風呂桶

湯煙

風呂桶

 一つの場所に長く住んでいると、モノが増える。

 限られた空間を利用しなくてはならないから、整理しなくてはいけなくなる。

 

 ある日、妻の号令で私と息子はそれぞれの部屋を整理することになった。 


 私の場合は、まず本だ。

 本ってなかなか捨てられなくてね。雑誌はともかく文庫や新書は、また読むんじゃないかと捨てずにいると、本棚に空きはなくなるし、そこらに積んでしまう。

 電子書籍を利用してもいるけど、紙の本が好きな私はどうしても本がたまってしまう。


 次に衣類。

 擦り切れたりと痛んだ衣類は、洗濯の際に妻が捨ててくれる。

 だから一通り見て、いらないものがあれば程度でいい。


 あとは、小物類だけど、特に何かを集める趣味がない私は、お土産でいただいたものくらいしか持っていない。何かの拍子に破損した物を捨てる程度で、これらはできるだけ残しておいた。


 最後に押し入れにある段ボール箱。

 ほとんどが、引っ越しの際に捨てなかった昔の物ばかりがはいっている。

 それらを整理していたら風呂桶が出てきた。薄いブルーの底にもどこにも文字も模様も何もないただの風呂桶。

 

 私か妻が仕舞ったんだろうけど、どうしてこんなものを残していたのかな。


 学生時代借りていたアパートには風呂がなかった。八畳一間に狭い台所とトイレだけの部屋だった。

 だけど、不便を感じたことはなかったな。バイト先でシャワーを借りられたし、湯船に入りたい時には、徒歩三分ほどの銭湯へ行けば良かった。


 だけど、妻と付き合うようになってからは、家に風呂が無いのは不便でね。当時の妻は銭湯に行きたがらなかった。だから風呂付きの安いアパートはないかと探した。


 でも、じきに就職だったし、どこに通勤するか判らないものだからなかなか決められなくてね。そうこうしているうちに、私は東京で就職し、妻は実家のある兵庫県へ戻った。


 遠距離だろうと、妻と別れたくなくてね。

 安いアパートのまま、毎月妻に逢いに行ったものさ。


 信じられないかもしれないけれど、遠距離のままで五年付き合った。五年間、毎月逢いに行って、年末などはこれまた安いホテルに泊まって一週間は過ごしたんだ。


 新入社員がそんなことしたらどうなると思う?


 そう、借金ができた。

 五年間で百万ほど借金できてね。


 「借金返すまではボーナス使えない」と、焦った私は妻に正直に話した。


 そしたらさ?


 「いい加減、プロポーズしなさい!」って怒られた。 

 ……すごく怒っていたんだよなぁ。

 あんなに怒ったのは初めてだったように思う。


 でも、借金抱えて結婚したくないじゃないか。

 だから、土下座する勢いで頭を下げて「一年間待って下さい」ってお願いしたんだ。


 そしたら「来年の私の誕生日まで待ってあげる」って言ってくれてね。その上、彼女が毎月通ってきてくれるようになったんだよ。嬉しかったなぁ。


 アパート変えるなんて頭から消えてさ。この風呂桶にシャンプーや石鹸、垢こすりなどを入れて銭湯に預けて通うようになった。


 冬以外は彼女と一緒に銭湯通いでね。

 この頃には彼女も銭湯へ行くのを嫌がらなくなってた。


 帰り道に、まだ少し濡れてる彼女の髪が綺麗でさ? 

 横に居てくれて嬉しかったな。


 さすがに冬は寒いから、一緒に銭湯へ行くと言ってくれたけれど何とかホテルに泊まって貰うように、また頭を下げたな。


 ああ、他にも思い出した。


 まだ幼かった息子の髪は、目に泡や石鹸がはいらないように私が抱いて洗った。その時も、シャワーを嫌がる息子のために、この風呂桶に温いお湯をためて、彼女が手ですくって髪から泡を洗い流したんだ。


 微笑みながら、気持ちいいからちょっと我慢してねと声をかけ、湯を優しくかける彼女の姿に惚れ直したのを覚えてる。


 この風呂桶を使わなくなったのはいつからかな。

 いや、思い出はあるけれど使わなくたっていい。

 どこかのコンビニで買ったもので、そんな大層なものじゃないしね。


 ただ、いつからかな? って思っただけ。

 


「あら、懐かしいわね」


 風呂桶を手に思い出に浸っていた私に妻が声をかけてきた。

 

「これ、お母さんが仕舞ったの?」


「うーん、記憶にないなぁ」


 引っ越しのときバタバタしてたから、適当に箱に仕舞ったのかもしれない。

 私でも妻でもそんなのはどうでもいいけど、きっとそうだ。


「そっか、押し入れの荷物整理してたら見つけてね。昔を思い出していたんだ」


「それどうするの? 捨てるの?」


 懐かしの風呂桶がなくても、妻も居れば息子もそばに居る。

 風呂桶に頼らなくても何かにつけて思い出すに決まっている。 


「そうだなぁ、これもそろそろお役御免になって長いし、捨ててもいいかな」


 実際、これからだってたくさんの思い出を重ねていくんだし……と考えていたら、


「あなたが何を考えているか判るわよ?」


「へぇ? じゃ、当ててみてよ」


「私が銭湯行くの嫌がってたなぁ……でしょ?」


 (クスッ、それはさっき思い出してたな……なんだ、君も覚えていたのか。ちゃんと共有しているんだな)


「あっはっは、当たりだ」

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