霧の峠道

作者 和之

誰も自分を知らない場所で、失われた記憶を求め闘う男の人生を綴る。

  • ★★★ Excellent!!!

※12話読後時点のレビューを。最新話を読み次第更新したい



この小説に早い段階でレビューできるのはツイている。
凄いと思ったものを他の人に伝えるのは私の快感だからだ。

この作品は東北大震災をテーマにした作品で、誰も自分を知らない場所で、失われた記憶を求めて闘いつづける男の人生を綴る。キャッチコピーに「震災」の文字を入れなかったのは、安易に作品をカテゴライズして作品の魅力を損ないたくなかったからだ。5年前に失われた記憶を求めながら生きる男「岡田」と、彼と出会った人達のことが綴られる。



主人公は山路啓介(やまじけいすけ)。
タクシードライバーの山路が、休暇消化のために越前大野に観光に向かい、宿泊先の旅館の板前「岡田」に出会う。岡田は一期一会を大切にする人物で、山路と観光に出かけ、越前大野を紹介する。
岡田に接するうちに山路は彼に興味を持つ。山路は岡田と彼に関係する人の話を通して、岡田が過去の記憶をなくしていることを知る。山路は岡田の記憶を取り戻す手助けをするため、陰ながら奔走する。



前編は、記憶喪失の男が、失われた記憶を取り戻すまでを描いている。

記憶が失われるという事態は日本で生活していて、めったに起きることじゃない。それが自然現象によるものならば尚更だ。岡田の境遇が、震災がもたらした残酷なまでの破壊力と影響を明瞭に物語っている。
さらに彼は記憶喪失の後、自分を知っている人間が1人もいない。
それでも彼の人徳もあって、彼は1人ではなくなった。旅館の女将や主人公の山路のように、彼のことを思う人がいる。


物語は岡田が記憶をなくした5年後の世界から始まっている。記憶を失ったまま、既に5年経っている。
明らかになっていく記憶がどんなものであれ、自分の過去を知る前と、知った後で、彼が見える世界が大きく揺さぶられることになるだろう。



作者は彼の数奇な人生を通して「生きること」を問う。


和之氏の作品を以前から読ませていただいてるが、中でも一番読みやすい作品だった。密度の濃い文章だが、信じられないほど読みやすい。


この作品を、確かな教養と知性に裏打ちされた筆力を持った作者が書いているというのが肝だ。つまり我々読者をクライマックスまで連れていき、読んでよかったと思える感情体験をさせてくれる筆力がある、ということだ。


和之氏には読者に鮮やかに想像させる確かな土地艦に下地となる豊かな教養がある。

作者は自身が得意とするエリアと建物を徹底的に調査している 。

“と云うのも沖合を流されていた所を、丁度この時に通りかかった福井に向かう三千トンの貨物船に拾われた。降ろされたのは越前の三国港で、そこの近くの魚業組合に預けられました。"


その描写の鮮やかさに抗えなくなり、画像検索と地図サイトを開いて作品を読むことも少なくなかった。



彼の作品は、実在する誰かの人生を語るかのようなリアリティを実現してる、言っても過言ではない。圧巻の総合力である。




ところで物語と言うものは、作り手の力を信頼できなければ読み進めていくのが難しいように思う。


それはカクヨムのような匿名の小説サイトでも如実に現れている。
だからサイト内の書き手は、純粋に好きな作品を読むことのほかに、恩の交換を通して、作品を読んでもらうために他作を読みに行く。

読まなければ、信頼して読んでいけるか判断するのはむずかしい。だから先に読むことで、ある意味「お返し」を期待して自作も読んでもらい、作者と小説の可能性を信頼してもらうきっかけを作る。

それが書店に並べられた本を読む読書過程との決定的な相違の1つだと考えている。

小説サイトの中にある、潜在的に求めている作品に対して、我々は魅力を認識する時間すら与えられないのかもしれない。

本というものは出版を通すことで一定の信頼を読者に与える。
逆に言えば優れた作品であっても、潜在的にその作品をどこかで求めている読者が、作品を見つけることができないことがある。

更に踏み込んで言えば、優れた作品であるほど、見つけることが難しい、という逆説的な状況も容易に起き得てしまう。作品の魅力を他の人にも知ってもらうためには、作品を表現するための言葉の開発が必要になる。作品に対する言葉生むためには、作品に没入する必要がある。出版社の目を通して出た作品は、識者の言葉が添えられる。小説サイトであればそうはいかない。

傑出しているかどうかは、作品に没入し、目を光らせなければ、わからない。

没入の鍵が信頼であるが、信頼を得るためにはその作品の魅力に気づく必要がある。

言ってしまえば、魅力を感じるには没入が、没入には信頼が、信頼には魅力(ここを恩の交換で置き換えられることもよくある)が必要だという、鶏が先か卵が先かと同じ悩ましさに行き着く。

読者にとって作者ないし作品に対する信頼が、数万・十数万もの文字の海に没入し、航海する原動力になっていると思う。


作者は私にとって、カクヨムの中の数少ない信頼できる著者だ。
作者には我々をこの物語の果まで、連れて行く力がある。
今このレビューを読んでくれているということはこの作品を見つけたということ。

作者の力を信じて是非一度、作品世界に身を委ねていただきたい。



和之氏は全作を通して、1つのテーマを追いかけているように思う。彼自身が求めてる表現に到達させようとしている。


1つ残念なのは、私は未だに和之作品の的を射抜いた表現を見つけてられていないことだ。本当は過去作からレビューを書きたいと思っていたが、私の中で十分に表現を練られず、時間がかかってしまった。


これからも作者の作品を楽しみにしている。

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