第9話 聞こえなかったはずの声

 押入れを引っ掻き回すのに、埃を舞い上がらせながら、ほとんど半日潰した。

 日が落ちきり、蝉もすっかり鳴きやむ頃になって、亮はようやく目当ての品を探し当てた。

 兄が押し付けていった古い持ち物の中に、それはあった。

 小学校の卒業アルバム。もう何年も開くことさえなかった冊子は、ページをめくるとぱりぱりと音がして、独特の匂いを立ち上らせた。

 いた。

 須山文香。名前の上の写真を見ても、まだすぐに、印象が結びつかなかった。

 顔、変わりすぎだろ。

 口の中でぼやいて、亮は頭をがりがりと掻いた。それでもよくよく見れば、目元のあたりにわずかに面影があった。

 そういえば不動産屋と一緒に下見に来た日、文香は亮の顔をみて、一瞬、驚いたようだった。寝ている間に知らない人間が上がりこんでいたからだろうと、そのときはたいして気にしてもいなかったが、思えば文香のほうは、最初から気づいていたのだろう。

 何も言わなかったのは、気まずかったからか。それとも、ちっとも気づくようすのない亮を見て面白がっていたのか。

 後のほうだろうという気がした。

「あのやろう」

 毒づく声が、虚しく壁に吸い込まれる。窓の外でひぐらしが一声だけ、名残を惜しむように鳴いた。



 翌日は、蝉がうるさくて目が覚めた。

 カーテンのないままの窓から差し込む陽が、閉じたままの瞼ごしに、きつく目を射る。日は高いようだった。今日のシフトは夕方からだ。もう一度、寝なおしたいところだった。

 寝返りを打って陽射しに背を向けた、そのとたん、テレビをつけろと叩き起こされた昨日の記憶が、瞬間的に蘇った。

 目を開けて、体を起こす。何度瞬きをくりかえしても、部屋の中には自分ひとりしかいなかった。

 窓の外で、蝉はわんわんと騒々しく声を張り上げている。それでも部屋が妙に静まりかえって感じられた。

 布団を押しのけて、あぐらをかく。気温はすでに上がっていて、汗で背中が濡れている。寝癖だらけの髪をかきむしって、亮は溜め息を漏らした。

 落ちていたリモコンを拾って、テレビをつける。ちょうどローカルニュースの時間らしく、昨日の試合結果が画面に表示されていた。文香の高校がどっちだったのかは、そういえば訊かなかった。

 テレビを消した。

 妙に落ち着かなかった。おかしな同居生活がはじまって、まだ二週間にもならなかったというのに。むしろうるさいのがいなくなって、清々してもいいはずだった。

 消える直前に文香が見せた似合わないほど素直な笑顔が、瞼にちらついた。消えていく文香が最後に言った言葉が、聞こえなかったはずなのに、なぜか耳に残っている気がした。

 ねえ、あんたさ。やっぱりもう一回、野球、やってみなよ。

 ――ああ、そうか。

 自分が落ち込んでいるわけにようやく気づいて、亮は憮然と唇の端を下げた。

 同じ女に、二回もフラれるとか。

「だっせえ……」

 頭をがりがりとかきむしる亮の耳に、応援ソングが飛び込んできた。隣で下山が、テレビをつけたのだろう。

 今日が、決勝戦だろうか。



 午後、下山に誘われて裏庭に出た。

 建物の陰になっているのもあって、意外と涼しい。日曜だからか、車が三台、端に寄せて停められている。

 見上げる空は、よく晴れている。伸び放題の雑草がちくちく足を刺した。

「投げていいよー」

 準備ができたらしい下山が、のんびりした声を上げる。亮は手の中の硬球を見下ろして、ためらった。

 もともとが小ぢんまりしたアパートの庭だ。めいっぱい端に寄ってもたいした距離ではない。それでも少し、緊張した。

 グラブは、長く手入れもせずにほうっておいた割に、しっくりと手になじんでいる。六年か、とあらためて数えると、不思議な気がした。

 ボールの縫い目を、親指の腹でなぞる。何度か軽く肩を回して、足元を踏みしめる。

 軽く、放った。放物線を描いて、ボールが向こうのグラブに吸い込まれていく。おっ、と、下山が嬉しそうな声を上げた。

 投げ返されるボールを追って、手を高く掲げる。ぱしん、と、けっこういい音がした。

 肩を回す。今度はさっきより、少し強く投げる。

「でも、びっくりしたよな」

 ボールを投げ返しながら、下山が寂しそうな声を出した。「あんなにあっさりいなくなっちゃうなんて、さ」

 ぱしん。グラブの中のボールをしっかりと握り締めて、亮は肩をすくめた。

「そういうやつです」

 それが自分の耳にも拗ねたような声に聞こえて、亮は思わず顔を顰めた。下山が、小さく笑う。

 投げる。少し狙いがそれた。下山が大きく手を伸ばして、なんとか捕る。

 投げ返されてきたボールを追いながら、なまってるなと思って、ふと苦笑が漏れた。当たり前だ。

 遠くから響く鋭い打球音が、高い空に吸い込まれていく。練習の声がいつもより賑やかなようだ。下山が言うには、近所にある工業高校は惜しくもベスト8に入りそこねたらしい。負けていっそう気合が入っているのだろう。

 もう七月が終わる。

 ランニング中らしい高校生の掛け声と足音がアパートの前の道路を近づいて、また遠ざかっていく。

 投げたボールが、小気味のいい音を立てて下山のグラブに吸い込まれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

去りゆく七月の空に 朝陽遥 @harukaasahi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ