第四話 傍観者

 ――わたしは、少年を助けるためにこの物語に入ってきたの。

 レイカは少年をしっかりと見つめてそう言った。冗談を言う雰囲気ではない。どういう、意味だろうか。


 少年が黙っているとレイカは続けた。

「信じられないかもしれないけど、ここも物語の中なの。この世界自体が、一つの硝子玉の中。わたしは外から、少年が物語に入るのと同じように、ここに入ってきた」

「まって……。どういうこと、意味がわからない。それに、それだと、レイカは見えないはずだよ」

「そう。それが課題だった」

 少年はますますわからないという顔をする。それを確認してレイカは、カーディガンのポケットから一つの物語を取り出した。透き通るような薄い青に、ところどころ鈍く光る深い緑。大きさは比較的小さい。

「それ……」

「この世界」

 レイカが少年にそう告げると、彼は彼女のグレーの瞳を見つめ返した。説明が欲しいと言わんばかりに。


「――わたしは、もともと外の世界で物語を創って売っていた。向こうでも、物語屋を営んでいたの。結構繁盛はんじょうしていて、わたしも自分の物語でお客さんが喜んでくれるのが嬉しかった。でもあるとき、創り出した物語の登場人物に、ひどく肩入れしてしまった。その子はとても素直で純粋で、本を読むことが好きな少年だった。とてもいい子で、読者に愛されるような子だった。それなのに、周りの子と瞳の色が違うだけであまりいい扱いを受けないで、両親とも上手くいっていない。――現実にもそんな子、たくさんいるのにね。なぜか、その子のことを助けたいと思った。わたしが「読者」だった証拠かな。でも、心は読者でも、立場が傍観者だった。いくら少年に同情しても、助けることはできない。それが、我慢ならなかった」


 レイカは少年を見て、「少年のことだよ」と言った。

「わたしは、少年をずっと前から知っていた。少年が、どういう境遇で育ったのかも、知っている。わたしが、そう設定したから」

「じゃあ――」

「そう。癇癪持ちの母親も、見て見ぬ振りの父親も、冷たい同級生も……。わたしがぜんぶ設定した。その方が、人は感動する。ドラマになる。……でも、これほど発展するとは思わなかった。周囲に何人か優しく育つ子どもを置いておいたから、その子たちが少年を助けてくれるはずだった。でもいつまで経っても彼らは手を差し伸べないで、それどころか君の悪口を言うようになった。だから、わたしは自分が物語に入って少年を助けることにした。少年が傷つくのを、あれ以上見るのが耐えられなかった。――それなのに、今日、また間に合わなかった」


「レイカ……。レイカのせいではないよ」

 レイカは首を横に振る。わたしの所為だよ、と。

「わたしは、それから物語に入っても世界に干渉できる方法を考えた。そして二年くらいかかってやっと、成功した。その方法は、自分の身体からだごと物語に入れるもので、意識だけを飛ばす普段の訪問とは違った。物語に入るときに外に身体が残らない」

「普段は、身体が残っていたの」

「……そういえば、説明していなかったね。そう。普通は身体が外に残っているの。少年の身体も、ソファーに残っていた。――でも、わたしの身体はここに転送された。だから、外ではきっと失踪扱いになっていると思う」

「なんでそこまで――」

「そこまで、する価値があるから」レイカが遮る。「わたしは、傍観者も、読者もやめた。少年は救われるべきだよ」


「……帰る方法は、わかっているの?」

 レイカは首を横に振る。

「肉体ごと転送したから、もう戻れない」

 あっさりとそう告げたレイカに、少年は絶句した。

「どうしてそんなこと……。――読者でいるって、言っていたのに」

「……ごめん。あのとき言ったことは、正しいよ。でも、わたしは正しくなくてもどうにかしたかった」

 硬い意志を持った瞳は、少年を静かに見据える。耐え難くなって彼は目をそらした。決心した人間を、どうやって説得できようか。


「それで、少年にお願いがあるの」

「おねがい……?」

「そう。実は物語は、終わりを迎えると崩壊するの」

「――え?」

「小説にもエンディングがあるでしょう? それと同じで、わたしの創る物語にも終わりがある。本の物語ならもう一度最初から読み直せるけど、わたしのものはそうはいかなかった。エンディングが終わると自らヒビが入って、形を保てなくなる」

「なんで……」

「わからない。こればかりは、創ったわたしもわからないの。わたしの見てきた限りどの物語にも例外はなく、すべて崩れていった」


 少年はそこで、レイカの言おうとしていることに気がついた。物語はいつか崩れる。そしてここはレイカの創った物語の中。

「ここも危ないってこと……?」

 レイカはゆっくりと、大きく頷いた。少年が見逃さないように。

「ここも、わたしが創った物語の世界。主人公の少年がエンディングにふさわしいと思うと、硝子玉にヒビが入る」

「そんな……。じゃあレイカは、ここに、死ににきたの」


 レイカは苦笑する。

「この場面でわたしの心配ができる少年は、やっぱり優しいね。そんな子だから、わたしは救いたくなった。――聞いて、少年。わたしは、君を救いに来たと言ったよね。物語は、いつか終結する。この世界もいつか終わる。――だからわたしは、終わらない物語を生み出した。絶対に、エンディングが来ない物語。少年に渡したでしょう?」

 少年は巾着に手を当てる。

「これ……?」

「そう。それは、何か事件が起こるわけでも、特別なことが起きるわけでもない。ただひたすらに、兄妹の生活が続く物語。伝記みたいなストーリーだから、エンディングはなかなか来ない。きっと、兄妹が亡くなるまで続く。――ここに入れば、少年の命が尽きるまでは、少なくとも安全のはず」


 鳥肌がたった。少年は、口早に言葉を紡ぐ。

「じゃあ、レイカも一緒に――」

「それはできない」

 静かに、でもはっきりと彼女は言った。

「わたしは今、物語に入った状態。そこからもう一度物語に入ることはできない。――藍の物語に入れないって、言ったよね。実はすべての物語に入れないの」

 ごめんね、とつけ足したレイカは、けれどすまなそうではなかった。


「世界が崩壊する前にわたしが少年を身体ごと、ここに転送する。ここで、生きて、幸せになってほしい。――少年の瞳の色は、本当に綺麗だよ。その色は本来、君を苦しめる力なんて持っていない。ただ美しいだけの、少年の宝物のはず。だから、少年がその色を誇りに思える世界に、行ってほしい。君の居場所を見つけて。少年には、生きる世界を選ぶ権利がある」


「…………僕に生きる世界を選ぶ権利があるのなら」ほとんど唸るように少年は告げた。「僕はここを離れない。ここで、エンディングなんて迎えずに、レイカと暮らす。僕が、エンディングにふさわしいと、ずっと思わなければいい」

「それだと――」

「うるさい。レイカは、僕を救おうとしているのだろうけど、見当違いもはなはだしい。僕は、物語屋で、レイカと過ごす時間がとても大切。それが一番の救いなのに。レイカを置いて、違う場所に行くわけがない。それにどうせ、僕がいなくなるとこの世界は崩壊するんでしょ。主人公がいない世界は、成立しないから」

 どうなんだ、という顔でレイカを睨みつけると、彼女は黙った。

「ほら、やっぱり。――絶対に行かないから」


 吐き捨てるようにそう呟き、少年は立ち上がった。扉に手をかけ、呼び止めるレイカの声を無視して物語屋を後にした。

 外は幸いまだ日暮れを迎えておらず、足元もそこそこに明るかった。相変わらず空気は刺すように冷たかったが、血の上った頭には丁度よかった。


 ――少年がエンディングにふさわしいと思うと、硝子玉にヒビが入る。

 だんだんと暗くなっていく森の中を、ほとんど走るように進みながら、少年は、絶対に終わらせるものかと強く誓った。


 家に着くと今度は正門から入り、玄関で母に迎えられた。

「おかえり。今日は、きちんと行ったようね」

「……約束したので」

「そうね。守ってくれて嬉しいわ、〇△」

 ひさびさに名前を呼ばれ、妙な感覚になった。そういえば、西洋じみた名前が、少年は好きではなかった。レイカは、それも知っていたのだろうか――。

 そう思うと、少年は涙が出そうになり、何とかこらえて自室に向かった。





 その夜、ベッドの中で少年は習慣のように物語に入ろうとした。しかしレイカの話を思い出すと気は乗らず、息をついて横になった。

 レイカの言っていることは理解できる。大事な人には、幸せでいてほしい。だから少年を救おうとしていることも、自身を犠牲にしていることも、理解はできる。理解は、できる。――でも、納得はできなかった。

 大事な人に幸せでいてほしいのは少年も同じだった。すでにレイカは少年にとってかけがえのない存在となり、彼女を見殺しにすることは少年の幸せとは対極にあった。少年の幸せにはレイカが必要だった。そしてレイカも、少年の幸せを願っているのなら、それは避けるべきだった。


 ――少年がその色を誇りに思える世界に、行ってほしい。

 少年は物語をつまみ、枕元の照明と自身の瞳の間に挟むように移動させた。若葉が生い茂る、明るい色。目を閉じるだけで、ざわざわと音が聴こえる気がする。レイカに、何度素敵だと言ってもらった色だろうか。


 この色を誇りに思える世界なら、レイカのいる場所だと、少年は確信した。レイカの要望は、聞き入れない。少年はレイカとずっと一緒にいたい。離れるなんてありえない。

 レイカだって、本当はそれを望んでいるはずだ。

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