第二話 読者

「静かなのって、例えばこれなんてどうかな」

 そう言って彼女が取り出したのは、青の深い物語だった。

「きれい」

「そうでしょう。とても慎重に創ったの」


 優しく微笑む彼女は、レイカというらしい。

 初めて会ったあの日、彼女は少年に名前を伝え、「ここではそう呼ばれているの」とつけ加えた。「ここでは」というのだから、もしかするといくつも名前を持っているのかもしれない。本当のところはわからない。しかしそんなことは大した問題ではなかった。少年も名前を訊ねられなかったため名乗らず、レイカは彼を「少年」と呼ぶ。


 ここは、物語屋の空間は、どこか異世界のように感じられて、名前なんてはっきりしないほうがいい気がしてくる。生い立ちや年齢、性別、髪や瞳や肌の色、職業や肩書き。そんなものはどうでもよくて、今日の天気と好きな物語、嫌いな物語、昨日見た夢と今日見たい夢。そういうことだけをわかっていれば、いい気がしてくる。十分な気がしてくる。

 どうやら少年はそんな雰囲気を気に入ったらしく、以来、物語屋をよく訪れるようになった。レイカはそのたびにお勧めの物語を紹介し、少年が帰るころには必ず「また物語が必要になったらおいで」と微笑む。


 少年は「物語」に熱中していた。もともと一般的な「物語」が好きだった彼が、それを体験的に覗くことができる硝子の「物語」に熱中しない訳がなかった。紹介されて気に入った物語があると、レイカに頼んでときどき見せてもらっていた。


 彼女から預かった緑の物語は首から下げた巾着に大切に入れられ、肌身離さず持ち歩かれている。夜、眠る前にときどき訪れるのだと彼は話した。


 ――お兄ちゃん、また寝てるの。

 兄を叱る妹の声を思い出した。名前はヘレンというらしい。

 ――だって眠いんだ、ヘレン。もう少しだけ。

 兄の声は少しかすれて静か。この間、例の煉瓦の家に住む母親にグレンと呼ばれていた。父の方は寡黙で彼らの名前を呼ばなかったが、二人が美味しそうにご飯を頬張る姿を優しそうな瞳で見ていた。

 ――そんなことを言ってると、お昼ごはんは抜きだってお母さんが。

 ――それは困るなあ。

 ――じゃあ起きて。

 ――うーん、仕方ない。起きるとするか。


 なんでもない、兄弟の日常の物語。何か特別な事件が起こるわけでも、急な展開が待っているわけでもない。つまらないと言えばそれまでだが、どこか懐かしい空気感が、少年は好きだった。


 それ以外にも、彼は来るたびに様々な物語を訪れていった。最初はレイカのお勧めの物語を訪ねるだけだったのも、最近になると自ら選ぶようになった。物語の色や大きさで、なんとなく中の雰囲気が伝わる。それを頼りに物語を選ぶ。

 少年は破天荒でアップテンポな内容よりも、静かで穏やかなものを好んだ。そのため訪れる世界は寒色系が多く、比較的小さい。登場人物も二、三人であることがほとんどだった。レイカは「好みの物語の外見は、その人の人となりを表しているのよ」と言っていた。どうやら少年の内面は寒色系の小さい世界観らしい。なんだかあまり穏やかな印象はないが、それを伝えるとレイカは「そんなことない。静かで寂しげで、とても魅力的よ」と笑ってくれた。

 レイカの好みの物語はどんなものなのだろうか。訊きたかったが、そのときは妙に照れ臭くて黙ってしまった。今度、訊ねてみよう。


「それじゃあ、行ってらっしゃい。夕方までには帰ってくるように」

 棚から持ち出した大きめの硝子玉を、レイカは少年に手渡す。藍に近い、夜の空のような色。緑の物語に似た気配がする。きっと、静かな物語。


 少年は頷いて、戻ってくる方法を思い出した。

 方法は一つだけ。戻りたいと思うこと。もしも戻りたいという気持ちよりも戻りたくないという気持ちが勝ると、その気持ちが消えない限り永久に戻れない。ずっと、硝子の中に閉じこめられたまま――。


 レイカの説明を思い出しながら、少年はソファーの背もたれに寄りかかってグリーンの瞳を閉じた。眠るように、こわいことは忘れて。優しい気持ちになって。自分よりも幼い子どもにお願いするように祈る。――僕にも中を見せて。


 目を開けると暗い場所にいた。まだ目を閉じているのではないかと一瞬疑うほど、暗かった。しかし頭上からは薄い光が伸びていて、目が慣れてそれが月光だと認識すると、自分がどこにいるのか探るのは容易たやすかった。少年は海にいた。夜の、暗い海。魚などは見えない。ただひたすら遠くまで広がる暗闇。さっき向こう側から見た藍は、この色だったのだと納得する。


 確かに静かだ。そう思ったそのとき、ドボンと大きな、けれど水の中特有のこもった音がした。

 同時に大きな揺れも起こり、大量の泡が視界を遮った。


 ひとが――、人が、落ちていく。


 目を閉じて、苦しそうな表情で。短い黒髪を揺らして、仰向けに、ゆっくりと沈んでいく。――泣いているのだろうか。口から漏れる空気には何か、嗚咽のような言葉を感じた。

「どうしたの」と、衝動的に口走って、少年は自らの手が、沈んでくる人間をすり抜けるのを感じた。そして思い出した。――登場人物に触れることはできない。


 自分の息は、まったく苦しくない。髪も、服も濡れていない。それなのに、目の前を沈んでいく人間は、こんなに苦しそうにしている。

 レイカは物語の世界に少年たちが影響を与えられないと言ったが、それは逆もそうだった。世界の方も彼らには影響を与えられない。だからどれだけ危険な場所にいても、少年は安全で、周りの人たちだけが苦しそうにする。

 もう何度目かの経験なのに、まだ慣れなかった。慣れない方が健全な気もした。


 少年が手を引っ込めたそのとき、もう一度大きな音がした。ドボン。

 見上げると、今度は金髪の少女が必死そうな顔で潜っていく。先に飛びこんできた人間のもとまで進み、腕を掴む。引き寄せて抱きしめる。

 抱きしめられた人間は顔を歪め、口からたくさんの泡を吐き出しながら泣いていた。少女に手を引かれ、二人で水面に顔を出す。少年も彼らについていく。


 彼らのいたところは陸地から遠く、地平線にかすかに明かりが見えた。そばに小舟が浮かんでいる。どうやらここから飛び降りたらしい。

 海は凪いでいて、二人が動くたびにできる水紋が、月の光になぞられてくっきりと浮かんだ。藍に浮かぶ白。その中心で、二人は何やら話しこんでいた。最初は泣いていたのは片方だけだったのに、気がついたらもう一人も泣いていた。


 髪を濡らして、同じように瞳も濡らす。少女は手を伸ばし、相手のほおに触れ、そのままキスをした。驚いた相手は慌てて離れようとするが少女は離さない。

 次第に暴れていた腕も諦め、少女になされるままになる。

 海の上、水音以外に音のない空間で、月と少年に見守られた二人は美しかった。


 ――そう感じていることに気づいた少年は、急に見てはいけないものを見ている気がして目をそらした。ここに、この場面に、自分が存在していることに妙な違和感を覚えた。本当の物語なら、ここは彼女たちだけの時間のはずだ。読者が見ている世界は、彼女たちの息の音が聴こえるほど近くはない。


 小説なら一度しおりを挟みたい。

 そう思ったせいか、目を覚ました。


「あれ。今回は早かったね」

 物音を立てて起き上がったので、レイカは少年の帰還にすぐに気づいた。

「うん、ただいま……」

「どうしたの? 何かあった?」

 少年は戸惑い、何から、何を伝えればいいのかわからなくなった。

 外はまだ明るい。時間の流れは比較的ゆっくりに感じる物語だったが、それほど長くはいなかったらしい。

レイカは少年の座るソファーに近寄って、彼の隣に静かに腰かけた。


「……あの二人は、とても綺麗だった」

「そうなの? わたしはこの物語に入れてもらえなかったから、見たことがないの」

「え? レイカが創ったのに?」

 少年は驚いた。世界を創った人間が、そこに住む人間のことを知らないと言う。


「わたしは世界を創るだけなの。世界の設定を最初に決めて――例えば『この世界では魔法が使える』とかね――次に、そこに生きる人間の姿や大雑把な家族構成は決めるけど、性格には触れないの。どういう風に成長するのかある程度予測はできても、知ることはできない。だから定期的に見に行かないといけない。――だけどその物語にはなかなか入れてもらえなかった。結構厳しい子たちみたいで」

 苦笑するレイカは少年の手のひらを塞ぐように物語に触れた。とても愛おしそうに、やさしく。

「少年が物語に入ったときには少し嫉妬しちゃった。わたしは入れてくれなかったのに、って。きっと、そういうところが駄目なのだろうけど」


「どうして……。レイカはこんなに優しいのに」

 レイカはまた苦笑する。本当のことなのに。

「ありがとう。でも、少年はどうしてこんなに早く戻ってきたの? 綺麗な物語は好きでしょう?」

「……なんだかいてはいけない気がして」

「まだ、傍観者には慣れない……?」

 察したレイカが少年に視線を向ける。

 傍観者。その響きは冷たくて、少し無責任だ。


「うん。まだ、慣れない」

「そうね……。普通の物語よりもずっとリアルだから、物語として見るのが少し難しいときがあるのよね。自分は何も世界に与えられないし、向こうがわたしたちに何か、物理的に与えることもない。何か繋がりがあるとすれば、わたしたちが向こうから一方的に感情を受け取ることしかない。それは普通の物語と何も変わらないはずなのに、実際にこの目で見ていると話が違うのよね」


 俯き加減に語るレイカは、少年の気持ちをほとんど代弁していた。

 物語は、素敵だけれど、影響力も大きい。その分注意しないと呑まれてしまう。


「だからと言って、一線を引いて見るのがいいというわけでもないと思うけど。――干渉できないからこその安全。物語という形を取っている以上それは当たり前のものなのだけど、そこに慣れてしまって罪悪感を感じなくなると、冷酷な傍観者になった気分よね」


「……レイカは、どういう立場で物語を見ているの」

「わたしは……」

 レイカは少し考えるような顔になった。

「わたしは、ではなくてになるようにしているのかも」


「読者?」

「そう。物語で起こっていることをただ眺めるだけで何も感じない傍観者ではなくて、出来事に一喜一憂して、主人公たちの気持ちに共感して、一緒に冒険している、そういう意味での

「読者……」と少年は繰り返した。「その表現、とても好き」

「わたしも気に入った」

 レイカはいたずらを仕かけた子どものように笑った。


「でも、振り回されてばかりでは心がたないから、少年も特訓しないと」

「どうやって?」

「それは、たくさん物語に触れるしかない」

「……僕、小さいころから本はよく読むほうだったけど」

「本とわたしの創る物語は違うから。少年もわかっているでしょ?」

 それから悪い顔をしてつけ加えた。

「だからわたしが入れてもらえない物語、少年が代わりにぜんぶ見てきてね」

「ぜんぶって……、どれくらい?」

「今のところ三十はある」

「三十……。一月ひとつきあっても足りないよ」

 ふふ、と笑ってレイカは立ち上がった。

「お茶のおかわりは?」

「……おねがい」


 カップを渡すと彼女はカーテンの向こうに入っていった。どうやらこの店は彼女の家でもあるらしく、カーテンを隔てて店と生活圏を分けているようだった。だから、彼女はカーテンの向こうには誰も入れないらしい。

 しばらくすると彼女は湯気の出るカップを手に帰ってきた。


「少年が物語を買ってくれないから、儲からないの。だから手伝って」

「だって、とても子どもが買える値段じゃないよ……」

 少年は店に通い始めてから一度、物語の値段を訊いたことがあった。そのときレイカが紙に書き出したゼロの数を、三度は数え直した。


「それに、他のお客さんを僕は見たことがない」

「失礼な。少年がいない間に来ているよ」

「じゃあ、その人たちに買ってもらえばいい」

「物語をそれほど頻繁に必要とする人間は、あまりいないの」

「そういうもの……?」

「そういうもの」

 押された少年は黙りこんでしまい、そしてついに折れた。

「わかった。それなら、物語に入る日を決める。入るのは三日に一度。それでどう?」

「毎日入ってくれてもいいのに」

 レイカは少し拗ねたような声を上げる。

「そんな目をしてもいやだよ。毎日入っていたら、心が保たない」

 ふふ、とまた笑う。

「そうね。わかった。それでいい。ありがとう少年、君は優しいね」

「……レイカのそういうところ、ずるい」

「何のこと?」

 とぼけるレイカに、本当はわかっているくせに、と心の中で悪態をついて、少年は諦めた。

「なんでもない」

 ため息をついてソファーの背もたれにもたれかかる。


 レイカと話をするうちに、陽はゆっくりと傾いていって、気づくと日暮れだった。そろそろ帰るとレイカに伝え、冷めた紅茶を飲み干した。


 厚手のコートを着て外に出るものの、冷気が、物語屋で温められた身体から一気に体温を奪う。身震いして両手をポケットに入れ、レイカに別れを告げて森に入った。木々が空を覆う森は、まだ陽が沈んでいなくてもほとんど真っ暗だった。自然と少年の脚は速くなる。


 抜け道を使うと時間の短縮にはなるが、それでもまだそこそこに時間はかかる。森を抜けて家についた頃には、陽も完全に沈んでいた。

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