第七話
「痩せろよデブ!」
待ち合わせ場所に来た豊子は顔を合わせるなり怒鳴りつけた。どんな顔をしたらいいのか分からない。琴音は軽く振った手を力なく降ろす。
「その服捨てろって言ったよね? なんで着てるの? デブがキモい服着てて死ぬほどみっともないよ」
「ごめんね」
この日着ていた服は琴音が一番気に入っている服だった。それでも言うとおり捨てなければならないのかと思うと胸が冷えた。
「琴音ちゃんなんかと一緒にいたら周りの人から笑われちゃうよ。あんなキモい子と遊んでるよって。今絶対皆琴音ちゃんのこと見てるよ。うすのろで気づいてないかもしれないけど超みっともないからね!」
バス停に並んだ大人たちは黙って地面を見ているか、スマートフォンをいじっているかしていて、一人もこちらを見ていなかった。もし自分たちに注意が向いているとしたら、豊子が大声で友だちを罵っているせいだろうと琴音はぼんやり考えた。
「その服は私と遊べる服じゃない! 着替えてこい!」
「今から?」
「そうだよ早く行きなよ。ほら。走って!」
琴音は仕方なく走り出そうとした。走って家に帰り、服を探す孤独な自分の姿を想像して泣きたくなった。すると後ろからまた怒鳴られた。
「どこ行くの!」
「え、家に帰って……」
「何してんのバス来ちゃうじゃん。列から離れないでよ!」
琴音の身体は硬直した。
琴音と豊子は二人がけの席に座った。座席の布が足にくすぐったかった。座り方に文句を言われなかったことに琴音は安堵した。移動中くらいは豊子も優しくなるかもしれないと期待しつつ、何か彼女の機嫌が良くなる話題はないかと考えた。
「新しい曲かっこいいよね。真ん中のトランペットの主旋律ほとんどソロみたいなもんじゃん」
「知らん」
「あ、そう。ごめん」
「それより麻理恵ちゃんだよ。あの子完全調子乗ってるよね。塾の先生たちのアイドルくらいに思ってるんでしょ自分のこと。鏡見ろって感じじゃない?」
琴音は前方の手すりの辺りに目をやった。銀色の鉄の支柱に黒いクッション材が巻いてある。その奥には段差があって、降りるときに躓かないようにしなければと、頭に浮かんだのはそれであった。
正直琴音は麻理恵の悪口を言いたくないのだ。だが同調しなければ豊子の怒りに触れるから、どう返したものか考えを巡らせた。
「麻理恵はあんまりモテないから、優しい男の人が好きなんじゃないかな。塾の先生たち皆優しいじゃん」
「男好きじゃん」
「豊子ちゃんみたいにモテモテならああならないんだよ。きっと。たぶん豊子ちゃんの歴代彼氏の一人でも分けてほしいと思っているよ、あの子」
「ふうん。自分でかわいくないのが悪いのにね」
たぶん豊子は白田先生のことを気に入っているのだろう。恋愛感情ではないのだろうけれど。自分が気に入った男が自分に夢中にならないで、完全に見下している麻理恵なんかと仲良くしているのが我慢ならないのだろう。それが琴音の見立てだった。
次のバス停で大勢乗り込んできたために、車内は騒がしくなって、二人の会話は途切れ途切れになった。豊子が麻理恵の容姿の欠点を列挙するのがときどき耳に入ってきて、琴音はよく聞こえないまま曖昧にうなずき続けた。
バスが目的地に着いた。琴音は急いで降りようとした。言うまでもないことだが、バスから降りるときに悠長にしていたら迷惑であるし最悪の場合降り損ねる。それを知っていた琴音は豊子も勝手に付いてきてひとまずは道路に降りるだろうと考えた。しかしそれもまた誤りだった。
突然右肩を捕まれたかと思うと、琴音は耳元に低い声を聞いた。
「人の前に出るな!」
呆然とする琴音を豊子は大げさに後ろに突き飛ばして先に降りた。
フードコートには子どもの叫び声がこだましていた。椅子の脚や床をあまり見ないように意識しながら琴音はたこ焼きを食べた。
「どうして今日誘ってくれたの?」
「決めることがあったから」
「決めること?」
「さっきも言ったけどさ、麻理恵ちゃんのやっていることがおかしいのは完全だよね?」
「そうだね」
「だからさ」
といって豊子は半分に割ったたこ焼きを口に入れて咀嚼した。両頬の筋肉が動いて皮膚が伸縮し、喉は少しずつ噛んだ物を食道へ送り込んでいた。上下に動く顎をずっと眺めているうちに、琴音はどことなく嫌悪感を覚えた。
「だから、私たちで正してあげた方がいいと思うの。それが塾生のためだし、塾の先生たちのためでもあるし、もちろん麻理恵ちゃんもその方がいいはず。最初は理解できないかもしれないけど、後々になって良かったなって、あの子でも思う日が来るよ」
「正すって何をするの?」
「今のままじゃさ、不公平じゃん。塾の先生が一人の子だけかわいがってさ、他の子はその他大勢扱いってことじゃん。それよくないじゃん? 分かる? 分からない? 絶対皆不幸だよいまのままじゃ。塾生みんな怒ってるしさ絶対。それでもし止めちゃう人がいたら、塾が儲からないじゃん。つまり、麻理恵ちゃんがああやって調子に乗ってぶりっ子してたら、塾全体にマイナスなんだよ」
「うん……それで何をするの?」
腹が激しく収縮するのは消化のためだけではないだろう。琴音は逃げ出したかった。嫌な計画に無理矢理引きずり込まれることは明白だった。
「とりあえず協力するって約束してよ」
「何をするか分からないと約束できないよ」
「えー」
豊子は顔を歪ませた。手元に向いていた目線が琴音の顔に突き刺さった。いつも見ているはずの豊子の顔が急に見覚えのないものに見えた。
「超めんどいんだけど」
「ごめん。でも、何をするか教えてくれない?」
「何でもいいじゃん」
「お願い教えて」
琴音は震えそうになった。ここまで言い渋るということは、よほど嫌なことをさせる気なのだ。
「しょうがないなあ。絶対協力しなよ? まずさあ、琴音ちゃんは麻理恵ちゃんと近いんだから、麻理恵ちゃんから塾の先生のことをどう思ってるのかとか何を話しているのかとか聞き出すじゃん。特に白田先生と仲がいいみたいだから、白田先生のこと中心に探り出してね。あと、あの子がいつどの先生と何をしているかよく観察するの。で、それを私に言うじゃん。そしたら私が説教の台詞を考えるから、それを琴音ちゃんが麻理恵ちゃんに言い聞かせて、塾で先生たちにかわい子ぶるのを止めさせるの」
琴音はうつむいて話を聞いていた。もはやたこやきを口に運ぶ気にすらならなかった。まるで二重スパイじゃないか。しかも豊子は表に出てこないで、嫌なことを全て自分にやらせようとしている。
「それはできない」
「なんで?」
「喧嘩になるし、説教する権限なんて私にない」
「いいじゃん喧嘩したって。それで塾の平和が保たれるなら」
「麻理恵と仲悪くなりたくないから」
「大丈夫だよいとこなんでしょ? 親戚だからそんな簡単に縁切れないでしょ。それにさ、麻理恵ちゃんなんかに嫌われたって構わないじゃん。あんな子、どうだっていい」
「私にはどうでも良くないの。だから、それだけは聞けないごめん」
「命令って言ってあげようか?」
琴音は顔を上げた。なぜか嬉々としている豊子の目をおびえながら見つめる。
命令と言われたら、絶対に言うことを聞かなければならない決まりだった。琴音はすがりつくように許しを請う。
「命令って言わないで。お願い」
「どうしようかな」
「本当に、お願いします」
「じゃあいいよ。勘弁してあげる。感謝しなよ?」
「ありがとう。本当に」
にじみ出た涙をいつ拭えば気づかれないだろう。琴音は固くなっていた関節を少しずつ動かして立ち上がった。
豊子がどこの店にも行かなかったので、先ほどの話をするためだけに来たのだろうと琴音は理解した。彼女の歩く方向から察するに、バス停に向かっているから、今日は遅れずに塾に行けるだろうと安堵した琴音は、やや上機嫌に豊子に話題を振った。
「文化祭の曲あと二三曲は配られるよね。何になるのかな」
「そんなのどうでもいいよ」
「うん」
「それより坂下とどうなったの?」
「あれはもういいんだ。好きじゃないって気づいた」
「えーつまんないの。私二人が付き合ったら、シュパースのライブのチケットあげようと思ってたのに」
仮に誰かと付き合い始めたとしてもデートでライブに行くなんて親に許されるはずがなく、しかしそう言ったらまた豊子が恩知らずといって怒るだろうから、板挟みでひどいことになっただろうと琴音は冷や汗をかいた。
「そういえばここのアイスおいしいらしいよ。こないだできたばっかりだけど、友だちが言ってた。食べなよ」
「え、でももうバス来ちゃうよ」
「バスの中で食べればいいじゃん。私はデブになりたくなくてダイエットしてるから食べないけど琴音ちゃんは食べても大丈夫だよ」
豊子は嘲笑しながら勧めた。琴音は大人しく言うことを聞いた。
ところがバス停に並んで、いざバスが見えてから豊子はにやけ顔でこう言った。
「ここのバスって飲食禁止なんだよ」
「ちょ、ちょっと待って!」
「バイバイ」
豊子は軽やかな足取りでバスに乗り込んだ。運転手はアイスを片手に持った琴音を見て、あっち行けの手振りをした。
このバスに乗れなかったら塾に遅れる! 青ざめた琴音は列から外れ、大急ぎでアイスをゴミ箱に捨てた。そして走って行って、動き出したバスに止まってもらって、こちらを睨み付ける運転手に頭を下げながら運賃を投入した。
「乗ってくるとは思わなかった。私バスの窓から琴音ちゃんを見下ろして手を振ろうと思ってたもん」
琴音は豊子に恐怖すら覚え、何も言えなくなった。バスは有無を言わせない強烈な力をもって二人を駅まで運搬した。
月曜日琴音が部活の朝練に行くと、
「琴音ちゃん、飲食禁止なのにアイス持ったままバスに乗ろうとして、みんなに迷惑掛けたんだよ」
と豊子が後輩に言っているのが見えた。
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