Thirteen

文野麗

第一話

 最初の隠し事は些細なものであった。模試が近いから三十分居残り勉強する、と琴音は電話で母に告げた。慣れたことであった。このくらいの嘘は大人達に対して数え切れないくらい吐いていた。

 遠くの方に自動車の走行音が聞こえて、すぐに止んだ。一階のファーストフード店は営業を終えようとしていた。午後十時前の駅前は閑散としていた。もう衰えた暑さが肌にまとわりつき、一日の疲れと倦怠によって瞼が重くなった。琴音は重いバッグを抱えて駅の階段を上った。

 身体の疲労をよそに、精神はこの時間でもまだ役割を終えられないのだ。琴音は麻理恵から聞かされる打ち明け話を予想した。好きな人でも出来たのだろうか。それとも誰か悪口を言いたい相手がいるのだろうか。もしくは喧嘩でもしたのだろうか。大概そんなところだと考えた。わざわざ直接言わなくてもメッセージで事足りるだろうに。

 電車の発車ベルが鳴り、帰ろうと思えば今の電車に乗って帰れたなあと琴音はため息をついた。ベンチは硬い上に中途半端な高さで座りづらい。授業は終わったはずなのに、麻理恵はいつになったら来るのだろう。動かないでいると、身体が重くなって沈んでいくような錯覚に襲われた。


 時計の針が動くのを無心になって見つめていたら、視界の端に、見慣れた紫色のウサギが入り込んだ。左を向くと、もう側に来ていた麻理恵が鞄をベンチに降ろしていた。

 琴音は一瞬息を飲んだ。麻理恵はどこか変だ。表情がいつもと違う。頬が赤く、口元には満足げな微笑みが見え、眼差しは酔っ払ったような甘美さを漂わせていた。見たことのない顔であった。

 視線を小刻みに揺らしながら、そっと琴音は会話を始めた。

「話って何?」

「ふふふ。知りたい? やばいよ。超絶やばい。絶対びっくりする。とんでもないことになった」

 そう言いながらも麻理恵の表情は嬉しげで、どこか優越感を帯びていた。

「なんかあったの?」

「塾に白田先生いるじゃん?」

「うん」

「ウチらそういう仲なの」

琴音は固まった。麻理恵は勝ち誇ったような目で琴音を見つめた。「意味分かる?」

「付き合ってるの?」

「付き合ってるんじゃないかな? 要は、男女の仲ってこと」

男女の仲。琴音は口の中で復唱しつつも飲み込めなかった。

「絶対秘密だから。琴音にしか言ってない。誰にも言わないと約束して」

「する。誰にも言わない。決して」

 琴音は麻理恵の顔を見られなかった。この秘密は他の秘密とはレベルが違う。露見したら親や教師に怒られるとか、同級生と喧嘩になるとかでは済まない。おそらく麻理恵や白田先生の人生が狂う。

 改札の向こうで電車の到着を予告する音声が流れた。

 これは現実なのだろうかと疑いながら琴音は尋ねた。

「いつからそんなことになったの?」

「先々週くらい?」

「えっと、告ったの? 告られたの?」

「告るとかそういうので始まるわけじゃないんだよ。大人の恋愛は」

麻理恵は呼吸を整えながら語り出した。

「先々週の土曜日、皆帰ったあと職員室で遊んでたんだけど、ウチも帰ることにして、荷物を教室に取りに行ったわけ。そうしたらブースの影から白田先生が顔を出して、少し話したの。そうしたら急に、『二人きりのときは名字じゃなくて麻理恵って呼んでいい?』って。それでウチらは、二人だけの関係になったの」

「白田先生そんなこと言うんだ」

「ここだけの話ね」

「うん」

「ウチも二人きりだと寿馬って呼ぶんだ」

 ずっと平気で話していた麻理恵は、最後の言葉だけ照れながら小さい声でつぶやいた。

 琴音は眉をひそめて、この妹も同然の従妹を眺めた。ついこの間までランドセルを背負っていた、現在も同級生と比べたら幼い顔と体つきをしている麻理恵が、一人知らない道を歩き始めていた。おそらく禁制の道を……。

 中学二年の琴音にとって男女の仲という言葉はふざけて言うのも憚られるくらいに恥ずかしく、触れるべきでない大人の世界のものであった。想像の先にある、生々しくて強烈で耽美な領域に位置していた。気が動転した琴音は制服のスカートの襞を指でつまんだり擦ったりした。

 麻理恵は照れながら話を続けた。

「これホント絶対秘密なんだけど」

「うん」

「二人きりだと、寿馬、キスしてくれるんだ」

「キス!?」

「ちょっと声が大きいよ」

「だって塾、周りに人いるじゃん」

「周りに人いないときしてくれるんだよ。資料室とか、トイレの前とかで」

 麻理恵は赤面しつつも幸せそうであった。琴音は呆れて顔を歪めた。

「でもやっぱ、塾じゃあんまりいちゃいちゃできないから、夜うちの前まで車で来てくれるんだよね。で、車の中で話するの。普段見られない寿馬が見れてすっごい嬉しいっていうか」

「待って」

「何」

「白田先生あの家知ってるの?」

「教えた」

「伯父さん伯母さん知ってるの? 親公認?」

「なわけないじゃん。夜遅ーくなってから向こうが来て、それでそっと家抜け出して会うんだよ」

 琴音は頭を抱える思いであった。そんなのダメに決まってる。絶対みんなダメって言う。でも言えない……。

「これ絶対内緒ね。バレたら、やばい」

「なんで私には話してくれたの?」

「信頼してるから。たぶん口固いじゃん」

「まあ」

「秘密にするって誓って」

「誓う」

 改札口からスーツを着た男性が何人か続けて出てきた。下り列車が到着したのだ。二人の秘密の会話は途切れた。琴音は言いたいことを口の中に残したまま、目の前を横切るサラリーマンを眺めた。電車のドアを閉める合図の笛が鳴り響いた。

「電車乗ろっか。上りももう来るでしょ」

麻理恵が言った。琴音は呆然と相づちを打った。そして麻理恵の後に続いて改札口へ向かった。


 線路脇の草むらから虫の声が響いていた。ホームで電車を待ちながら、麻理恵は何も言わなかった。ただ無邪気な照れくささに浸っているように見えた。琴音はいつの間にか、麻理恵のことを心の底から軽蔑していた。どこまでも愚かで無知な存在だとぐしゃぐしゃにこき下ろした。そうすることでようやく認識と現実の均衡を保つことが出来た。この子が大馬鹿だから、とんでもない事態になっているんだ。たぶん先生がしていることは犯罪なのに、この子は平気な顔をしていられるんだ。琴音は説教したかったのだ。麻理恵はまだ十三歳だよね? 大人とマジな恋愛をしていい歳じゃないよね?

 摩擦音が少しずつ近づいてきて、電車が到着した。ドアが開いた。降りる人はいなかった。麻理恵が先に乗り込んだ。琴音は麻理恵の鞄に吊り下げられている紫色のウサギに目をやった。

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