第十話

 日が昇り窓の外が明るくなっても琴音は眠る気になれなかった。強い不安は時間を追うごとに膨張し、眠っていないために判断力を失った頭は全ての感情と記憶を黒く染めた。混沌とした苦しみの中で彼女は溺れた。目の前には死の誘惑が――十三年間の人生のうちでもう何度も直面したあの暗い誘惑が――微かに姿を現すのであった。

 それでも眠気は琴音を見逃さなかった。暴走した思考を屈服させ、徐々に身体を押さえつけた。もがきながらもやがて力を失い、彼女は普段起床する時刻になってようやく現実から解放された。

 しかしまもなく眠りは中断された。普段部活がない週の土曜日はアラームをかけないために長く眠れるはずであったが、不運にも電話の着信音で琴音は起きる羽目になった。思考が悪夢へと完全に姿を変えた直後だった。

 起きたときには電話は切れていた。通知欄には麻理恵の名前が表示されている。琴音は慌てて麻理恵とのトーク画面を開いた。開くと同時にメッセージが来た。

「もう会えなくなるかもしれない」

「どうしたの?」

「寿馬とのこと塾にバレた。ウチは家を出る」

「家出するの?」

「寿馬と逃げる。二人で遠くで生きていく」

 琴音は狼狽した。そんなことが可能なはずがない。伯父や伯母に何と説明するのだ。学校はどうするのだ。結婚だってまだできる歳ではない。行方不明になったら警察も動くかもしれない。大騒ぎになる。

 その旨を伝えると、返ってきたのはあまりに無思慮な答えであった。

「大丈夫。勉強は寿馬が教えてくれるし、寿馬が働いて稼げば生活できるから。遠くへ逃げればたぶん見つからないよ」

 諦めるしかない。琴音は倦怠して放り出した。どうなろうと麻理恵の人生だ。私は安全圏にいるのだからそれで良い。麻理恵が白田先生と逃避行を図るのだとしても何も困らない。もう私は知らない。

 力のない目でスマートフォンを見つめていると、さらにメッセージが来た。

「パパとかママとか他の人には絶対内緒ね。絶対だよ。内緒にするなら琴音には居場所と詳細教えるから。実況中継」

 連絡は一旦途絶え、琴音は力尽きて長い時間眠った。夕方近くなって目覚めると、麻理恵から「今昼ごはん。ラザニア超美味しい! 食べ終わったら雑貨屋へ行く」「歯ブラシ買った。お風呂セットも買った。パジャマおそろ!」「今日はホテル泊まるって」などと逐一送られてきていた。琴音は湯が冷めたようなぬるい頭をゆっくり起こして立ち上がり、影が差した階段を覚束ない足取りで降りた。


「うちの麻理恵、香穂のとこ行ってないか?」

呑気にも母が食卓についたまま電話に出たものだから、伯父の逼迫した声が琴音の耳に入ってしまった。来てないけど、と言いながら母は立ち上がり、相槌を打ちながら玄関の方へと歩いていった。ややあって、

「どうなってるのよ優!」

という叫び声が響いた。

 普段人前ではさん付けで呼び合う母と伯父が互いを呼び捨てにしているのは取り乱している証拠。先程までテレビを見ていた父は、眉を顰めて玄関の方向へ顔を向けたままだ。琴音は急いでいることを勘づかれないように注意を払いながら夕食を済ませた。

 戻ってきた母は色を失っていた。父が、何かあったのか? と聞けば、

「琴音、食べ終わったなら部屋に行きなさい」と目を合わせずに命じた「食器はそのままでいいから」

 琴音はうなずいて自室へ行った。ベッドに腰を下ろし、居た堪れない気持ちでいた。することがないので自分の爪先を観察していた。靴下は爪の部分が薄くなっていて、指の付け根の付近に線が一本入っている。親指よりも人差し指の方が少し長くて、中指までは似たような長さである。そこから小指にかけてなだからな曲線ができている。

 若干現実を忘れた頃に、父が

「なんでそこで塾の先生が出てくるんだ!」

と叫ぶのが聞こえた。琴音は自分の秘密が露見したような気分で怯えた。

 父の声が止むとまた周囲は静かになった。静寂に耳を澄ませていると、不思議と耳の中に音が聞こえる。炭酸飲料が吹き出るときのような細かい発砲音がずっと鳴っていて、そういえばいつかどこかで独りこの音を聞いたなあと琴音は思いを馳せた。連続する記憶のフィルムを探せばどこかにそのコマが見つかるはずなのだ。

 上映されないフィルムの、私の生涯。病んで湾曲した針金のようなこの人生。いくら伸ばしても決して真っ直ぐに戻ることはない。このままエンドロールが流れれば良い。それが一番ハッピーエンドだ。たとえ悲痛だとしても、これ以上の苦しみを与えられるよりはずっとマシだから。選べるはずの道を勝手に決められて、持っていた物を奪われて、自分自身の弱さにすら負けて、今崖っぷちに追いやられた。もう谷底へ落ちるしかないのだけど、不機嫌な周囲は私がここにしか来られなかったことをただ責め続けるのだ。


 永遠に続くかと思われた両親の話し合いはとうとう終わり、琴音は母に呼ばれ、躊躇いながらダイニングルームへ足を向けた。

「さっきね、藤沢の家から電話があったの。麻理恵が帰ってこないんだって。琴音、何か知ってる?」

「知らない」

「そう……。藤沢の伯父さんと伯母さんは今麻理恵を必死に探しているの。パパとママは今夜は家にいることにしたけど、もし明日になっても見つからなかったら私たちも探しに行かなきゃいけないかもしれない。だから琴音も明日は家にいなさい」

「分かった」

 琴音は無愛想に返事をした。すると父が興奮気味に尋ねてきた。

「白田ってのは琴音の行ってる塾で教えてる奴なのか?」

 白田の名前を出されて琴音は思わず強く目を閉じた。そして全て知っていることが今の表情でバレたのではないかと怖ろしくなった。だが精一杯の演技で知らない振りをした。

「白田先生は、そうだよ」

「そんな頭のおかしい奴の授業をお前も受けたのか?」

「パパ!」

 母が窘める。どういうわけか白田のことも発覚しているのだ。どこまで両親が把握しているのか琴音は気になって仕方がない。だが確かめる術はなかった。

「アンタはお風呂に入ってもう寝なさい。麻理恵から連絡があったら、必ずパパとママに教えてね」

「うん」

 自分が席を外したら、おそらく両親は更に話し合うのだろう。大人が四人もいたら、すぐに麻理恵の居場所なんて分かるのではないかと琴音は考えた。白田先生はうちの人たちを全員敵に回しても逃げ切る自信があるのだろうか。私でもそんなことは無謀だと分かるのに。


 再び孤独な夜がやってきた。琴音の目の前にあるのは尽きない暗闇であった。いじくっているうち、憂鬱は膿が溜まった水ぶくれのように大きくなっていった。

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