第八話

 テーブルの上には英語のドリルと解答集が重ねて置かれていて、その周りに消しゴムの黒いカスが散らばっている。下に敷かれたラッグの至る所に髪の毛が絡まっている。琴音はLEDに照らされたテーブルとその陰をぼんやりと目でなぞった。受話器を耳に当てながら。

「今度藤沢の家へ豊子ちゃんを連れて遊びに行きたいんだけど」

「豊子ちゃん? 何であの子が」

「麻理恵と遊びたがっていたから」

「ふうん」

 受話器の向こうで唾を飲み込む音がした。琴音は静かに息をして視線を奥の壁に移した。

「ウチ豊子ちゃん苦手なんだよね」

「苦手なの?」

「なんか……わがままっぽいじゃん? ああいうのウチ無理」

 琴音は思わず受話器の方を向いた。意外だった。豊子の名前を出せば、誰もが一様にかわいいとか美人とかスタイルが良いとかおしゃれとか言って褒めるのだ。豊子に対するネガティブな感想を聞いたのは初めてだった。

 もしかしたら共感を得られるのではないかと琴音は興奮したが、麻理恵のつれない声が彼女を現実に引き戻した。

「だからあんまり遊びたくないなあ。悪いけど」

 琴音は渋い顔をして仕方なく告げた。

「でも約束しちゃったんだ。今度連れて行くって」

「えー、勝手に約束したの?」

 仕方ないじゃないかと琴音は言いたかった。命令は絶対に聞かなければならない、そういう決まりだから。琴音が頼りにならないから自分で探りを入れると決意したらしい豊子は、麻理恵と直接対決をできるよう整えることを琴音に「命令」した。

 命令されたから従うしかないなどと麻理恵に漏らしたら、いじめだと思われ大人に告げ口されるだろう。彼らに説明するためには琴音は豊子との関係を正直に話すしかない。そうしたら豊子はどれくらい罰を受けるか分からない。怒られたら可哀想だ。だから麻理恵には、私の意思だと思わせるしかない。

「まあいっか。このところずいぶん協力してもらったからね、琴音には。いいよ。一日だけなら連れてきなよ」

 麻理恵の気前の良い返事を聞いて琴音は安堵した。同時に、せっかく作っておいた麻理恵への貸しがこれで消えてしまったなあと天井を見上げた。目が乾いて痛かった。


 豊子を好きでない麻理恵と、麻理恵を見下している豊子が仲良く談笑しているのを琴音は眺めた。ソファーはいつも通りの芳香剤の香りがして、壁に掛かっているアンティーク物の飾り時計からは歯車が鳴らす重い金属音が聞こえた。飾り時計の下部では相変わらず二人の妖精が終わらないシーソー遊びに興じていた。

「トランプでもしない?」

 麻理恵がよそ行きの声で提案した。

「トランプあるんだ」

「あるよ。今出す」

 麻理恵は立ち上がると、引き出しの中からカーチャとワーニャがデザインされたトランプを取ってきてテーブルに置いた。

「何やる?」

「神経衰弱でもやる?」

 琴音の提案を豊子は一笑に付した。

「神経衰弱だって、だっさ!」

 豊子は手を叩いて笑ったが、麻理恵が一緒に笑わなかったためにすぐに笑うのを止めた。琴音は唇を結んで誰とも目を合わせないようにした。

「ジジ抜きやらない?」

 豊子はちょっとはにかんでから穏やかな声でそう言った。

「ジジ抜き?」

「ババ抜きじゃなくて?」

 豊子は麻理恵にだけ答えるとでも言ったように、不自然なくらい横を向いて笑顔を見せ、説明した。

「ババ抜きは、最後にジョーカーを持っていた人が負けでしょ? でもジジ抜きはジョーカーを使わないの。最初に束の中から一枚カードを抜いて捨てておいて、それからはババ抜きと同じようにやる。そしたら一つだけ三枚、つまり揃わない数字の組ができるから、最後に一枚残る。それを持っていた人が負け。誰もどれが外れかわからないの。面白いでしょ」

 麻理恵は興味深そうに両目を開いた。

「いいじゃん。やろ、それ。やったことない」

 

 遊んでいるうちに三人は各の思惑も忘れゲームに没頭した。一人が手札を引くときは他の二人は息を飲んで見守り、誰かがペアを作ってカードを捨てるたびに歓声を上げた。琴音は久しぶりに屈託のない大笑いをした。

 ところが何度繰り返しても、最後は決まって麻理恵がスペードの十を手元に残して負けた。二度目は全員で馬鹿笑いしたが、三度目は空気が揺らぎ、三人はそそくさと次のゲームを始めた。

 四度目に麻理恵が首をかしげながらスペードの十をこちらに向けた途端、豊子が琴音を思い切り睨み付け、麻理恵はそろそろ終わりにしよう、と言ってスペードの十を他のカードの中に混ぜた。子どもの遊びは終わり、関係は元に戻った。

「紅茶でも淹れるよ」

 そう言いながら麻理恵はトランプを引き出しに戻し、リビングから続いているダイニングの奥の対面キッチンへ向かった。


「このお茶は輸入物で、時間を計って淹れるんだよ」

 麻理恵は砂時計を見せた。指紋が付いたガラスの向こうに水色のごく細かい純粋な砂が詰まっている。彼女は慣れた手つきで湯がつがれた三つのカップにティーバッグを入れ、ソーサーで蓋をした。

「三分きっちり計ると一番おいしくできるんだ」

 麻理恵は砂時計を逆転させた。落ちてゆく砂は躊躇うようにも無慈悲なようにも見えた。琴音は神妙にそれを眺めた。

 夢中に眺めていた琴音の意識を呼び戻したのは豊子の言葉であった。

「上等な紅茶のおいしさなんて、琴音ちゃんには一生理解できそうもないね」

「そんなことないと思うよ。琴音もたまにうちの紅茶飲むけど毎回おいしいって言うよ」

 麻理恵は澄まして言った。琴音はまた後で豊子からの手厳しい小言が待っているだろうと想像して青くなった。

 表情をふさわしいものに戻そうと琴音が密かに顔の筋肉を固くしていると、何かが左足首に当たった。不思議に思っていると、もう一度当たった。先ほどより強かった。そこで琴音は、豊子が脚を蹴っているのだと気づいた。おそらく麻理恵が自分と同調して琴音をバカにしなかったのが気にくわないのだろうと考えたが、それにしても何度も爪先をぶつけられる。琴音は、豊子の視線の先に菓子の皿があることに気づき、これを先に食べろ、という指示なのだと理解して、菓子に手を伸ばした。豊子はすかさず

「まっさきに手を付けたよ。卑しいね! 食いしん坊だね!」

と大声を上げた。琴音はわざと申し訳なさそうな笑い方をした。しかし麻理恵は笑わなかった。いいよ、どんどん食べて、と口角を上げるばかりだ。豊子はそれを聞いて、これみよがしに

「いただきます」

と手を合わせた。しかし麻理恵は褒めなかった。

 またしても豊子の爪先が自分の脚を探しているようだったので、琴音は避けるべきか脚を差し出して好きに蹴らせるべきか考えた。判断するのが億劫で、結局避けた。


「なんか、麻理恵ちゃんって塾の白田先生とよくしゃべってるよね」いよいよ豊子は切り出した「いつも仲よさそうだから見ていて和むよ」

「そうかな。他の先生たちと変わらないと思うよ」

 麻理恵は涼しい顔で答える。慣れたものとでもいうように。琴音は意外に思う。この子はこんなに上手に嘘をつけるようになったんだ。

「え、でもさ、端から見たらすごいよ。なんか、ラブラブ、じゃないけど、ドキドキ、くらいはあるんじゃない?」

「ないでしょ」麻理恵は紅茶を口に含む「だって向こうは大学生だよ。そういう目で見られないよ。お互いに」

「大学生って言っても六歳差くらいでしょ? アリだよ」

「えー」

 琴音は黙って焼き菓子を咀嚼していた。甘みも鼻から抜けるシロップの香りも感じ取ったが、はてな、これはこんなにまずかっただろうか。飲む込むのすら疎ましいくらいだった。

 何かボケをやって注目を集めようかと琴音が考えていたら、豊子が唐突に、

「ちょっとトイレに行ってくるね」

と笑顔で立ち上がった。

「右行くとあるよ。玄関の手前」

麻理恵がそう返すと、分かった、といって歩いて行った。

 琴音は紅茶をゆっくりと飲んで、突然気がついた。しかし遅かった。麻理恵は

「明日も会うんだ」

とはしゃいで話し出した後だった。琴音は目だけで相手を止めた。

 恐る恐る廊下の方へ目をやると、やはりトイレになど行っていなかった豊子が、怖ろしい表情で琴音を睨み付けていた。

 帰り道、琴音は豊子に通りに響く大声で叱られ続けた。

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