硝子の中の物語
朔
第一話 OPEN
森のずっと奥、少し
フェンスに囲まれた庭らしき場所を進み、黒髪の少年がドアノブに手をかける。まだあどけなさの残る、十二、三歳ほどの少年。
彼が扉を開けると二十代くらいの女性店主が笑顔で迎えてくれる。
「いらっしゃい。今日はどれにする?」
少年は軽い会釈の後に数拍置いて、硝子玉が大量に並べられた店内を見渡した。色とりどりの硝子玉。それぞれを吟味してから、俯き加減に呟く。
「静かなのがいい」
***
少年がこの店を見つけたのは数日前、母親と些細な喧嘩をして家出を試みたとき。見つかるまいと森に入ったはいいものの、案の定道に迷い、疲れ果てて夕暮れ頃にたどり着いた。
物語屋。看板を見て、変わった名前だと思いながらも本屋のような店内を想像して扉を引いた。
しかし扉を開いた瞬間に目に飛びこんできたのは、薄暗い店内でもきらきらと光を反射する、ビー玉のようなものがずらりと並んだ棚。赤の玉や青の玉、緑やオレンジに黄色など、その色や大きさは様々だった。予期していたものとの違いと、あまりの量に少年は一瞬たじろぎ、するとその気配を察知したのか、店の奥から女性の声がした。
「お客さん?」
声の方に視線を向けると、黒に近い紺のカーテンを腕でめくり、向こう側から二十代くらいの女性が現れた。
彼女は少年を見るなり微笑み、「いらっしゃい」と柔らかく言った。
「何かお探しですか?」
「いえ、あの……」
丁寧な物腰に少年が言い淀んでいると、女性はしゃがんで少年の顔を覗きこんだ。
「温かいココアでも飲む? 外は寒かったでしょう。わたしもちょうど飲みたくなった」
崩れた口調に、少年は小さく頷く。彼女は立ち上がり、扉がある壁に沿って置かれた二人がけのソファーを指差した。
「そこに座って待っていて」
そう言い残すと振り返り、またカーテンの奥へと消えていった。
少年は言われた通りソファーに腰掛け、対面で輝く玉を眺めた。部屋の左側の窓から射す夕陽が輝きを際立たせている。
時計の音だけが響く店内。頭上には確かに時を刻む装置があるのに、時間という概念がないみたいな静けさ。呼吸をするたびに聴こえる衣擦れの音がやけに大きく聴こえる。落ち着かないけど落ち着く。それが少年の、この店への第一印象だった。
しばらくすると、湯気が立つマグカップを二つ持った女性が戻ってきた。白い陶器の片方を少年に渡し、もう一つを両手で持ち直して少年の左隣に腰かける。
一息ついて、ココアに息を吹きかけながら彼女は訊いた。
「君は、何を探してここに?」
静寂の中にスッと声が通った。少年が横を見上げると、女性の長い睫毛が目に入った。その奥に覗く瞳は少し灰色がかっていて、異国の血筋を思わせる。よく見ると端正な顔立ちをしている。肩のあたりまで伸びた黒髪は後ろで丁寧に束ねられ、耳には赤い石のピアスがぶら下がっている。マグカップを持つ白い手は夕陽が当たってやけに美しかった。
「――何も。母と喧嘩して。家に帰りたくなくて森に入ったら、ここを見つけた」
「なるほどね。物語を探してここを訪れたわけではないのね」
少年はこくりと頷く。
「もう夕方だけど、帰らなくてもいいの?」
少年はもう一度頷く。
彼の伏せた瞳を見かねた女性は、ココアで温まった息を吐き、目の前のコーヒーテーブルにマグカップを置いた。
そして、柔らかい笑みでこう囁いた。
「わたしは世界を創っているの」
自信をはらんでそう告げた彼女だったが、少年の訝しげな顔に気づくとすぐに弁解した。
「変な意味ではなくてね。――あそこに硝子の玉が並んでいるでしょう。あの中には世界があるの。一つ一つの世界観は異なっていて、ずっと雪の降っている雪原もあれば、ずっと雨が降らない砂漠もある。そしてわたしたちがここにいるみたいに、あの中にも住民がいる。わたしたちと同じように暮らしていて、そこには生活がある。言ってみれば、一つの世界をまるまる硝子玉に閉じ込めたってこと。それを、わたしは『物語』と呼んで、創っているの」
まるで一つの物語を語るように話し終えた彼女は、立ち上がって棚の一番左にある硝子玉をそっと手に取った。麗しい緑が所々に光る、手のひらに収まる大きさの硝子玉。それを愛おしむように優しく少年のもとまで運び、彼に手渡した。
その一連の動作がやけに神妙で、少年もマグカップを置いて両手で支える。
「君の瞳と同じ色。――目をつむって、中を見たいと祈ってみて。君は優しい瞳をしているから、きっと見せてくれる」
少年は怪しみながらも、女性の真剣な瞳からは目をそらせなかった。言う通り、グリーンの瞳をゆっくり閉じる。冗談を言っているようには思えない。
瞬間、まぶたの裏に映ったのは異国の草原だった。羊や牛、馬などの生き物がまばらに散らばり、同じように青空には白い雲が散らばっていた。遠くの方には煉瓦の家が見える。
とても広い、広い草原だった。どこか懐かしいような、古い香りがする。褪せ始めたアルバムのような、古い香り。ここは、どこだろうか。
歩きだそうとすると、近くを赤い髪の少女が通った。こちらには見向きもせず、十メートルほど先まで走り、地面に向かって話しかける。よく見ると、そこには横になっている人間がいるようだった。二人の声が途切れ途切れに聴こえてくる。少年は彼らの視界に入ることを覚悟し、もう少しだけ近づく。
寝転んでいたのは背の高い青年で、どうやら少女の兄らしかった。
「お兄ちゃん、今日はいい天気だね」
「ああ。空気が美味しい」
「いい天気だけど、仕事はきちんとしないとお父さんたちに怒られるよ」
「うーん……、もうちょっとだけ……」
呆れた妹は兄を置き、家に向かってまた走っていった。
少年はそれを見送ってから、楽しそうに寝転がる青年に声をかける。
「あの、……ここは、どこですか」
目をつむっている人間にも聞こえるよう、大きめに声を出した。それでも青年には聞こえなかったのか、彼は反応を示さない。少年は戸惑い、もう一度呼びかける。それでも返事はない。
仕方がないので肩を叩こうと手を置いた。――つもりだった。なぜだか右手は空振り、青年の肩に、少年の手首が埋まっていた。手のひらが地面についている感覚がある。それなのに、触れているはずの草の感触はやけに無機質で、自分が草に触れているのだということすら信じ難くなった。
恐ろしく感じて少年は立ち上がる。それでも青年は全く気づかず、だんだんと自分のいる空間が本物なのか不安になる。
辿ってきた道を戻ろう。そう思って振り返ると、目が覚めた。
少年は物語屋のソファーに座っていた。両手には先ほどの硝子玉が握られており、それは変わらず若々しく輝いている。
「大丈夫?」
隣で心配そうに女性が声をかけてきた。そこでやっと、自分が戻ってきたのだと正しく認識した。
「うん、だいじょうぶ……」
「もしかして、人に会った?」
少年は頷く。
「ごめんね、最初に言っておけばよかった。この中の世界に、わたしたちは干渉できないの。人や物に触れることはできないし、ましてや話しかけるなんてこともできない。完璧な傍観者としてしか招待してもらえないの。――それが、『物語』という呼び方の由来なのだけど……」
女性はため息交じりにそう話した。
少年は彼女の瞳が陰ったのを見逃さなかったが、今はそれどころではなかった。自分がものすごい体験をしたのだと、手のひらの硝子玉を、物語を見て実感した。青い空に見渡す限りの若々しい草原。まばらに散らばる白い羊と雲。そこに暮らす兄妹。柔らかい空気に、植物の湿った匂い。
「――素敵だった。また行きたい」
気づいたらそんな言葉が口から
彼女は少年の指に触れ、硝子玉を包むように彼の手を握らせた。
「これは君にあげる。君に、一番ふさわしい」
そして囁くように続けた。
「この店では物語を売っているの。それぞれの硝子玉にはわたしが考えた世界が入っていて、その中の登場人物に認められた人間にしか物語は上映されない。わたしはそれを見極めて、お客様にふさわしい物語を選ぶお手伝いをしている。――君はきっと、たくさんの物語に恵まれる。心が優しい人間には、物語も寛容になる」
ね? と言いたげに首をかしげた彼女に、少年はなぜだか照れて、目をそらした。
「……また来ます」
「なんで敬語」
彼女は嬉しそうに笑った。
少年は自分の手元に視線を移し、自身の瞳と同じ色だという硝子玉を眺めた。すでに夕陽は沈んでしまったため手元を照らす光はない。それでも、彼には自分の手のひらが緑に輝いているように見えた。
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