第四話 傍観者
――わたしは、少年を助けるためにこの物語に入ってきたの。
レイカは少年をしっかりと見つめてそう言った。冗談を言う雰囲気ではない。どういう、意味だろうか。
少年が黙っているとレイカは続けた。
「信じられないかもしれないけど、ここも物語の中なの。この世界自体が、一つの硝子玉の中。わたしは外から、少年が物語に入るのと同じように、ここに入ってきた」
「まって……。どういうこと、意味がわからない。それに、それだと、レイカは見えないはずだよ」
「そう。それが課題だった」
少年はますますわからないという顔をする。それを確認してレイカは、カーディガンのポケットから一つの物語を取り出した。透き通るような薄い青に、ところどころ鈍く光る深い緑。大きさは比較的小さい。
「それ……」
「この世界」
レイカが少年にそう告げると、彼は彼女のグレーの瞳を見つめ返した。説明が欲しいと言わんばかりに。
「――わたしは、もともと外の世界で物語を創って売っていた。向こうでも、物語屋を営んでいたの。結構
レイカは少年を見て、「少年のことだよ」と言った。
「わたしは、少年をずっと前から知っていた。少年が、どういう境遇で育ったのかも、知っている。わたしが、そう設定したから」
「じゃあ――」
「そう。癇癪持ちの母親も、見て見ぬ振りの父親も、冷たい同級生も……。わたしがぜんぶ設定した。その方が、人は感動する。ドラマになる。……でも、これほど発展するとは思わなかった。周囲に何人か優しく育つ子どもを置いておいたから、その子たちが少年を助けてくれるはずだった。でもいつまで経っても彼らは手を差し伸べないで、それどころか君の悪口を言うようになった。だから、わたしは自分が物語に入って少年を助けることにした。少年が傷つくのを、あれ以上見るのが耐えられなかった。――それなのに、今日、また間に合わなかった」
「レイカ……。レイカのせいではないよ」
レイカは首を横に振る。わたしの所為だよ、と。
「わたしは、それから物語に入っても世界に干渉できる方法を考えた。そして二年くらいかかってやっと、成功した。その方法は、自分の
「普段は、身体が残っていたの」
「……そういえば、説明していなかったね。そう。普通は身体が外に残っているの。少年の身体も、ソファーに残っていた。――でも、わたしの身体はここに転送された。だから、外ではきっと失踪扱いになっていると思う」
「なんでそこまで――」
「そこまで、する価値があるから」レイカが遮る。「わたしは、傍観者も、読者もやめた。少年は救われるべきだよ」
「……帰る方法は、わかっているの?」
レイカは首を横に振る。
「肉体ごと転送したから、もう戻れない」
あっさりとそう告げたレイカに、少年は絶句した。
「どうしてそんなこと……。――読者でいるって、言っていたのに」
「……ごめん。あのとき言ったことは、正しいよ。でも、わたしは正しくなくてもどうにかしたかった」
硬い意志を持った瞳は、少年を静かに見据える。耐え難くなって彼は目をそらした。決心した人間を、どうやって説得できようか。
「それで、少年にお願いがあるの」
「おねがい……?」
「そう。実は物語は、終わりを迎えると崩壊するの」
「――え?」
「小説にもエンディングがあるでしょう? それと同じで、わたしの創る物語にも終わりがある。本の物語ならもう一度最初から読み直せるけど、わたしのものはそうはいかなかった。エンディングが終わると自らヒビが入って、形を保てなくなる」
「なんで……」
「わからない。こればかりは、創ったわたしもわからないの。わたしの見てきた限りどの物語にも例外はなく、すべて崩れていった」
少年はそこで、レイカの言おうとしていることに気がついた。物語はいつか崩れる。そしてここはレイカの創った物語の中。
「ここも危ないってこと……?」
レイカはゆっくりと、大きく頷いた。少年が見逃さないように。
「ここも、わたしが創った物語の世界。主人公の少年がエンディングにふさわしいと思うと、硝子玉にヒビが入る」
「そんな……。じゃあレイカは、ここに、死ににきたの」
レイカは苦笑する。
「この場面でわたしの心配ができる少年は、やっぱり優しいね。そんな子だから、わたしは救いたくなった。――聞いて、少年。わたしは、君を救いに来たと言ったよね。物語は、いつか終結する。この世界もいつか終わる。――だからわたしは、終わらない物語を生み出した。絶対に、エンディングが来ない物語。少年に渡したでしょう?」
少年は巾着に手を当てる。
「これ……?」
「そう。それは、何か事件が起こるわけでも、特別なことが起きるわけでもない。ただひたすらに、兄妹の生活が続く物語。伝記みたいなストーリーだから、エンディングはなかなか来ない。きっと、兄妹が亡くなるまで続く。――ここに入れば、少年の命が尽きるまでは、少なくとも安全のはず」
鳥肌がたった。少年は、口早に言葉を紡ぐ。
「じゃあ、レイカも一緒に――」
「それはできない」
静かに、でもはっきりと彼女は言った。
「わたしは今、物語に入った状態。そこからもう一度物語に入ることはできない。――藍の物語に入れないって、言ったよね。実はすべての物語に入れないの」
ごめんね、とつけ足したレイカは、けれどすまなそうではなかった。
「世界が崩壊する前にわたしが少年を身体ごと、ここに転送する。ここで、生きて、幸せになってほしい。――少年の瞳の色は、本当に綺麗だよ。その色は本来、君を苦しめる力なんて持っていない。ただ美しいだけの、少年の宝物のはず。だから、少年がその色を誇りに思える世界に、行ってほしい。君の居場所を見つけて。少年には、生きる世界を選ぶ権利がある」
「…………僕に生きる世界を選ぶ権利があるのなら」ほとんど唸るように少年は告げた。「僕はここを離れない。ここで、エンディングなんて迎えずに、レイカと暮らす。僕が、エンディングにふさわしいと、ずっと思わなければいい」
「それだと――」
「うるさい。レイカは、僕を救おうとしているのだろうけど、見当違いもはなはだしい。僕は、物語屋で、レイカと過ごす時間がとても大切。それが一番の救いなのに。レイカを置いて、違う場所に行くわけがない。それにどうせ、僕がいなくなるとこの世界は崩壊するんでしょ。主人公がいない世界は、成立しないから」
どうなんだ、という顔でレイカを睨みつけると、彼女は黙った。
「ほら、やっぱり。――絶対に行かないから」
吐き捨てるようにそう呟き、少年は立ち上がった。扉に手をかけ、呼び止めるレイカの声を無視して物語屋を後にした。
外は幸いまだ日暮れを迎えておらず、足元もそこそこに明るかった。相変わらず空気は刺すように冷たかったが、血の上った頭には丁度よかった。
――少年がエンディングにふさわしいと思うと、硝子玉にヒビが入る。
だんだんと暗くなっていく森の中を、ほとんど走るように進みながら、少年は、絶対に終わらせるものかと強く誓った。
家に着くと今度は正門から入り、玄関で母に迎えられた。
「おかえり。今日は、きちんと行ったようね」
「……約束したので」
「そうね。守ってくれて嬉しいわ、〇△」
ひさびさに名前を呼ばれ、妙な感覚になった。そういえば、西洋じみた名前が、少年は好きではなかった。レイカは、それも知っていたのだろうか――。
そう思うと、少年は涙が出そうになり、何とかこらえて自室に向かった。
その夜、ベッドの中で少年は習慣のように物語に入ろうとした。しかしレイカの話を思い出すと気は乗らず、息をついて横になった。
レイカの言っていることは理解できる。大事な人には、幸せでいてほしい。だから少年を救おうとしていることも、自身を犠牲にしていることも、理解はできる。理解は、できる。――でも、納得はできなかった。
大事な人に幸せでいてほしいのは少年も同じだった。すでにレイカは少年にとってかけがえのない存在となり、彼女を見殺しにすることは少年の幸せとは対極にあった。少年の幸せにはレイカが必要だった。そしてレイカも、少年の幸せを願っているのなら、それは避けるべきだった。
――少年がその色を誇りに思える世界に、行ってほしい。
少年は物語をつまみ、枕元の照明と自身の瞳の間に挟むように移動させた。若葉が生い茂る、明るい色。目を閉じるだけで、ざわざわと音が聴こえる気がする。レイカに、何度素敵だと言ってもらった色だろうか。
この色を誇りに思える世界なら、レイカのいる場所だと、少年は確信した。レイカの要望は、聞き入れない。少年はレイカとずっと一緒にいたい。離れるなんてありえない。
レイカだって、本当はそれを望んでいるはずだ。
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