第二話
悪巧みはごく簡単に生まれた。
他人の過ちは快感をもたらすものだと琴音は理解した。約束通り誰にも告げず、一人心の中だけで麻理恵に説教を繰り返しているうちに、不思議な高揚感を覚えた。人に言えない悪いことをしている麻理恵と良い子の自分。その対比に酔い始めていた。
浴槽で足を伸ばすと疲労が徐々に解消されていく。温められた身体は汗をかき始める。他人から完全に解放される入浴の時間は心安まる。琴音が一番思索に集中できるのはこの時間だ。
麻理恵だけどさ――琴音はまるで誰かに語りかけるように心の中でつぶやいた――あの子、うまくすればひどい目に遭うんじゃない? もう戻ってこられないくらい転落するんじゃない? そうしたら面白くない? 私の立ち位置もあの子より上で固まるんじゃない?
いや、違う。琴音は慌てて訂正する――自分の隠された邪悪さに震えながら――。私がどうにかするんじゃない。あの子は自分で選んで、自分で落ちていくの。麻理恵はもう坂道を転げ落ち始めている。私が何かするとしたら、障害物を取り除いてあげるだけ。
ただそれだけで、麻理恵は転落する!
身体が熱くなって、琴音は自分が湯に長い間浸かっていたのを思い出した。浴槽を出て、椅子に腰掛けた。反動で椅子の底が動き、低い音が浴室中に響く。鏡に意地悪な悪魔の顔が映っていたらどうしようかとゾッとしたが、曇っていて何も見えなかった。シャワーで湯を掛けると、映っていたのは普段と変わらない、少し疲れた自分の顔だった。琴音は安堵した。
頭からシャワーを浴びながら考える。私だって豊子ちゃんにひどい目に遭わされているんだから、麻理恵だって少しくらい痛い目見なきゃ不公平だよ。
だから、私が考えてしまったことは、悪くない。悪くない。
「うざい」
まるで自分が罵倒されているようだと琴音は感じた。豊子は琴音を忌々しげに睨み付けている。
「うざいよ。うざい。ムカつく。どんだけ男好きなの? あんなことしてよく恥ずかしくないよね。ぶりっ子だし。先生達もなんで麻理恵ちゃんなんか構うんだろう。意味わかんない。意味わかんないよね」
「麻理恵は小学生のときからあの塾にいるから、慣れてるっていうか、親しみが深いんじゃない?」
琴音はおそるおそる言葉を発したが、やはり豊子の機嫌は直らなかった。
「はあ? 小学校のときからいたらどんなんでもいいの? あんなちんちくりんの不細工でも、小学校のときからいるってだけで先生達可愛がるの? 意味わかんない。ありえない!」
豊子の声が大きくなったので周囲の視線が気になったけれど、彼女に意見などできるはずがなくて、カップの底に残ったアイスクリームをプラスチックのスプーンでかき集めて口に運んだ。
平日のショッピングモールは夕方でも空いていて、買い物に来る主婦よりは自分たちと同じような学生のグループが目立っていた。和やかに談笑する他のテーブルを琴音はうらやましく思った。こんなに荒れた会話をしているのはたぶん私たちだけ。
「せめて白田先生だけでも無視すればいいのに。絶対麻理恵みたいなタイプは嫌いだよね、あの人。琴音ちゃんもそう思うでしょ?」
「うん……内心うざがってるんじゃない?」
ごまかしが顔に出たらどうしようかと琴音は恐怖した。
「麻理恵ちゃんホントに腹立つ。あんなムカつく子いない。マジ最悪。成績悪い癖に」
「気持ちは分かるよ」
「やっぱりムカつく人って血筋が関係あるのかもね。琴音ちゃんもムカつく人だし。琴音ちゃんの家系、やばくない? みんな嫌われ者じゃない?」
琴音は驚いて顔を上げた。平気でそう言ってのけた豊子は信じられないくらい無邪気な笑みを浮かべていて、琴音はひたすらばつが悪い思いをした。
「何無視してんの。返事しなよ」
「ごめんねいつも」
「本当だよ。最悪なことばっかりして、麻理恵ちゃんのことも甘やかしてるし。少しは反省した方がいいよ」
「うん……ごめん」
沈黙が流れた。琴音は顔を上げられなかった。
「あーあ。なんで私琴音ちゃんなんかと一緒に過ごしてるんだろ。一緒にアイス食べてるとこ他の人に見られたら笑われちゃうよ。あの子琴音ちゃんなんかと遊んでるって」
琴音は泣きたくなった。
「店出たら別行動ね。琴音ちゃんは一緒にいると恥ずかしい人なんだから、それをよく覚えておいてね」
「わかった」
その後、豊子はモールで洋服を見たがり、琴音は付き合わされた。豊子が見たい店だけを次々と回ったが、店を出たら、琴音は言われたとおり不自然に距離をおいて遠くを歩き、バスでは離れた座席に座った。周囲ははしゃいでいる学生のグループばかりで、琴音はひどく惨めな気分になった。
この日も白田は普段と変わらない穏やかな口調で授業を始めた。
「植田さんこんにちは」
「こんにちは」
「最近涼しくなってきたね。勉強も集中して出来るんじゃない?」
「はい」
「うんうん。いいことだ。じゃあ宿題を見せてくれる?」
自分のノートに目を通す白田を横目で見つめて、気まずいような恥ずかしいような、言い表しがたい感情を琴音は覚えた。落ち着かない。考えたくない上に考えてはいけないことばかり頭に浮かんでしまう。
教室の冷房は効きすぎていて、琴音は腕をさすった。机の端にはブースの壁の影ができていて暗くなっている。
「丁寧によくやってあるね。ほとんど全部丸だし間違えたところもちゃんと直してある。さすが植田さん。この調子でいこう。宿題でわからないところはあった?」
「ありません」
「じゃあ今日のところに入ろうか」
この人は何も知らない。琴音は考える。麻理恵は言っていたのだ。琴音に打ち明けたことは寿馬も知らない。誰にも言っていないことになっている、と。もし私が麻理恵との仲を知っていることが白田先生にバレたら何をされるかわからないと琴音は恐れた。恐れながらも、どこか現実味が感じられなかった。白田はいつも通り温和で丁寧な雰囲気の若者で、茶色の短髪も、黒縁眼鏡も、青いネクタイとワイシャツも、どこをとっても自分を害するように見えなかった。
麻理恵は今頃どこで授業を受けているのだろう。琴音はどうしても想像してしまう。今日もこの後麻理恵はこの人と密会するのだろうか。塾生が皆帰った後で、他の先生たちにバレないようにこっそりキスをして、深夜になったら親の目を盗んで逢瀬を行うのだろうか。 それはそれで――琴音は相容れないはずの二つの感覚を覚えた――気持ち悪いけれど、大変甘美だ。
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