鳥籠の虜
いいの すけこ
鳥籠の虜
鉛色の雲は、今にも泣き出しそうだった。
この寒さならば、雨は雪に変わるかも知れない。
少女は数えで十五を過ぎていて、幼子のように雪遊びに興じる歳でもない。
雪と泥にまみれて遊んでいたら、はしたないと、嫁の貰い手がなくなると叱られるかもしれない。
「……思い切り遊んでもいいかもしれないわ」
どうせもう、嫁になど行かないだろうし。
重たい空を見上げながら、少女は呟いた。
「何か言ったかい」
少女の呟きを聞きとめて、並んで歩いていた少年が尋ねた。
「なにも」
少女は首を振った。
長い豊かな黒髪がさらさら揺れた。
「ずいぶん思い詰めた顔をしているようだけど」
少年の問いに、少女は黙ったまま。
「まあ、暗くもなるよな。近々戦争が始まるというし。それに、北国の方は酷い凶作で、間違いなく飢饉になるって」
白い息を吐きながら、少年は憂い顔で言った。
「農家の娘たちが、たくさん売られていくんだろうな」
見も知らぬ娘たちの身を憐れむ少年に、少女もその行く末を案じてみるが。
私も売られるようなものか。
本当に身を案じなければならないのは、他ならぬ自分自身。
「じゃあ、私はここで」
曲がり角で、少女は少年と別れた。
「ああ、気を付けて。なんだかわからないけれど、あまり思い詰めないで」
「ありがとう」
優しく微笑んだ少年に、少女も小さく笑って返す。
「さようなら」
***
「ですから。私から言えることはただ一つ。あなた方は確実に戦況を見誤っています。このままですと、国民に多くの犠牲が出ます」
「犠牲など覚悟の上。その尊い犠牲の上に、我々は確実に勝利を収めるのだ」
冷静な、けれど傲慢な物言いに、少女は小さく息をついた。
「でははっきり申し上げましょうか。私たちは勝てない。どんなに哀れな人々に犠牲を強いたとしても、この戦争に勝つことはできない」
伏せていた瞼を開く。
藤色の美しい瞳が、剣呑な光を湛えた。
「この国は負けます」
瞬間、強い衝撃が頬を打った。
殴られて、畳に倒れこむ。
「貴様、それでも日本国民か!言葉を撤回せよ非国民!」
眩暈がする。
殴られたせいか、暗い色の軍服があまりに不愉快だからか。
「撤回いたしません。私は見たままを言ったまで」
「この魔女め、妄言でこの国を亡ぼすつもりか。呪いでもかけるつもりか!」
「私の言葉を、今更妄言だと?あなた方は私の言葉を、いつでも信じてきたではないですか。そうして国づくりをしてきて、私に国の行く末を占って生きよと命じておいて、今更?」
少女は魔女だった。
普通に生まれ普通に生きてきたつもりだったけれど、ある時突然、魔法に目覚めた。
魔女とは元来そういうものらしい。
血筋など関係なく、突然生まれ来る。
いきなり使えるようになった魔法を、積極的に見せびらかしたことはなかった。
超常の力を奮う娘を、両親は気味悪がったからだ。
ただ、未来を見通す力だけは重宝された。
火や水を操ったり、物を浮かせるなど、何の役にも立たない力ではなく、もっとなにか親のためになることをして見せろと言われた。
なので、遠い土地に住む叔父の死を言い当てた。
未来を見通す予知魔法を使った。
叔父は若く、病魔に蝕まれているということもなかった。
死因は自動車事故。
本当は、亡くなった叔父を生き返らせる魔法を使いたかった。
けれど何でもできる魔女の魔法は、死者を生き返らせることだけはできない。
先の未来を見通せても、叔父を助けることのできなかった自分が不甲斐なかった。
けれど両親は、少女が予知魔法を使えることを、ひどく喜んで、その魔法だけは使っていいと言ったのだ。
予知の魔法で、経済や金融情報を見通し両親に教えれば、家は多くの財産を得た。
目に見えて、両親は少女をかわいがるようになった。
それがうわべだけの愛情でも、必要とされるのは嬉しかった。
こうして生きていくのだと思っていた、十五の秋。
少女は国に仕えることになった。
突然に訪れた運命を、拒否する権利は少女にはなかった。
多分、両親にもなかっただろう。
両親は多額の金銭と引き換えに、少女を手放したようだった。けれどその金銭は、少女を手元に置いておけば得られる額と比べれば、さほど魅力的ではなかったと思う。
それでも、少女を欲したのは国家で、両親はたてつくことなど許されなかったはずだ。
国に召し上げられた少女は、国の未来を見通し宣託する、占者の役割を与えられた。
そうして数十年の時を、この国の深部に囚われて生きている。
歳も取らずに、老いることもなく。
死ぬこともなく。
「なんだ。貴様こそ今更、外に出たいとでもいうつもりか?」
生き方を命じておいて、と口にした少女――魔女を、男はせせら笑った。
「そうね、今更。今更出たいとは、あまり思えませんね」
国の所有物となった魔女は、屋敷を一つ与えられた。けれどその屋敷の外に出ることを禁じられて、以来、永い時を建物の中だけで過ごしている。
――なぜ、外に出てはならないのですか。
来たばかりの頃、問うたことがある。
あまりの理不尽さに。
あまりの、寂しさに。
告げられた理由は、あまりに意外だった。
人と愛し合ってはならないからだ。
魔女は、愛に生き、愛に死ぬ。
魔女は愛する人と想い合うと、その相手が死んだときに、魔女自身も死ぬというのだ。
逆に、誰かを愛さない限り、愛しても、その誰かが自分のことを愛さない限り、死ぬことはない。
死ぬことができない。
だからこそこの国は、ずいぶんと永い間、魔女を利用し続けてきたようだった。
少女の前にも、国に仕えていた魔女がいたらしい。
けれどその魔女は、ある時、何者かと愛し合い、その愛に殉ずることができた。
だから次に選ばれた魔女である少女を、そう簡単には手放すつもりのない連中は、少女を屋敷に隔離した。
「少なくとも、今の世の中には出ていきたくなどありません。愛する人を見つける前に爆撃でも食らって見なさい。毒ガスでも浴びてごらんなさい。体がバラバラになろうが、腐ろうが、死ねはしないのよ」
ごめんだわ、と魔女は息を吐いた。
どうせ、行く場所もありはしない。
自分が屋敷に連れてこられた頃、世界は一度目の大戦を迎えようとしていた。数十年の時を経て、二度目の大戦を迎えるこの世界に、今更どこに行き場所があるというのか。
「ああ、貴様はそんな状態になっても死なぬのか。それは見てみたい気もするなあ」
あざ笑う男を殺してやりたくなる。
魔法を使えばきっとできる。
けれどここに連れてこられてから、魔女は予知以外の魔法を一切使ったことはなかった。
ほかにも魔法を使えると知られれば、いったいどのように利用されるか。
兵器にされ。
虐殺の道具とされ。
「冗談じゃない」
魔女は吐き捨てる。
「予知の撤回はしません。あなた方ができるのは、真実を受け入れてこの戦を収束させることだけです。どうせ、あなたじゃ私を処罰することなどできないのでしょう。目障りですから、消えてくださらない?」
そう言って魔女が微笑むと、男は顔を真っ赤にして拳を振り上げ、けれどその腕をゆっくりと収めた。回れ右をして、床を踏み鳴らし去っていく。
魔女は姿勢を崩して大きく息を吐いた。
あれ以上、殴られなくてよかった。
不死だろうが、痛いものは痛いのだ。
「ふじさま?」
声が聞こえて、魔女はそちらに視線を向けた。
「ああ、
襖の向こうから、娘が現れる。
娘は汐といって、傍仕えとして同じ屋敷に暮らしている。
この屋敷に常駐しているのは、汐を含めて数人の使用人だけだった。
それも全員女だ。
魔女が不用意に恋に落ちぬように。
汐は、歳の頃なら――外見だけの話だが――魔女と同じくらいか。
おかっぱの小さな頭に、白い顔。
ほとんど屋敷の中で過ごしている二人は、肌の色が白かった。
汐の白い肌も、小さな唇も瞳も、まるで
「どうしたのですか、ふじさま。頬が腫れております」
汐は魔女を『ふじさま』と呼んだ。瞳が藤色だかららしい。
その呼び方は好ましかったので、汐にだけはそう呼ばせている。
「たいしたことないわ」
目を伏せると、暖かなものが頬に触れた。
「たいしたことあります。冷やさなくては」
汐が、魔女の腫れた頬に触れていた。
「大丈夫よ。ありがとう、汐」
「私が言うのはあまりにもおこがましいのですが。でも、ご無理はなさらないでください、ふじさま」
本気で魔女を心配する表情に、暖かな手が触れた頬を緩める。
「あなたって本当に可愛いわ、汐」
汐は驚いたように瞬いた。
「汐って、私が昔持っていたお人形に似ているの。可愛かったのよ」
魔女の予知魔法で稼いだ金で、両親がご褒美に買ってくれたお人形だった。
ずっとずっと大事にしていた。
それももう、ずいぶん昔の話だ。
「お人形が欲しいのですか?用意させましょうか」
そう言って、汐はすぐに口を塞いだ。あまりにも幼稚なことを聞いたと思ったのか。
「あ、あの、その、今はなかなか手に入らないかもしれないですが……ああもう、そういうことじゃなくて!ふじさまがお人形遊びなんてするわけないですよね、その」
懸命に弁解する汐の姿に、魔女は今度こそ声をあげて笑った。
「もう、本当に可愛いのだから!」
魔女は思わず汐に飛びついた。
抱きしめて、ああ、本当に人肌は暖かいな、と思う。
「……女が女を愛さないとは、限らないのにね」
魔女は囁いた。
「ふじさま?」
「連中はこの屋敷から男を排しているけれど。でも、私が女を愛さないとは限らないのに。女が、私を愛することがあるかもしれないのに」
馬鹿よねえ、と魔女は笑う。
魔女が女を愛したとしたら、連中は狂ったというだろう。
けれど、女が女を愛することがあったとして、それの何が狂っているというのだろう?
「あの、ふじさま」
「なんてね」
――なんてね。だけど。
人間が人間を愛するだけよ。
狂ったというのならば、言えばいい。
魔女は恋に狂うのだから。
鳥籠の虜 いいの すけこ @sukeko
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