第三話
期待していたことが起きた。麻理恵が白田との仲を打ち明けたのは、何も琴音との信頼を試すためではなかったのだ。テーブルの端から聞こえたスマートフォンの振動は、どこか軽快だった。
「お願いがあるんだ。今度寿馬とドライブに行くんだけど、親に言えないから一緒に遊んでいたことにしてほしいの」
麻理恵から届いたメッセージを見て、琴音は思わず笑い声を上げた。こんなにうまくいかなくてもいいくらいなのに。シナリオが順調すぎるでしょ。
「要はアリバイ作り?」
「そう。アリバイ作り。今週の日曜日だけど、協力してくれる?」
もちろん答えは決まっていた。まさにそれこそが望みなのだから。琴音は喜んで了解した。
誰がいるわけでもないのに笑いをこらえ、立ち上がった。気持ちが浮き立ってじっとしていられない。ふらふらと部屋の中を歩く。ずっと物置状態になっている勉強机の椅子を引き出して、久しぶりに腰掛けた。机の上には顎の高さまで教科書やノートが山積みになっていて、腹を押さえつけられるような圧迫感がある。いつも次の日必要なものを間から抜き取って鞄に詰め、不要なものはそのまま上に積み重ねる。もう何週間もその状況を脱していない。ときどき気がついて、きれいにしなければと思うものの、実行するには至らない。琴音は普段他の問題――重要性というよりは緊急性の高い問題――と格闘していて、とても自室の机の整理整頓までは気持ちが行き届かない。ところが教材の山は、日を追うごとに片付けにくくなっていくのだった。
よくよく眺めてみると不思議な光景であった。いつも目にしているはずなのに、細部には見覚えがなかった。山が机の手前を占領している。奥にはゲーム機とコンビニで買ったスマートフォンの充電器が放り出されている。その下には友だちに渡された手紙が折り重なっている。遙か昔にメモをしたルーズリーフがなぜか捨てられないで残っている。一年生のときのプリントに下手な字がびっしり書いてある。よく見ると大昔のシールが変色してところどころに張り付いている。ペン立てが埃を被っている。
ペン立てには長い間使われていないペンが大量に刺さっている。その中に、リスのキャラクターのフィギュアがついた緑色のシャーペンがあった。それは琴音が麻理恵からもらったものであった。
麻理恵はカーチャという紫色のウサギのキャラクターが大好きで、部屋の中にはカーチャのグッズが所狭しと並べられている。何がきっかけなのかは琴音にはわからなかったが、小学校高学年の頃から、琴音はカーチャのぬいぐるみをいつも買いたがったし、手紙にも欠かさずカーチャの絵を描いた。文房具もできる限りカーチャが描かれたもので揃えていた。カーチャはリスのワーニャというキャラクターとコンビなのだが、麻理恵はワーニャの方へは全く関心を示さず、カーチャだけいてくれればいいと言わんばかりであった。麻理恵はワーニャのシャーペンをプレゼントしたのではなく押しつけたのだ、カーチャのシャーペンとセットになっていて、一緒に買わざるをえなかったが、ワーニャのものがあるとカーチャのグッズを置くスペースが減るから、自分に渡すことで厄介払いしたのだ。琴音はそう確信していた。
以前はずっとカーチャに夢中だった麻理恵は、今は白田先生に夢中なのかもしれない。琴音は心の中でつぶやく。麻理恵は自分の世界の全てを白田先生で埋めたがるだろう。
緑色のシャーペンを取り出してみた。ノックするとプラスチックの部品が弾かれる際のごく高い音が鳴った。細くて寸胴で、握る部分に何の配慮もされていない、書きにくそうなシャーペン。キャラクターがついている他は何の取り柄もない。自分だったら絶対買わないし使いたくない。琴音はまた決めつける。何に関しても麻理恵は悉く見る目がない。どこまでも愚かだ。
宿題をしていたらまたスマートフォンが鳴った。連絡アプリのグループチャットに一人がメッセージを送ったのだ。高級アイスクリームだといって写真が載せられていた。毎晩のように食べ物や石鹸や店などの写真を載せる友人がいて、他の者は何かしら感想を言わなければならなかった。琴音は精一杯褒める言葉を探した。探しても探しても写真は尽きることなく送られてくるから、琴音は常に困っていた。もう思いつかないと思っても口に出すことは出来なかった。うんざりしながらも、そんな感情を持つ自分自身をひどい人間だと感じた。仲の良い友だちだから、どこまでも良い印象を抱いていなければならないのだ。そうでなければ良心が痛む。その友人は最近、皆が見たがってしょうがないから私も頑張っていい物見つけないといけなくて大変なんだよね、とこぼすようになり、琴音はやりきれない思いをした。
今日のところは、「アイスいいなあ。まだまだ暑いから、高いアイスは超おいしいだろうね」と送って、返信が来ないことをこっそり願った。
誰かに相談したいなあと考えた。琴音はこのところ何度も誰かに正直な気持ちを吐き出すところを思い描いていた。
一階で蛇口から水が漏れる音がした。辺りは静かだった。上質な和紙のように薄く重なった時間は滞りなく穏やかに流れ、まるで他の者は全員眠っているかのような錯覚を与えた。深くなってきた夜に特有の滑らかさであり、開放感であった。
琴音は瞬きした。いつの間にか、先ほどまで復唱していた建前を忘れていた。あの子のことを愚痴っても告げ口される心配のない相手は誰だろう。豊子ちゃんはどうだろう。いや、こんなことを言ったら――琴音は想像の途中で慌てて引き返した――また最低とか性格最悪とか怒られちゃう。あの子に言わなくても、後輩に言いふらされるかもしれない。だから絶対豊子ちゃんだけはダメだ。
引き返したにもかかわらず、頭の中で豊子は追いかけてきて、琴音を延々と責め立てた。琴音は動けなくなった。
こんなことを考えている私は本当に最低な人なんだろうな。
しばらく打ちひしがれていたが、時計を見ると十時半になっていた。風呂に入るべき時間を大幅に過ぎている。琴音は大慌てで宿題に戻った。空欄を英単語で埋めながら、ずっと罪悪感に苛まれた。感情が汚かった。心の中に悪臭を放つ液体がいつも淀んでいて、きれいなところを台無しにしていく。たくさんある傷だけでも耐えがたいのに、汚い感情まで私を苦しめるんだ。琴音は洗剤で磨いて汚れを排水溝に流す清掃を想像した。
脱衣所で替えの下着の上にバスタオルを置きながら、気分がまた上がってくるのを琴音は感じた。これから楽しいことがあるじゃない。麻理恵が悪いことをするじゃない。私は想像で傷ついている場合ではない。これから起こることを楽しむべきなんだ。
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