第6話 幽霊は忠告する
汗をかいたコンビニ袋を手に提げて、亮は部屋の鍵を開けた。
夕方までのシフトを終えたあとだ。この夏の最高気温という熱気に負けて、迷った挙句、一本だけ発泡酒を買ってしまった。給料日まではまだ間がある。本当ならそんな余裕はないのだが、どうしても我慢がきかなかった。
部屋に入った亮は、ぎくりとして立ちすくんだ。西日のきつい部屋の真ん中に、文香が横顔を見せて立っている。何を考えているのかわからない、まったくの無表情で。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。文香はふっと振り返って、嫌そうに眉をひそめた。
「何、ビール? おっさんくさ」
そう文句をいう声は、普段どおりの調子だった。
「うっせえよ」
歯を剥いて、亮はようやく部屋に上がりこんだ。開けっ放しにしていた窓から、いくらか風が入ってはきているものの、部屋の中はやはり尋常でなく暑い。エアコンをつけるのは当分無理としても、扇風機くらいは買わないと、どうにもならないかもしれない。
汗をかいた発泡酒のプルタブを勢いよく引くと、いかにも涼しげな音が響いたが、音だけで、中身はすでにぬるくなりはじめていた。
文香は妙に無口だった。膝を抱えて部屋の隅に座り込み、なんでもないところをじっと見つめている。元気でもうるさいが、これはこれでうっとうしいなと、亮は閉口しながら、コンビニ弁当をつついた。
今日は、ニュースをつけろとは言わないな。そんなことを思いながら、亮が美味くもない卵焼きを齧っていると、文香は唐突に沈んだ声をだした。
「ねえ。あんた、自分の家族と、仲いい?」
亮は顔を顰めて、自分の金髪を指さした。
「よさそうに見えるかよ」
そう、と呟いて、文香はすっと視線を逸らした。
開け放した窓から、遠く、打球音が飛び込んでくる。予選大会を勝ち進んでいるのだろうか、掛け声にはずいぶん気合が入っているように聞こえた。
亮は苛々しながら頭を掻いた。近所に高校があると先に気づいていたら、無理をしてでも違う物件を探したのに。
ねえ、と文香が声を上げた。
「あんた、もう一回、野球やったら? 草野球でもなんでもさ」
「バカか。嫌いだっつってんだろ」
苛立ちを噛み殺しそこねた亮が荒い声を出しても、文香は引き下がらなかった。
「そうは見えないから、言ってるんじゃない。昔の道具に触れもしないくらい、いまでもこだわってるんだったらさ、」
バン、と強い音が響いた。
発泡酒の缶が壁に跳ね返って、金色の飛沫が西日を弾く。
転がる缶からこぼれた中身が、畳を濡らした。文香は身をすくめて、固まっている。その固く閉じた白い瞼から、亮は目を逸らした。
立ち上がり、亮は音を立てて押入れを開けた。奥に放り込んでいた紙箱を引きずり出して小脇に抱えると、足音も荒く、玄関に向かう。
「ねえ、ちょっと」
追いかける声を無視して、部屋を出た。
アパートの裏手が駐車スペース兼裏庭になっている。紙箱のフタを開けたところで、亮は一瞬、手を止めた。
息を吸い込んで箱をひっくり返すと、どさりと音を立ててグラブと硬球が地面に落ちた。
指先をかすっていった革の手ざわりに、胸がざわつく。それに気づかなかったふりをして、亮は胸ポケットからライターを出した。
「ねえ」
頭上から、声が降ってきた。振り返らず、亮は足元の草をよける。無視する亮にかまわず文香は続ける。
「忠告しといたげる。――そういうときね、ホントに燃やしちゃったら、かえって忘れられなくなるんだよ。燃やしたり、捨てたりしたもののこと。余計に、頭から離れなくなる」
ぴくりと、指が揺れた。
口をつぐんだ文香が、じっとベランダから見下ろしている気配がしたが、亮は顔を上げなかった。ためらった自分に腹を立てながら、空箱を邪魔にならないところにどけた。
ライターに点火するのと、車のエンジン音が間近に迫るのが、同時だった。
とっさに火を消して、亮はライターを後ろ手に隠した。放火か何かと間違えられたら面倒だという頭があった。
年季の入ったライトバンから、見覚えのある人間が降りてくる。隣の部屋の男だった。
下山は亮の顔を認めると、例の人懐こい笑顔になった。
「おお、二〇二号の人」
「……山邊っす」
下山は亮の足元を見て、ぱっと眼を輝かせた。
「山邊君、なに、もしかして君、もと野球少年?」
亮は曖昧に頷いた。野球道具を持っている状況で違うといってもはじまらないし、何より、下山の声が妙に嬉しそうだったのに気が咎めた。後ろ手に持っていたライターをポケットにねじ込んで、亮は足元のグラブを拾った。
「やー、そっか嬉しいなあ。俺ね、ショートやってたんだよ。っつってもたいして強い学校じゃなかったんだけどね」
嬉しそうに話す下山に適当な相槌を打ちながら、亮は空箱を拾い上げた。このままつきあえば、そうだいまからキャッチボールでもなどと言い出されそうな勢いだった。
「すんません、部屋、開けっ放しで出てきたんで」
言い訳にしても微妙だったが、下山は首をかしげただけで、引き止めるそぶりはみせなかった。
「そっか。じゃあまた」
どうも、と会釈を残して、亮は引き上げた。苛立ちはもう醒めていた。中途半端な苦さだけが、口の中に残っている。
結局なにも燃やさずに戻って、文香がどんな顔をするかと思えば癪だったが、今日のところは諦めたほうがいいだろう。足早に階段を上がると、どこかの部屋から炊事の音が響いていた。
部屋に入ると、文香が窓際で膝を抱えていた。安心したように表情を緩める文香から、亮は視線を外した。
文香は燃やせなかった道具のことには触れなかった。代わりに壁を指さして、
「ばっかだねえ。片付けるの、自分しかいないのにさ」
そんなふうに憎まれ口を叩いた。
うるせ、と呟いて、亮は紙箱をもういちど押入れに放り込んだ。
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