第三話 傷痕

 大きな門に囲まれる豪華な家。抜け道を出るとその裏口に着く。首の巾着をコートの下に隠し、少年は気づかれないように中に忍びこんだ。しかし自室までの長い廊下を三分の二ほど進んだところで、案の定、背後から声がかかった。


「今日も随分と遅いのね」

 母だった。化粧で覆われた白い顔に、艶やかな長い黒髪。それを束ねる髪飾りに、赤いドレスとイヤリング。背筋を伸ばして毅然きぜんとしたたたずまいは、いつだって少年の身体を硬くさせる。


「ごめんなさい、次からは気をつけます」

「それはこの間も聞いたわ」

「……ごめんなさい」

 母はため息をつく。

「学校にも行かないで。それほど熱心に、一体どこに通い詰めているのかしら」

「それは……」

 もう一度、ため息。

「もういいわ。やるべきこともやらずに外を出歩いているなんて、そんな時間があるのならせめて家で勉強をなさい。これからは外出禁止よ」

「そんな……」


 母は少年を一瞥いちべつすると、きびすを返してコツ、コツ、と真っ赤なヒールを踏み鳴らし、自身の部屋の方向へと進み出した。慌てた少年は震える声で彼女を呼び止める。


「――待ってください。……学校へ行きます。だから、外出は許してください……」

 振り返った母は、その言葉を待っていたと言わんばかりに真っ黒な瞳を細め、笑顔を作ってみせた。

「よほどその場所が気に入っているようね。――まあいいわ。わかりました。明日からは毎日欠かさず通うように」

 そしてまた振り返り、今度こそその場から立ち去った。


 残された少年はしばらく唖然と床のカーペットを見つめ、それから思い出したように歩き出した。廊下はひどく静かで足音が大げさに響く。同じ静寂でも、物語屋のそれとは似ても似つかなかった。





 翌朝、少年は七時半に目を覚まし、朝食を摂り、中学の制服に着替え、父の車で送られることになった。母には「くれぐれも問題を起こさないように」と念を押された。

 車内は広く、綺麗に整頓されていた。少年はティッシュ箱の置かれた後部座席に一人で座り、学校に着くまでの時間、外を眺めて過ごした。外は曇っていてじっとりと暗い。ときどき車窓を通り過ぎる同級生たちも、皆コートを着て寒そうにしていた。


「それにしても、どうして急に学校へ行く気になったんだ?」

 前で運転をする父から陽気な声がかかった。後ろから見える後頭部は伸びすぎた金髪を一つに束ねている。母は昔、その髪の長さが気に入らないといって癇癪かんしゃくを起こしたのではなかったか。

「……べつに」

 父はバックミラーを覗きながら、やれやれ、といった瞳をする。少年と同じグリーンの瞳。少年は、鏡を通してその瞳を見つめ返す。

「どうした」

「……なにも」


 シャツの下に隠した巾着に手を当てて、物語の存在を確かめる。――今日が終わったら、物語屋へ行こう。レイカにも物語に入るよう頼まれているのだから。それまでの辛抱だ。そう、言い聞かせる。


 ものの五分で学校に着くと、少年は車を降りた。「気をつけて」という父の言葉に視線だけで返事をし、学校の校門へと向かう。

 三階まで階段を登り、数十日ぶりに見る景色は何も変わっていなかった。一番奥の教室まで進む。

 扉を開けると、先に着いて談笑していたクラスメイトが一斉に振り返り、忙しく動かしていた口を止めた。少年は気にしていないように振舞い、その中を進んで席に着く。そして、一時限目の数学の予習を始めようとすると、決まったように背後から声がかかった。

「ちょっと来いよ」



  ***



 午後になって学校が終わると、少年は逃げるように森へ向かった。なるべく人目につかない道を選び、冷気で喉を焼きながら脚を動かした。


 物語屋の扉を開けると、レイカは普段通りの穏やかな顔で「いらっしゃい」と笑いかけてくれた。それを見ただけで少年は気が抜けて、その場に崩れ落ちた。異常に気づいたレイカは彼のもとに駆け寄る。

「どうしたの」

「――だいじょうぶ、ちょっと、疲れただけ……」

「そんなわけないでしょ。ほら、立って。とりあえずソファーまで移動して」

 少年はレイカに腕を引っ張られ、予想以上に強い力でソファーまで引きずられた。

「そこで待っていて。今、温かいお茶を淹れてくるから」

 そう言い残して、彼女はカーテンの向こうへと消えていった。


 少年はぐったりとソファーにもたれかかり、天井を見上げた状態で深く息を吸った。古書のような、少し古びた匂い。車内の独特な臭いとも、母の香水の臭いとも違う。優しくて、懐かしい香り。

 瞳を閉じて、何度か呼吸を繰り返し、自分が物語屋にいるのだと脳に教えこんだ。ここは安全で、自分を傷つけるものは何もない。だいじょうぶ。大丈夫。息を、深く吸って、吐く。


 途中、レイカが紅茶を淹れる音を聴いた。こぽこぽと軽快な泡が鳴って、カップに注がれる水音がする。突然、「pour」という単語を思い出した。その単語の響きが、とても似合っている気がした。

 レイカは戻ってくると、「落ち着いた?」と囁いた。少年は小さく頷き、カップに砂糖を少し入れて表面をすすった。吐き出す息に温度が混ざる。


 少年は、しばらく口を開かなかった。レイカも彼から話すのを待っているようで、彼の隣に座って同じように紅茶をすすった。

 この店では、いつも紅茶が用意される。紅茶ではないものが出されたのは、初日のココアだけだった。でも、下手に緑茶なんかを出すよりも、ココアや紅茶の方が似合うな、と何となくそういう気がした。


「――レイカがお茶を淹れる音、『注ぐ』よりも『pour』の方が似合っていると思う」

 少年は落ち着いた声で、綺麗な発音で英単語を読み上げた。レイカは予想外の発言に、紅茶をすする手を一旦止める。


「僕の父は、イギリスから仕事で日本に来て、母と出会って結婚した。それで、僕は英語を話せる。――この瞳は父に似たみたい」

 少々自虐的に、少年は話す。


「――少年は、お父さんが苦手なの。だから、瞳の色を褒めると少し嫌そうだったの……?」

「嫌そうだった?」

「うん。ほんの、少しだけね。――ここに初めて来たときも、お母さんと喧嘩したと言っていたよね。どうして家族との仲がうまくいっていないのか、訊いても?」

 少年は一瞬だけためらいながらも、頷いてカップをテーブルに置いた。


「僕は、父が嫌いなわけではない、と思う。たぶん。……彼が、悪い人ではないのはわかっているから。――僕の瞳の色は、周りの子達とは違う。それが、みんなは気に入らないみたい。中学に上がってから、ときどきクラスメイトに乱暴される。それが嫌で学校を休むと、母が怒る。昔から癇癪持ちだったあの人は、最近僕が学校に行かずに外に出歩いていると知って、苛ついていたみたい。昨日、学校に行かないのなら家から出るなと言われた」


 少年が話し終わってもレイカは口を開かなかった。彼の瞳をじっと見つめて、その表情は怒っているようにも取れた。まだ説明が足りないのかと思い、少年は続けた。


「母のことは好きではないけど、父はわからない。ときどき本をくれるし、そもそも家にいないことが多いから。僕が学校に行っていないことは知っているけど、その理由は知らないと思う。――ただ、あまり鋭くないだけなのかなって、思うことにしているだけ」


 そこまで話すと、レイカは少年の背中に腕を伸ばして彼を引き寄せた。

 少年は驚いて「レイカ……?」と声を漏らす。

「ごめんなさい、手を伸ばせなくて。君がそこまで傷ついているとは、思わなかった」

「どうしてレイカがあやまるの……」

「だって、気づいていたのに。少年みたいな年頃の子どもが、平日の昼間に毎日ここに通えるわけがないから」


 少年が返す言葉を選んでいると、レイカは少年を引き離した。

「身体を見せて。どこを怪我したの」

 少年は小さく息を吸った。

「どこも怪我してないよ。だいじょうぶ」

「嘘を言わないで。さっき、乱暴をされたと言ったでしょう。それに、わたしが引き寄せたとき、一瞬、身体を硬くした」


 少年は言い返せなくなり、迷った末、「わかったよ」と観念してコートを脱いだ。シャツのボタンを何個か外し、見せられた左の上腕には赤くなった皮膚と、その中心に青くなりかけた痣があった。

「大したことはないから、あまり大げさにしたくなかった」

「……傷の度合いの問題ではないの。少年が傷つけられたことが、問題なの」


 レイカは立ち上がってカーテンの向こうから湿布と包帯を持ってきた。少年はそれにギョッとした。

「いいよ、本当に、大丈夫だから」

「いいから」

 レイカは少々強引に少年の腕を掴み、手当てをした。湿布はひやりと冷たく、殴られた箇所がまだ少しだけ熱を持っていたのだとわかった。周りを包帯で巻かれ、やはり少し大げさな気がした。

 その他にも痛む場所はないかと訊かれ、嘘を言っても無理やり服を脱がされそうな勢いだったので、少年は素直に白状した。肩と背中を次いで手当てされ、これもまた丁寧に包帯を巻かれた。


 シャツのボタンを締めて、コートを着直す。いつもなら暖房がつけられているのに、今日はついていないらしい。コートを着ないと寒かった。

 手当てが終わるとレイカはソファーに座りなおし、少年に問いかけた。


「こういうことは、頻繁に?」

 少年は首を横に振った。

「前から悪口は言われていたけど、暴力に発展したのは最近」

「そう……。抵抗は、しているの?」

 もう一度、横に振る。

「抵抗すると、調子に乗るから」


 レイカが黙ったので、少年は彼女の顔を覗いた。彼女は悲しそうに、何かを考えこんでいるようだった。まずいことを言っただろうか。

「レイカ……?」

「少し、早いと思っていたけど。もうわたしが我慢できない」

「……なんのこと?」

 レイカは少年と向き合うと、声を落として静かに言い放った。


「わたしは、少年を助けるためにこの物語に入ってきたの」

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