第8話

 耳を劈(つんざ)く断末魔。内蔵を掻き回す湿った音。暗闇の中で赤い瞳がじっと俺を見た。ああ、またこの夢か。夢の中の俺は恐怖から動くことも出来ず、ただ床にへたり込んでいる。女性が誰かの名前を読んでいるが、耳を塞がれたようによく聞こえない。声を上げることは出来ず、逃げることも出来ず。横たわる男女は灰色に変わり、触手が足の先から絡みついてくる。鼻や目からもぞもぞと触手が入り込んで内側から侵される。右目の内側から目玉を絡め取られ視界から色が消えていく。俺の記憶も存在も全て消えていくような喪失感と失望。徐々に意識が浮上して右目を這い回る感覚が鮮明に――。

「――みさんっ」

 大きく肩を揺さぶられて目が覚める。視界の狭い狐面越しに心配そうなお巡りさんの顔……もとい三日月の面が見えた。息苦しい。酸素が入ってこない。

「起きれますか。僕の呼吸に合わせてください」

 起き上がった俺の手を握り、狐面の額と額を合わせてきた。ゆっくりした深呼吸につられ少しずつ酸素が入ってくる。どうやらここは俺の家らしい。熱を出した時のように頭がぼーっとして全く働かない。

「大丈夫ですか。うなされてましたよ」

「あぁ……」

 頭が重い。今朝までのスッキリ感が嘘のようだ。ストーブは付いている筈なのに寒くて仕方がない。風邪か…?

「香墨さん、最近ちゃんと眠れてますか?」

「?」

「ここへ運んだ時になんというか…眠った痕跡がなかったもので」

 ああ、そうか。リビングを見たんだろう。買ってきた物のゴミや本、今作っているペンの道具や削りカス。そういったものがソファーの周りに集結している。眠れないからずっとそこで過ごしていたし、片付ける気も起きないからそのままになっていた。一方寝室は最後に起きた日から布団は勿論カーテンすら開けていない。今は狐月が運んでくれた時に空気を入れ替え陽をいれてくれたのだろう。

「あ〜、なに、ちょっと寝不足なだけだよ」

 至ってなんでもない様に軽く答える。こういう事は今まででもあった。今回はちょっと夢見が悪すぎるけど、大抵女の子と夜の運動をすれば疲れて眠れた。

「どうしてこうなってるんだっけね」

「図書館でのこと、覚えてますか?」

「図書館……」

「僕のこと分かりますか?」

「分かるよ。狐月だろう?」

「!!」

「……………………あ」

「今名前……」

「忘れて」

「狐月って……」

「言ってない」

「もう一回呼んでください!」

 しまった。目の前の男はご褒美を前にした大型犬の様に食いついてきて今にも飛びつかんばかりだ。俺としたことが。

「言わないし言ってない! あぁ、思い出した猿だ。本を踏みつけるからついカッとなって」

「寝不足のせいでおかしくなってたんですね。あんな事するから吃驚しました」

「あんな事? ……ああ。思い出した。あのまま握り潰そうと思ったのにあいつ」

「……」

「あ、いつもあんなお仕置きをするわけじゃないよ?」

「紙は大事に扱いますね」

「やだなぁ、無闇に切ったり破いたり踏んだりしなければ何も思わないよ」

「よかった…」

 狐月から事の顛末を完結に聞かされ、内心舌打ちしつつももう関わって来ないならいいかと再び布団に身を投げた。ちゃんと横になるのは四日ぶりか。やっぱり軽い運動をしないと眠れそうにない。村で引っ掛けるわけにもいかないし、そういうお店があるようにも思えないけど。横向きになってごろ寝の体勢で狐月の方を向く。帰る気配がまだなさそうだ。

「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど」

「なんでしょう」

「この村にソープってあるのかい?」

「へ?!」

「ソープランド」

 声を裏返すような質問だったか……? 職業柄そういうのはきちんと取り締まらないといけないだろうし絶対知ってると思ったんだけど、この慌てぶり。ははぁん、さては……。

「この村にはそういうお店はないですね。ママさんがやってる居酒屋さんとかならありますけど」

「そうなのかい。残念」

「残念って」

「君も男なら分かるだろう?」

「なんてこと言うんですかっ」

 この男が何歳なのかは知らないが、今時この程度の話でこんなに恥じらう奴がいるとは恐れ入った。ピュア過ぎて面白い。

「君ああいうお店行ったことないのかい?」

「昔先輩の付き合いで行ったことならありますけど……あんまり好きじゃないです」

「へぇ、そう」

「そんな事より今は少しでも寝てください」

 狐月が手に触れ、そのまま首筋に掌を当ててきた。狐月の体温が高いのか、俺の体温が低いのか。

「まだ冷たいですね。ホットミルクでも作ってきましょうか」

「君誰にでもこんなに世話焼きなのかい?」

「? そんな事ないと思いますけど」

 天然の人たらしか。

「何か出来ることがあれば言ってくださいね。何でもしますから」

「何でもねぇ。じゃあ湯たんぽになってよ。布団の中が冷たくてねぇ」

「えっ」

「何でもしてくれるんだろう? 温まるまででいいから」

 布団をめくって空いた場所をぽんぽんと叩いて誘う。狐月は困った素振りを見せながらも、じゃあ少しだけですよと遠慮がちに入ってきた。布団の半分が冷たくて、半分が温かい。思ってたのと少し違うが、まあ仕方ないか。

「……。香墨さん」

「ん?」

「失礼しますね」

 どうしたのかと思っていると、体を寄せられ腕を回された。んん?

「男と抱き合う趣味はないんだけど」

「こうした方が温まるかと思って」

「まぁ……」

 確かに温かい。触れ合ってるところから熱が伝染していく。

「温かいですか?」

「そうだね」

 一定のリズムで背中を叩かれ、広がった柔らかい温もりも相まって妙に落ち着く。そういえば図書館の本はどうなったのか。カミ蟲に聞きたいことも沢山ある。繭から作る紙…繭は最近作るようになったあれだろうか。どうせまたあの夢を見るくらいなら続きを読みたい。

「大丈夫ですよ。僕がいますから。怖い夢を見たら助けにいきます。だらか安心して眠ってください」

 子供じゃあるまいし何を――。そう思ったところで香墨の記憶は終わっていた。

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