第7話 幽霊は幽霊らしく祟る

「ねえ、ねえってば!」

 耳元で怒鳴られて、亮は唸り声を上げた。

「なんだよ……寝かせろよ」

 休日の朝だ。しかも昨日は深夜までのシフトだったので、午後まで惰眠をむさぼるつもりだった。亮は目も開けずに片手を振ったが、文香はおかまいなしに声を張り上げる。

「ねえ、お願いだからテレビ見せてよ! いまから準決勝なのよ。うちの高校が出てるんだよ!」

 知るか、と呻いても、文香は騒ぐのをやめない。生身の体があったら、揺さぶられているか蹴飛ばされているところだろう。

「ちょっとくらいは、家主に遠慮したらどうなんだ……」

 ぼやきながらもとうとう根負けして、亮は起き上がった。寝癖のついた頭をかき回して、テレビをつける。いつものごとく煙草を手にとって、ベランダに出た。

 朝飯をどうしようか。

 時計を見れば、九時半だった。まだ胃袋は目覚めていないが、試合が終わるまで待っていては、昼になる。腹が減ったところで財布を持って外にでようかとぼんやり考えながら、煙草に火をつけた。

 煙を吐き出し、手すりをつかんで顔を上げる。空はよく晴れていた。それでも朝から一雨きたらしく、ベランダのコンクリートは生乾きで、風もいつもに比べれば、ひんやりとしている。

 いっときそのまま、ぼうっとしていた。真っ青な空が、寝不足の目に沁みる。何か大きな鳥が滑空して川のほうに下りていって、蹴立てられた水面が光を弾いた。

 部屋の中からきれぎれに響くブラスバンドを、無意識に耳が追いかける。やけに音が大きいなと思ったら、どうも、隣の部屋で下山も同じチャンネルをつけているような気配があった。逃げ場なしかと、思わず溜め息が出る。

 インターフォンが鳴った。

 一瞬、これも隣の部屋だろうかと考えてから、亮は思い出した。今日は文香の父親が、荷物を取りにくるはずの日だ。

 寝癖だらけの頭をかき回して、亮は部屋に戻った。顔も洗っていないなと思いながら、ちらりと段ボールを見る。玄関に下りると、裸足の指が小石を踏んだ。

「はい」

 ドアを開けると、小柄な中年男性が立っていた。

「おはようございます。お電話いただいた、槙野文香の父ですが」

「あ、どうも」

 ほかに言いようもなく、気まずい思いをもてあましながら、亮は会釈した。見れば男は丁寧な物言いに似合わず、妙に皺の寄った背広を身につけている。夏場なのに律儀につけたネクタイも、ぱっと見てわかるほどよれていた。

 落ち着かなく体の脇に下がる男の手指が、小さく震えていることに、亮は気がついた。アルコールが臭う。

 そう思って見れば、男の顔色は悪かった。

 娘を亡くして、まだ一年か。

 あらためてそのことに気づいて、亮は困惑した。どういう顔をしていいかわからない。

 男はふと目元をほころばせて、視線を亮の背中に向けた。

「野球、お好きなんですか」

 部屋からは、テレビの音が漏れている。亮は曖昧に首を振った。

「や、そういうわけじゃ」

「そうですか」

 少し、落ち着かないような沈黙があった。それから男は、言いにくそうに切り出した。

「それで、その。娘の荷物というのは」

「あ、どうぞ」

 亮は体を引っ込めて、中に入るように手振りで示したが、男は少し迷うような顔をして、首を振った。

「いや、私はここで」

「や、でも一応、中身、確認してもらったほうがいいでしょうし」

 ぼそぼそといって、亮はさらに一歩下がった。部屋を出られない文香のことを考えてのことだった。

 文香の父親は、少し遠慮するような身振りをしていたが、やがて根負けしたように、玄関に足を踏み入れた。

 そういえば妙に静かだな、と思って、亮は体をひねった。

 その振り向いた顔の先、すぐ近く、文香が立っていた。ぞっと背筋があわ立つ。文香は能面のような無表情で、父親の姿を食い入るように見つめている。

 亮が振り返るより早く、文香は父親の体につかみかかっていた。

「あ、おい!」

 とっさに手を伸ばす。だがその手は文香の腕を素通りして、男の肩にぶつかった。

 文香の姿は、父親の目には映らないようだった。

「失礼。急に、気分が……」

 呻いてぐらりと倒れこむ男の体を、亮はとっさに支えた。その亮に半ば被さるようにして、文香は父親の首を絞めつづけている。

 男はじきに、意識を失ったようだった。瞼がぴくぴくと震えている。

「ちょっと待てって! 落ち着けよ!」

「うるさい、邪魔するな!」

 そう叫んだ文香は、まるきり怨霊の形相だった。髪は振り乱れて、表情の無い顔の中で、目がぎらぎらと光っている。

 このために自分を使って父親を呼び寄せたのかと、亮はようやく悟った。

 文香はますます力を込めて、父親の首を絞めている。その剣幕におされて、亮はとっさに男の体を取り落とした。

 ぐったりと力の抜けた男の体は、壁にもたれかかりながら、ずるずると崩れ落ちていく。顔色は真っ青で、唇の端から泡を吹いていた。

 亮が慌てて支えなおした体からは、完全に力が抜けていた。それは、ぞっとするような手ごたえだった。

「やめろって!」

 ほかにどうしようもなく、無為に怒鳴ってから、亮はあっけにとられた。

 文香が、唐突に手を緩めていた。

 その顔からは、表情が抜け落ちている。さっきまでの張り詰めた無表情とは違う、なにか呆然とした色が、そこにはあった。

 文香の視線の先を追いかけた亮は、男の手首に巻かれている、腕時計を見つけた。ひとめ見て安物とわかる、シンプルな時計。よほど年季が入っているのだろう、細かい傷がいくつも入っている。

 前後の状況も忘れたように、文香はただじっと腕時計を見つめている。しばらくしてその指が、ぴくりと揺れた。もう一度父親に掴みかかるかどうか、迷うように。

 その指に、亮は手を伸ばした。

「やめとけよ」

「――うるさい」

 文香は力なく呻いて、亮の手をふり払うような仕草をした。冷たい空気の中を通り抜ける、頼りない感触だけが残る。

「その時計、なんか思い出があるんだろ」

 亮が言うと、文香は髪を振り乱して首を振った。それからきっと顔を上げて、亮を睨み据えた。

「止めないでよ。あんたに何がわかるの。この男のせいで、母さんとあたしがどれだけ……」

「わかんねえけど」

 遮って、亮は男の体を抱えなおした。引き摺るようにして畳の上まで運び、そこに寝かせる。アルコールのにおいがまた鼻についた。

 文香はじっとその様子を睨みつけて、肩を震わせている。亮は何度かためらって、言った。

「でも、燃やしちまったら、忘れられなくなるんだろ」

 文香の目が見開かれた。

 その唇が小さく震え、何かを言いかけて、閉じた。

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