がなかった。しばらく慌てていた少女も、それを察すると一息ついて立ち上がった。
「とりあえず、家に来て。温かいココアでも飲んで、落ち着きましょう」
少女はよろけながらも少年を起こし、彼を支えて草原を歩いていく。
相変わらず空は青くて、ところどころ雲が浮かんでいた。緑の茂る草原には、空から落ちてきたような羊たちが点々と散らばっている。いつも見ている、いつもの風景。しかし少女は少年を見ることができて、しかもお互いに触れることができる。普段なら、ありえないこと。ありえないこと、だったのに。
少年は少女の肩を借りながら、鼻をすすった。草原と同じ色の瞳を細めて、涙で歪む景色を眺める。
「そうだ、あなた、名前は?」
少年の嗚咽が落ち着いたころ、少女が訊ねる。
名前。そうだ、名前。違う世界に転送されたのだから、もう以前の名を名乗る必要はない。少年は急いで考える。名前を訊かれているのに、不自然な間があってはおかしい。
そして、思いつくとほとんど衝動的に、彼は答えていた。
「――レイ」
「へ?」
「僕の名前は、レイ」
少年が返答したことに少々驚いて、少女はしかし微笑んだ。
「レイ、か。綺麗な名前だね。私はヘレン。よろしく、レイ」
「――うん。よろしく」
差し伸べられた手を取って、少年はまた涙腺が緩んだ。すると少女は、「レイは泣き虫だね」と笑った。「私の方がきっと年下なのに」
そうだね、と少年は震える声で返して、空を仰いだ。
本当に、綺麗な空。あの空を隔てて、いつかのレイカはこちらを見ていたのだろうか。そう思うと、空が硝子のように一瞬、光を揺らした気がした。
硝子の中の物語 朔 @Wasurenagusa_iro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます