霧の峠道

和之

第1話 序章

タクシードライバーの山路啓介やまじけいすけは朝には定刻通り出庫した。この日は朝から目一杯走らせても昼間は客が少なかった。残るは夕方の退社帰りを狙って官庁街かビジネス街に車を走らせた。昼間なら営業に出る社員や職員で少しはメーターも上がるが、この退社時間帯では近くの駅でワンメーター止まりだが背に腹はかえられぬ。駅からは拾えず空で戻り片道営業でそれでもやっとで二時間で三杯積めて二千円の水揚げだった。今日は夕方の入れ食いの時間帯でもこの金額だった。郊外へ帰る客を一件乗せれば二十分弱で稼げる額だった。いつもなら切り上げてもう入庫する時間だった。

 この日は夜の七時を回れば客足はピタッと止まり九時まで走っても客は拾えなかった。今まで十時間走ってまだ五千円ちょいでは時給五百円にもならなかった。最も会社の取り分を引くと実収は時給二、三百円だった。

 今日はいつもより引き延ばして夜の九時を回ってしまったがやはり水揚げは足らなかった。もう帰らないと今週は超過勤務になりどっかで休日を入れて帳尻を合わさないと会社は行政処分を喰ら。諦めの悪い山路は今日の最低水準を維持するために河原町を走った。まだ花見小路を流すには早すぎた。かと云って砂糖に群がる五百キロ東の大都会と違ってこの街で一番の繁華街の河原町にはもう人影はまばらだった。

 裏道から引返してラストスパークを賭けて二次会終わりの客を狙って四条大宮から祇園に向かって再度車を走らせた。

 四条西洞院の交差点にそれらしいグループがたむろしていた。ラッキー、チャンス到来。あとは乗ってくれと念じながら速度を落として交差点に差し掛かった。歩道に居たグループから一人の男性が手を挙げた。

 やったーとニンマリした。がここから木屋町ならワンメーターかとさっきまではたとえ直近でも乗ってくれと云う気持ちはもう吹っ飛んでいた。人は喉元過ぎれば何とかで実に気ままナもんだった。しかしワンメーターでも四人乗り小型だから五六人は居そうだ。全員は無理だとふとバックミラーを見たが後続に空車の車はなかった。横断歩道を避けて車を止めて自動ドアを開けて振り向いて客を待った。男性陣の人混みから押し出させる様に一人の若い女性がみんなに送られドアまで誘導されて来た。此の時間で彼女一人ならメーターは上がると勝手に解釈した。だが彼女は立ち止まって乗るのを躊躇い男性陣の方へ振り返った。

「あたしも連れってってよ」

  とドア付近で彼女は乗らない素振りを見せた。どうやら男性陣はお荷物の彼女を帰してこれからまた飲みに行くらしい雰囲気だった。

 周りの男性陣は今日はもう遅い女の子は早う帰った方が良いとなだめられた。

 彼女は散々周りの男達とごねていたがとうとう送り出されてしまった。

 運転手さん待たしてすいませんね阪急の桂まで行って下さいと彼女を後部座席迄エスコートした男が言った。行き先を聞いてこれなら足りない水揚げを挽回出来るかとひと息付くと愛想笑いを浮かべてドライバーは車を発進させた。

 次の新町通りを下がり直ぐに右折して西洞院に戻り、あとは七条通りで右折して真っ直ぐ走れば桂に最短で着く。乗客からの指定が無ければ瞬時にこのコースで走ると山路は決めた。

「驚いたでもあたし酔ってませんよ。それより運転手さんさっきドアまで送ってくれた人どう思います」

「すいませんしっかり観ていませんでしたから何とも言えません」

 道順の指定で無い以外は耳は都合に良いように塞がっている。眼は交通標識と歩道に、その合間にはサイドミラーとバックミラーで狭い道ではバイクに、広い道では他車との車間距離を見定めていた。

「でも観た事は観たでしょう、その印象でいいのよ、何を言われてもあたし文句いいませんから」

 少し呑んではいるがまともそうだと直感した山路はトラブルを極力避けるように話を合わすことにした。

「困っちゃったなあそれほど気になる方なんですかさっきの人は」

 ウフフっと彼女は意味ありげに笑った。それにつられて山路も笑った。

「嫌だー、何か今勘違いしたでしょうそんな人じゃありませんよ内の会社の先輩ですよ」

「中々しっかりした人ですね」

そう云う事かととりあえず当たり障りのない文句を並べた。

「でしょうあたしもそう思うの」

とりあえず彼は話を取り繕った。

「あっそうそう行き先は桂でいいんですね阪急の桂駅ですか」

 山路は本来の業務に戻った。

「そうですけど葛野大路を下がって欲しいの」

 車はまだ西洞院を下がっていた。

「判りました。じゃあ五条から葛野大路でいいですね」

山路は瞬時に七条から五条にインプットし直した。

 今日は新年会ですか。と先ほどの取り巻く男性社員の一団を見て不意に言葉が出た。彼女は素直に返事した。あそこで彼女は紅一点だった。

「女性社員は少ないんですか」

「社内ではほぼ絶滅危惧種なのよ」

「じゃあ大事にされてるんですね」

「そうでもないわよ何かのお飾りもの見たいに幕の内が過ぎれば取り替えられる結婚までの居候扱いなの」

言われて見ればさっきの取り巻き連中はそんな感じにも受け取れた。中でも社内を覗き込むようにして彼女の行き先を言った男はその代表格だろう。そして彼女も山路に印象を求めていた。だがアッサリと引っ込めたからそれ以上でもないしそれ以下でも無いかと納得した。

 彼女は郷里は和歌山だと言った。紀ノ川でよく父が鮎釣りをしていた。

「鮎はコケばかり食べるから餌では釣れないから元気な鮎を泳がして釣る、その友釣りを見ているとなんか内の会社の連中とダブってくるんですよね」

「そうなんですか」

「そうなんですよ、運転手さん」

 彼女は身を乗り出して来た。

「女を高級ブランド品で釣るのよ、辞めた前の彼女が言ってた。一緒になってからそのカードローンをあたしが返済するなんてばっかみたいとも言ってた。これって鮎の友釣りよりえげつないと思いません?」

「まあ気を惹く切っ掛けはどうであれそれでも好きで一緒になったのですから」

「そんな成り行きなんて愛じゃないでしょう好きなら堂々と心を開いて求めるべきです」

「有島武朗に言わせれば愛は惜しみ無く奪うですか」

 やっぱりこの人は少し酒が回っていると頭を冷やす意味で文豪の一節を言った。

 そこで彼女の態度が変わった。なぜ有島だけが賛歌されて一緒に心中した秋子さんは呪われ無ければならないのですか、と運転席の背もたれにつっかかる様に抗議して来た。

 まずい気を逸らすつもりがやぶ蛇になってしまった。

「あの軽井沢の心中事件ですか、それとさっきの友釣りとどう云う関係でしょう」

 山路は問題をはぐらかした。

「そんな事知りません持ち出したのはあなたです」

 彼女は姿勢を戻して深く後部座席に身を沈めた。

「でも観光でも無いのにそんな話するなんて珍しい。いつかゆっくりそんな話をしながら市内巡りも良いかしら。今度は貸切で頼もうかしら」

 車はとうに桂川を渡りそして彼女は葛野大路の景色に見とれると山路は運転に専念した。車が桂離宮に近付くとそこから細かく道順を指定して彼女はタクシーを降りた。確かな足取りで去ってゆく後ろ姿を見ながら日報に降車地と運賃と時間を記入し彼はそこで今日は入庫した。




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