第3話

 月のない夜。ほろ酔い気分で畦道をゆく狐面が一つ。男は陽気に鼻歌なんぞを歌っていましたが微かに聞こえる、ざっく、ざっく、という音に周囲を見渡しました。辺りは薄暗く、後ろの方にある街頭の灯りが僅かに届いているだけです。

 この辺りには昔から赤子だけを食べる狐面がいたと言われいました。そしてその狐面は赤子の血で真っ赤に染まっているというのです。新月の夜。赤子の泣く声が聞こえても決して見てはいけません。それは食べられてしまった赤子の声。

 男はそんな話を思い出し、なんだか嫌な感じがして足早に立ち去ろうとした時。んぎゃあ、んぎゃあ、と赤子の声が聞こえたのです。男はびっくりして走り出すと、次の街頭の先に何かがぼぅっと見えました。それは赤くて、ちょうど人の顔の高さあたりをゆらぁり、ゆらぁりとしています。何かと思い目を凝らしてみると、それは血に染まった真っ赤な狐面。

「見、タナ……殺ス、殺ス……」

 ずっと先にいるはずの赤い面の声が何故かはっきりと聞こえました。男は一目散に逃げました。走って走って、ようやく自分の家に着きました。急いで鍵をかけ、男はそのまま玄関に崩れ落ちます。

 はあ、はあ。さっきのは何だったんだ。昔話にある赤子の? まさかそんなわけない。俺ァ酔ってるんだ。そうに決まってる。

 呼吸を整えながらそう言い聞かせて顔を上げると、暗闇の中に一つ。赤い狐面がおりました。

 翌日、目玉を抉り取られ手足はなく生まれたての赤子のように全身真っ赤に染まった男が発見されたそうな。


 パッと部屋の明かりがついた。テーブルの上の蝋燭が真新しい煙だけをあげていてる。その他にはマグカップが二つと寒紅梅の練切が二つ。それと少しだけ強張っている香墨が一人。

「どうでした?」

「あ、あんまり怖くないねぇ。君はほら、雰囲気がほわっとしてるから」

「いつもより声が固いですよ?」

「っ」

 なんでもないフリをしているがバレているようで、インクで汚れた狐面をつつかれた。冬のこども会の出し物に何故か怪談を選んだ狐月が、夕食ついでにその腕前を披露したのだ。夜更けまで出歩いてはいけません、という教訓もきちんと含まれているらしい。

「気のせいだよ。そういえば君、切り干し大根の作り方って知ってるかい? 今日大根貰っちゃってねぇ」

 狐月は何故か小さく笑うと、練切を半分に切って口に運んだ。友人の家に遊びに行く手土産、という名目で最近は自分で買えるようになったらしい。それでも相当な勇気がいるという。近寄ってきたカミ蟲を撫でると嬉しそうにもにょもにょと動いた。

「香墨さん、お料理されるんですか?」

「俺がしてるところ、みたことあるかい?」

「ないです。どなたから頂いたんです?」

「狐面に角の生えた、背中が丸くて明るい御婦人だったよ」

「ああ、五鬼助のおばあちゃんですね。簡単なので今度教えます」

「助かるよ」

「あとこんなのが落ちてましたよ」

 差し出された手のひらには、白い半透明の繭が乗っていた。見覚えのあるそれに、ああ……と呟く。カミ蟲が随分と小さくなった頃から現れるようになったそれを、香墨はどうしたものかと持て余していた。手に取ると重さはほとんど感じない。

「これ何かわからないんだよねぇ。カミ蟲が作ってるみたいなんだけど」

「繭みたいですし、糸に出来るんでしょうか」

「そうかもね」

 前のどこにしまったっけ……とトランクを漁っている間に、狐月が食器類を綺麗に片付けておいてくれた。女性だったらきっと良い奥さんになるだろう。惜しい。……惜しい? いや、別に惜しくはないか。

「さて、そろそろ失礼しますね。明日当番※なので」

「ああ、気を付けて」

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 見送りがてら玄関から空を覗き見ると、真っ暗な空が広がっていた。

「今日は新月か」

 今の仕事も終わりが見えてきたし、そろそろ商品を作らないと。白い息が夜空に溶けていくのを目で追う。冬の空はいい。と、何処かから赤子の声が聞こえた。


――んぎゃあ、んぎゃあ――


 声の場所を探すと雑木林の中に赤い狐面が一つ。じっとこちらを見つめている。はは、まさか。悪い冗談だ。真っ赤なそれが、別のものとリンクする。

 以前から悪い夢をよく見る。暗い場所で湿った音が響いている。大きな黒い塊が肉を喰らう音。そして振り返った見えた赤い瞳。だが色喰を事があってからより鮮明に見るようになった。触手のようなもので右目を直接触られる感覚。体にまとわりつく黒い影。その全てが同時にフラッシュバックして、頭の中がぐらんぐらんする。面を毟り取り右目を抑える。荒くなった呼吸を落ち着かせてもう一度顔をあげると、赤い面も赤子の泣き声も消えていた。


※当番……朝八時半から翌日の八時半までの二四時間勤務のこと。

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