第九話

 冷気はもはや心地良くなかった。浮気な夏と内省の秋は終わり、誰もが寒さの中で生存の厳しさと戦わなくてはならなかった。人々の表情は険しくなり、道を歩いても皆目を伏せ身体をこわばらせていた。雨に濡れれば身体は冷え、全ての生物は無意識のうちにでも死の恐怖に震える。

 この頃琴音は憂えた顔ばかりしていた。日々は過酷で、いかなるときも怯えていなくてはならなかった。しかし何に脅かされているのかは判然しなかった。麻理恵と彼女の延長線上にいる白田、そして豊子が、琴音の領域を我が物顔で侵しているために座ることができないのだ。いくら寝起きしても自分の居場所が回復することはなく、それどころか、皆平気で余計に琴音の領域を狭めてくるから、本来の所有者はどんどん端へ追いやられた。圧迫感は胸の動きを妨害し肺が広がるのを阻んだ。十分に息を吸えないので苦しくなり、しばしば琴音の呼吸は荒くなった。すると豊子に、

「ハアハア言って犬みたい。キモい」

と言われるのであった。

 不安と恐怖と消えることのない罪の意識は琴音の力を奪った。休息はない。感情は寝るときですら枕の隣で待っていて、起きると同時に、意識よりも早く頭の中に戻ってくる。延々と続く苦しみは半ば病気と同じであった。

 しかし彼女に何ができよう。彼女には逃げる場所も手段もなかった。心の重荷を分かち合ってくれる者すらなかった。ただ一人で全てを抱えなくてはならず、よろめきながら寒風にさらされ、それでも歩くことを強いられたのだ。時には楽しい振りをしながら。

 

 何という夜であったか。恐れていたことが起こってしまった。蒔いた種は最悪の果実を結んだ。凶報は何の予告もなく、無防備な琴音に襲いかかった。

 塾がない日の夜十時過ぎ、宿題をやっていると、豊子からメッセージが入った。

「大変だよ」

「どうしたの?」

「麻理恵ちゃんが白田先生と二人で資料室に入るの見ちゃった!」 

 一瞬脈打つように目の前が揺れ、琴音は今が現実なのかどうか疑った。悪い夢の中にいるのではないかと。だがやはり意識と記憶が繋がった現実であった。胃の中の物がこみ上げてきて、膨れた舌が突き出て両唇の間に挟まった。何度か唾を飲み込んでから、ペットボトルの水を喉から流し込んだ。

「きっと用事があったんだよ」

 体温が上がった指で必死に打ち込んだ。しかし……。

「ずっと出てこなかったよ。私見てたから分かる」

「麻理恵が欲しいプリントが見つからなくて探してたとか」

 琴音の必死の言い訳を意に介さず、豊子は残酷にこう告げた。

「私親に言うわこのこと」

 琴音は目を疑った。親に言うなんて、大人に自分たちのことを話すなんて反則だ。暗黙の了解でそれだけはしないと皆信じているから秘密を持てるし悩みも他の子に話せるんだ。だからいじめられたって大人に言わないくらいなんだ。大人にバレたくないことを皆していて、自分が言われたらどれくらい困るかわかるから、他の子のことも黙っているのに、それなのに、平気でそんな反則技を使うなんてずるい! 卑怯だ!

「親には言わないでおいてあげてよ。頼むから」

「無理」

「麻理恵が可哀想だから。何もないだろうけど疑われて怒られたら可哀想。だからやめて」

「なんで麻理恵ちゃんなんかかばおうとするの?」

「麻理恵は従妹なんだよ。妹みたいなものなんだよ」

「妹だって悪いことは悪いでしょ」

「お願い。今回だけ見逃して」

「やだ」

「本当に、お願いだから」

「うるさい黙れ」

 琴音が返信する前に、こう送られてきた。

「琴音ちゃんも一緒に言ってよ。麻理恵ちゃんと白田先生が二人で何かこっそりやってるのを見たって。これは命令ね」

 表情がひきつるのが琴音自身に分かった。瞼がつり上がって目が開き、口角が下へ引っ張られた。鼻の頭に力が入った。

 麻理恵だけは、渡さない! 豊子ちゃんに他の全てを奪われようともあの子だけは私の後ろに隠しておくの。私の麻理恵可愛い玩具を弄んでいいのは私だけ!

 強い衝動のままに指がキーボードを叩いていた。

「いくら命令と言われても、聞けない」

「何言ってんの。命令は必ず聞く約束でしょ?」

「嫌だ」

 理性などなかった。未来も過去も消え去った。目の前の敵と戦う。

それだけだった。

「私と麻理恵ちゃんとどっちが大事なの!!!」

 本当は豊子と言わなければならない。しかしそう言ったら服従するしかない。だから琴音は本当のことを言った。

「他の子が麻理恵より大事なんて言えないよ。麻理恵は子どもの頃からずっと一緒に育ってきたんだから。家族も同然だから」

 しばらく返信がなかった。琴音は全身に力を入れて震えていた。 

 やがて影をまとったメッセージが表示された。

「ひどい!!! 最悪!!! 私は琴音ちゃんのこと親友だと思っていたのに、琴音ちゃんはそうじゃなかったんだね。見損なったよ。私の友情も全て無駄だったんだね。あんなに仲良くしてやったのに、恩を仇で返すんだね。最低だね。最低の人間だね。琴音ちゃんほどひどい人はこの世に存在しないよ。正直言って、死ね!!!!」

 侮蔑の言葉が全て自分に向けられたものであるというのが実感できず、架空のひどい人間が浴びせられた言葉を、遠くから眺めているような感覚があった。しかし自分こそがそれらに値する人間であると評価されたことは次第に身体を侵食し、毒のように神経を蝕んだ。恐ろしさと痛みで琴音は身動きが取れなくなり、返信できずにいた。すると、最終通告が送られてきた。

「ブロックするから。二度と話しかけんな」

 ふと重要なことを思い出した琴音は、告げ口だけは止めてほしいと打ち込んで送信した。だが既読はつかなかった。諦めずに電話をかけたが、いくら呼び出しても繋がらなかった。本当にブロックされたようであった。

 どうしよう。豊子ちゃんと喧嘩しちゃった。琴音は床に崩れ落ちた。怒った豊子は部活でも怒りを隠さないだろう。関係が悪化したことはすぐにトランペットパートの全員に、程なくして部全体に知られるだろう。そうしたら、先輩は豊子の肩を持ち、後輩も豊子の側につき、顧問ですらも豊子の味方をして、すべての責任を自分に被せるだろう。すなわち孤立無援になるのだ。これから部活でずっと悪人扱いされることになる。そんなのは耐えられない。生きていけない。

 何とかして、泣いてでも土下座してでも豊子に許してもらわなければならない。全力ですがりつくしかない。嫌だが、こうなってしまった以上仕方がない。

 そして。琴音はもう一つの大きな懸案事項を拾い上げる。豊子ちゃんが親に言ったら即塾に連絡が行って大騒ぎになるはずだ。しかし自分はアプリをブロックされたからどうすることもできない。私への怒りに夢中になって麻理恵のことを忘れてくれればいい。それだけを祈るしかない。

 琴音は自分の無力さを痛感した。打ちひしがれながら夜明けを待った。

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