第2話 過去を見つめる男

 正月休みの幕の内が過ぎるとあれから前回の新年会帰りの様な料金メーターの上がる客には恵まれず年明けから客足は伸びなかった。

 今月分の締め切り日が迫る中で会社も「今月はもう後がない、今から他府県に行くような長距離客を幾つも望めないからこの辺で何とかしろ」と言われた。

 これはからで走り回ってもしゃあないやろう。このままでは行政指導を喰らうから何とかしろと云う忠告に近かった。どうせなら気分転換にと山路はこのさいに超過勤務分を帳消しにするために休暇を取ってまた越前大野の短い旅をした。

 昨年の十一月に雲海の越前大野城を狙って行ったが雲海は出来ず外れだった。その悔しさもあって今度は雪景色を狙った。前回宿泊した時は旅館の調理場の板前とあの山城の話で意気投合してしまった。

 彼は名乗らなかったが胸につけていたネーム版で岡田と云う苗字だけは分かった。お客さんの前に顔を出す機会が少ない調理場の人でも名札を付けるのかと思った。とにかく彼は何事にも関心を持った。シーズンオフなら尚更に彼は人前に出た。特にあの越前大野城の雲海に憧れて来たとひとこと言うと、彼は接客係でもないのに暇を見つけては山路やまじの所によく行った。

 その彼をまた訪ねて城の撮影ポイントを訊くのも悪くはないとの思いもあった。実際に今回は更に旅館も暇だったから昼間は彼が幾つかの撮影ポイントを今度は店の車で案内してくれた。その時に彼は車でも撮影ポイントでも常に身の上話をしてくれた。

 それで山路は彼があの東日本大震災での津波に遭遇して記憶を失くしていた事を初めて知った。それで彼が付けていた名札も昔に居た人の物だと解り、それがこの旅館では岡田と呼ばれていた理由わけだった。名前を知らないのだから彼には何の抵抗もなかったようだ。

 そこから岡田さんの身の上話ではこの五年間でどうにか思い出したのは津波以後の途切れ途切れの過去だった。


 彼が津波の呑まれた場所は特定出来ないがどうやら彼は元は漁師だったそうだ。

 ーーと云うのも沖合を流されていた所を、丁度この時に通りかかった福井に向かう三千トンの貨物船に拾われた。降ろされたのは越前の三国港で、そこの近くの漁業組合に預けられました。そこで元気になってから漁に一緒に出して貰ったところ教えもしないのに漁船の扱いに慣れているのに驚き「おめえは漁師じゃねぇのか」と言われました。ロープの扱いもれっきとした漁師結びで、漁師飯と云うやつも勝手に作れるからだ。

 場所や時間からひょっとしたらあの地震の時は漁に出て沖で津波に巻き込まれてそれで記憶喪失になったと考えるのが一番妥当な話だったんです。そこで漁師仲間に当たって貰ったのですが……。

 なんせあの東日本大震災は南は茨城県から北は青森県までの太平洋岸ですから、それにかなり広範囲に流失物が広がってアメリカの西海岸まで漂着した漁船もあるそうですから絞りきれず、未だに遭難の場所が特定できていなかった。

 実際にそこで世話になると勝手に手が動き出す。すると断片的に身体が覚えていた物に理屈が付いて来る。少しずつ以前はこうだったと云う記憶がよみがえりだしたんです。すると漁船の狭い世界だけでは記憶の回復はおぼつかない。

 やはり漁師は疲れますから帰港すると部屋で寝込み、そして仕込みが終われば直ぐにまた出港ですから視野が広がりません。

 それを見兼ねた組合長が「アンタの場合は仕事よりも自分が何者かと云う事を知るのが先決だ」と言われました。

 それでおかに上がった方がアンタの為になると、以前から付き合いの有ったこの旅館を紹介されたのです。

 聞けば聴くほどその境遇に同情した。

「車の運転も勝手に動いたのですか ?」

「これは三国の漁業組合長の見立てと云うか、アッ、船長が紹介してくれた人は水島さんと云う人です。とにかく船長は水島さんに『彼が興味を示した物は何でもやらしてやって来れ』と頼まれていましたから、でもさすがに車の運転には躊躇したらしいのですが、やり方を教えられて動かしてみれば難なく手足が動きました。どうも慣れた物なら本能的に動くようです」

「でも無免許でしょう」

「水島さんはそれを逆手に取ってどしどしやらせました」

 ーーあの震災ではまだ行方不明者は何千と居るから戸籍を当たっても何処の誰かも判らない人に開示するわけがない。想定内のことしかやらないのが役人だからなんぼ事情を説明しても無駄で、でも善意の役所があっても千キロ近い海岸線から遭難場所が特定出来なければ当たりようがなかった。

「でも東日本以外からの出稼ぎの漁船なら無理でしよう」

「それは無いでしょう。大型の船の操船にはあやふやなところが有るようですから、おそらく二十トン未満の小型船舶だと水島さんはにらんでました。でも大型のカツオやサンマ漁船の甲板員なら漁をするだけで操船はしないからなんとも言えないが・・・まあ考え出したらきりが有りませんから」

 ーーそこで水島さんは違法な無免許で引っかかれば名無しのごんべいでは書類が作れない。だから身元調査に警察が動いてくれれば助かる。でもニュース沙汰になることは絶対するなと言われた。

「どうしてですか?そっちの方が早わかりになると思いますが」

「水島さんはやはりあの船長が見込んだだけのことは有る人でした。『もしアンタに負債があればヤクザまがいの借金取りがわんさか押し寄せても困るでしょう』と言ってくれました。水島さんは女将おかみに車の運転でも何でも彼が関心を持ったらやらしてやって来れ、その責任は取るとまで云いましたから、それで旅館からも私は信頼されてます」

 ーー漁師だと勝手に身体からだが動いて生活の基盤も出来上がっていましたから、それを一からやり直すのはやはり不安でした。ただ魚がさばけてある程度のまかない飯も作れる。漁師を世話する組合長がそこまで考えてくれた。だから一般の人々と頻繁ひんぱんに接触できる旅館の調理見習いで紹介してもらいました。

「だから山路さんと懇意にさしてもらったのも何かの縁でしょうね」

 一応、岡田と呼ばれた人は屈託の無い笑顔で喋っていた。

 こんな風に越前大野での旅はあっと云う間に過ぎて仕舞った。翌朝には彼に駅まで送ってもらった。その車の中ではこの旅行で聞きそびれた事が訊けるまでなっていた。

「助けてくれた貨物船ですが何でまた福井県の三国港で降ろしたんですか」

「なんせ記憶喪失者ですからね何処でも良いと云う訳にはいかなかったのでしようね。船長が三国の漁業者に信頼の置ける人が居るからとそこに預けられたんです。もっとも貨物船も福井の敦賀に会社が有りますから」

「助けられた場所はどの辺りなんです」

「福島県の沖合でした。貨物船は放射能汚染が気になるのか沖合を航行したのです。しかしそこで減速してしまった。もし沿岸部を航行していれば私は見つけられなかったでしょうね・・・」

 ーー五年前の三月十一日、その日、貨物船は静岡県の焼津港で積み荷の陸揚げ中に地震に遭って、早朝には焼津を出て直ぐに二十二ノットに増速した。ニュースでも取り上げていない。とり越し苦労だと思うが用心に越した事はないと船長は一気に福島沖を通過しょうとした。だが一晩置いたにも関わらず現場海域にはまだ余りにもおびただしい数の漂流物が有った。危険を感じた船長は半減速を命じた。船は十一ノットまで減速した。そこで彼を発見した。

「向こうで見つけてくれたのですか ?」

「そうです、良いように運が重なってくれました。その時はなんかタンスの様な木箱に収まっていたそうです」

「じゃあ三陸海岸のどっかの民家から流れ出た物なんですかねぇ」

「さあそれはサッパリ記憶にありませんから」と彼は笑っていた。

「それもそうですね、でも良い笑顔をされますね」

「今のわたしは何もない人間なんですよ。だからいつも笑って自分をさらけ出して記憶のきっかけ作りをしているんです」

 彼は記憶を無くしてからは良好な人間関係を築く事で失われたものを取り戻す努力をして来た。それで習得したのがこの笑顔だった。

「じゃあ生まれ付いた物じゃないんですね」

「そうですね、だから心の中はやはり閉ざされた漆喰の闇に居るようなものですよ」

 これが彼の本音のようにも聞こえた。

「だからこうしてサッパリとさらけ出すことで周囲の人々も私の過去に光が当てる努力を惜しまなかったのですよ。その時に身に付けていたのはこれだけでした。だからこれも光のひとつなんですよ」

 そう言いながら小さな袋を出した。

「中を見ていいですか」

「どうぞ、そのつもりですから」

 中には十センチほどの長さの仏様のような物が入っていた。

「旅館の女将さんに見てもらったら何でも奈良の長谷寺の御本尊である十一面観音菩薩に似ているんじゃないかしらと云うんですよ」

「遭難した十一日に唯一身に付けていたのが十一面観音菩薩ですか」

 ーー旅館の女将さんの説明では長谷寺の御本尊の十一面観音菩薩は紫式部も参拝したそうだ。そして今昔物語りには奇跡に巡り会える観音さまと書かれていた。

「それを聴いてからこうして大事に持っているんですよ」

 そこからはどうしても自分の過去を知りたいと云う強い願望がヒシヒシと伝わってきた。

「岡田さんですか。早く本当の名前が判れば良いですね」

 そこで駅に着いてひと言そう云って別れた。

 彼は己の心を隔離して生きて来た。いやこれから先も隔離して生き続けねばならないのか、何とか津波で失われた空白を埋めてやりたいとも思った。

 彼の周りに居た人々とは五年前に彼の意志でなく自然の力に因って一方的に絶縁されている、それはあまりにも理不尽だった。しかし、ひょっとしたらあの笑顔が消えるかも知れない悲劇が待っているかも判らなかった。それを思うとちょっと気の滅入る旅でもあった。


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