第8話 許しては駄目なもの

 文香の父親は、すぐには目を覚まさなかった。亮は迷ったが、呼吸はしっかりしていたので、そのまま寝かせておくことにした。

 少し離れた畳の上で膝を抱えて、文香はぽつぽつと話しだした。

 昔から酒が入ると、人が変わった。大声で怒鳴られるのはしょっちゅうで、手が出ることも珍しくなかった。手足や背中には、いまでも古い痣や傷あとが残っている。

「よく夜中に、一階で怒鳴ってるのが聞こえてきて、それで目、覚めたりして。小さくなって頭から布団かぶって、耳ふさいで。早く終われ、早く終われ、早く終われって」

 怒鳴り疲れた父親が眠ったあと、静かになった家の中で、今度はこみ上げてきた悔しさに襲われる。どうしてこんな思いをしなくちゃならないんだ。外面ばかりよくて、酔っ払って家族に当たることしかできない、こんなつまらない男に、なんでここまで振り回されなきゃならないんだ。

 文香が話す間、テレビがいつまでも虚しく球場を映していた。ときおりファインプレーに、歓声が沸く。応援の音が、妙に遠く聞こえる。

 亮は口を挟まずに、文香の話をただ聞いた。その声は、小さく震えている。話すのをやめさせたほうがいいのかと、一度ならず思った。けれど、ときどき言葉を詰まらせながらも話し続ける文香を見ていると、何もかも吐き出してしまったほうがいいのではないかという気がした。

「中学生のときだった。あたしがまだ起きてる時間に、酔っ払って帰ってきて。そのときにはもう、機嫌悪かった。口答えしたら、一升瓶、頭の上に振り上げられて。まさかホントに振り下ろすはずないって、思いたいけど思えなくて、怖くて、怖いって思うのが悔しくて、悔しくて、目を逸らしてやるもんかって思って、ずっと睨みつけてたら、赤かった顔、ますます赤くなって。手なんか、ぶるぶる震えてて」

 文香は話しながら、亮にも、意識のない父親のほうにも、けして視線を向けようとしなかった。

「あたしをかばった母さんが蹴られて。なんともないって言い張ってたけど、翌日病院につれてったら、肋骨にヒビ入ってて」

 言葉を切った文香の口元を、亮はじっと見ていた。その唇が、震える息を漏らすのを。

「このままじゃ、いつか母さんかあたしか、殺されるって思った。それくらいなら、その前に殺してやるって。酔いつぶれてるときに包丁で刺そうか、それとも階段から突き落としてやろうかって、何回も何回も何回も思って。でも、そのたびに、こんな男のために人生狂わせてなんかやるもんかって。なんであたしがそんな目に遭わなきゃいけないんだって。なんであたしが」

 言葉を切って、文香はうなだれた。そして、顔を伏せたまま、小声でいった。

「悔しくてたまんないのに、こんなくだらない男って思うのに、いざ殴られるとなったら、怖くてしかたないんだよ。手、ふりあげられるたびに、いちいちびくびくするのがどんだけ惨めか、あんたにわかる?」

 亮は無言で首を振った。何か言おうとしたが、答えるべき言葉は、何も持っていないような気がした。これは自分にも向けられた非難だと思った。

 これまで亮が声を荒げるたびに、文香はびくりと身をすくませていた。そのあとすぐに怯えたことをごまかすように、悪態をついて。

「母さんといっしょに家を出て、何年も経って。それから一回も会わなかったのに、大人になっても、まだ夜中にときどきうなされて、飛び起きて。冷や汗びっしょりかいて。そのたびに悔しくて、情けなくて、こんなつまんないことで、なんでいつまでもこんな気持ちにならなきゃいけないんだって、そう思ったら、悔しくて悔しくてたまんなくて、そういうのが」

 語尾が掠れて消えた。文香は問いかけながら、答えを求めていないようだった。ただ自分の膝に目を落としたまま、ひきつれた声で続ける。

「それなのに、いつまでも忘れないんだよ。海で溺れそうになったときに、あわてて引き上げてくれた腕とか。熱、出して寝込んでたときに、髪を撫でてくれてた手とか。父の日にプレゼントした時計、ボロボロになってもまだつけてることとか。思い出したくもないのに、何回も思い出すんだよ。馬鹿みたい。その何倍も、殴られたり、蹴られたりしてんのに。あんなやつ、さっさと死ねばいいって思うのに。なのに、なんで」

 文香はそこで、ぶつんと黙り込んだ。深くうなだれて、顔を見せようとしない。

 かける言葉を、見つけきれなかった。

 迷う亮の背後で、小さくうめき声がした。振り返ると、文香の父親が意識を取り戻して、頭を振っていた。

「大丈夫ですか、槙野さん」

 迷ったが、ほうっておくわけにもいかず、亮は身を起こす男に近寄って、声を掛けた。

「あ、いや……」

 男は首を振って、眩暈を堪えるように、何度か瞬きをくりかえした。それから、大丈夫です、ご迷惑をおかけして、というようなことを、もごもごと呟いた。

 亮は無言で首を振った。わが子のような年齢の男にさえ、そんな気弱な敬語で話しかける人間と、文香が話す父親の姿が、うまく頭の中で結びつかない。

「その、槙野というのは、あれの母親の姓でして。私は須山といいます。別れてから、もう五年近くになるので、私のほうにお電話いただいて、正直、驚いたんですが」

 まだ少し頭がふらつくようで、男の語尾は怪しく濁った。だが亮はそれよりも、言葉の中身のほうに気を取られていた。

「須山……須山文香?」

 呟いた声は小さすぎて、眩暈を堪える男の耳にまでは、はっきり届かなかったようだった。

「あの、何か?」

「あ……いや、何でも」

 亮は首を振って、ちらりと文香に視線を向けた。文香はまだ深くうなだれていて、顔が見えない。

 亮の視線を追いかけて、須山は不思議そうな顔をした。やはり彼の目には、娘の姿はまったく見えていないらしかった。

 須山は腕時計を見下ろして、小さく息をついた。自分がそれほど長いあいだ眠っていたわけではないことを確認して、安堵したようだ。

「いや、どうも。いままでこんなふうに急に倒れたことなんて、なかったんですが。重ね重ね、とんだご迷惑をおかけしました」

 もう、すっかりいいようです。どうも申し訳ない。そんなふうに何度も謝罪を重ねる須山を見つめて、亮は迷った。

 文香の代わりに、一発ぐらい殴ってやってもいいのではないかと、さっきまで思っていた。しかし、情けなく肩を落としている須山を見ると、どうしても、そういう気分になれなかった。

「病院、行かれたほうがいいっすよ」

 自分の言葉の間抜けさに、亮は思わず鼻に皺を寄せたが、須山はそれには気づかなかったようすで微笑んだ。

「そうですね。ありがとう」

 その人のよさそうな笑顔に、亮は困惑した。

 須山の顔色や、痩せこけた首を見ていると、本当にどこか悪いのではないかと思えた。それがアルコールのせいなのか、娘を失った心労のためなのか、ほかに原因があるのかは、知りようもない。

 亮は無言で文香の荷物を差し出した。なぜ連絡先がわかったのかと怪訝に思われそうだったので、封だけ切ってある。須山は頭を下げて、箱の中身をあらためた。

 拍子抜けするほど、なんということのない品ばかりだった。あまり高くはなさそうなアクセサリー、写真立て、CDが何枚かに、使い終わったらしい手帳。普段は使わないものを、とりあえず入れていたのだろう。

「――ああ。たしかに、娘の荷物のようです。見覚えのある小物が、いくつか入っている」

 そう言って、須山は眼を伏せた。その視線が、迷うようにひとつひとつの品の上で止まり、そのたびに苦しげに揺れるのを、居心地の悪い思いで、亮は見ていた。

「何年も会ってなくても、そういうの、わかるもんなんすね」

 口に出してから、厭味だったかとちらりと思った。けれど、須山に気にするそぶりはなかった。

「あの子の母親に連絡して、どうするか決めようと思います。お手数をおかけしました」

 もう一度丁寧に頭を下げて、須山は部屋を出て行った。そのくたびれた背広の後ろ姿が、ふらつきながら遠ざかるのを、亮はいっとき玄関先から無言で見送っていた。



 振り返ると、文香の姿がなかった。ぎょっとして、亮は部屋を見回した。一瞬、父親のあとを追いかけて部屋を出て行ったのではないかという考えが頭を掠めた。

 けれど杞憂だった。ガラス戸の向こうに、後ろ頭が見えている。

「なあ」

 戸を開けて声をかけても、文香は振り向かなかった。かまわず、亮は話しかけた。

「野球、親父さんが好きだったんだな。一緒に観たりしてたのか」

 返事はない。

 ベランダに出ると、風があった。文香は膝を抱えてうずくまっている。妙なもので、寝癖がついたりするくせに、髪が風にそよぐことはないようだ。

 その隣にあぐらをかいて、亮はガラス戸にもたれた。置きっぱなしにしていた煙草の箱を手にとり、少し迷って、やめる。

 部屋の中からは、定番の応援ソングが鳴り響いている。なにかしたり顔で説明している解説者の声を縫って、ときおり歓声がまじる。

 長いこと、黙り込んでいた。

「ほんとは、わかってる」

 唐突に、文香が口を開いた。その声は、さきほどまでに比べてずいぶんと落ち着いていたけれど、それでもわずかに、震えている。

「父さんだけが、悪かったんじゃない。母さんやわたしだって、ひどいこと、言ったりした。もっとわたしが、可愛げのある子どもだったら、殴るなんてとんでもないって、自分が守ってやらないとって思うような、素直な娘だったら、そしたら、父さんだって、あんなふうには、」

 まくしたてる語尾が、掠れて消えた。

「それは」

 違うんじゃないかと、言いかけた亮を遮って、文香は続けた。

「母さんやわたしが、あんなふうに父さんのことを頭っから軽蔑して、嫌ってばっかりいなかったら、父さんの弱いところとか、駄目なところとか、もうちょっと許せてたら。わかろうと努力してたら、父さんもあそこまで、お酒に逃げたりしなかったかもしれない。そしたらどこかで、もうちょっといいふうに変われてたかも」

 それは、必死で自分に言いきかせているような口調だった。

「もっと、もっとわたしが……」

「どんな理由があったって」

 やりきれない思いで、亮は遮った。

「殴っていいってことはないんだろ」

 文香はぴたりと、口をつぐんだ。

 蝉の声が、ひときわ高まる。風でどこからか飛ばされてきたビニール袋が、ベランダのすぐ前を横切っていった。上空はなおさら風があるのだろう、頭上の雲が、見る間に流されていく。

 文香がいつの間にか顔を上げていることに気づいて、それでも亮は、振り返らなかった。手すりの向こうの町並みを見つめたまま、もどかしく言葉を探した。

「親父さんを、殺すとか、怨みつづけるとか、そんなんじゃなくても」

 風がふっと止む。すぐ近くの道路で、小さなクラクションが響いた。どこかで子どもたちの声がしている。

「そこは許したら、駄目なところなんだろ」



 文香が声を上げて泣くのを、亮は黙って、ただ聞いていた。

 透ける文香の手を、触れないのを承知のうえで、亮は握った。霧のようなひやりとした感触が、その下の熱せられたコンクリートの手触りに重なる。

 窓越しに嗚咽が聞こえたのだろう。隣の部屋のベランダに下山が出てくるのが、亮の座っている位置からも見えた。

 手すりから身を乗り出した下山は、何か言おうとして口を開きかけたが、二人の姿を見比べて思い直したようだった。それでもほうっておくのも心配なのか、困惑したように、その場に立ち尽くしている。

 文香の顎を伝って落ちた涙が、地面に届く前にすうっと空に溶けて消えるのを、亮は見つめた。

 嗚咽は、なかなか止まなかった。



「ごめん。――下山さんも、びっくりさせてごめんなさい」

 ようやく泣き止んだ文香の目は、すっかり泣きはらしていた。

 下山は慌てたように、ぶんぶんと首を振った。

「あの。何があったか知らないけど。元気、出して」

 眉を下げてそう励ます下山に、文香はふ、と小さく笑い声を漏らした。

「幽霊に向かって、元気出してもないでしょうに」

 目はまだ涙に濡れているが、そうからかう表情は明るい。下山もつられたように、例の人好きのする笑顔を見せた。

 部屋の中から、試合終了のサイレンが響く。音につられて振り返った文香は、まだ重なったままだった亮の手に気づいて、ふっと照れくさそうに笑った。

「ありがと」

 その笑顔の輪郭が、ふいに揺らぐ。亮は焦って、声を上げた。

「おい。お前、それ」

 文香は自分でも、そのことに気がついたようだった。

 自分の体を見下ろして目を丸くした文香は、それほど驚いているようには見えなかった。ほんの一瞬、名残惜しそうな顔をして、けれど、それだけだった。

 文香はすっと立ち上がって、亮を見下ろした。

「悪かったわね。いろいろ騒がせて」

 そう言い終わったときには、もう屈託を忘れたように笑っている。その笑顔が、すうっと薄れていく。

「ねえ、あんたさ。やっぱりもう一回……」

 文香が何か言っている。その声まで、姿とともに急速に遠ざかっていく。

「おい、ちょっと待てって!」

 亮が立ち上がりながら叫んだときには、もう文香の姿は見えなくなっていた。

 声もなかった。

 下山もまた、隣のベランダで呆然と立ち尽くしている。蝉が一匹、ふらりと飛び込んできて、文香の座っていたすぐ後ろの網戸にしがみついた。ひと呼吸のあとに、わんわんと声を張り上げはじめる。

 文香がいた痕跡は、どこにも残っていなかった。

 二人ともいっときの間、無言でその場に立ち尽くしていた。部屋の中からは、試合を振り返る談話が切れ切れに聞こえている。

「いくらなんでも、あっさりしすぎだろ」

 ようやく文句を言った声には、力が入らなかった。

 止んでいた風が、また吹き始めた。どこか近くの部屋で、洗濯物がはためく音がしている。

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