第十二話

 一ヶ月あまりが経過した。あの日以来麻理恵は一度も学校へ来なかった。メッセージも一切無かった。母の話によれば、伯母は病院へ通うようになり、伯父は仕事へ行く以外外出しなくなったらしい。

 琴音はほとんど人と話さなくなった。感情は消えた。少ないながらも生得した快活さは完全に失われた。人と向かい合っても目を合わせず常に一点を見つめていた。ともすると上の空になり、話しかけられても反応しない。

 琴音の心の均衡は壊れ、全ての刺激が受け取られることなくそのままの形で頭の後ろへ通り過ぎてく。外からは何も入ってこない。ひたすら胸の内で彼女は悲しみに浸りたがった。麻理恵の失恋は、自分たち二人の敗北である。不運にもやり損なった。そう言いながら心の手前の部分で麻理恵とともに泣き崩れていようとした。二人で傷をなめ合い、一連の悲哀たる事件に打ちひしがれるという体で。しかし奥では自分だけの罪が、真っ黒な衣に身を包み、怖ろしく低い声で琴音を呼んでいるのであった。その罪は直視に耐えず、琴音は見ない振り、忘れた振りをする。しかし罪の方では琴音を忘れずにいて、常に彼女を奥へ引きずり込もうとする。戦いであった。琴音はときどき負け、そのときは忌々しい自責の念と対面しなければならない。そうなると途端に大声でわめき散らしたくなるのだ。症状は過呼吸の発作となって表に出た。発作は寝る直前に、部活のパート練習の合奏中に、午後の授業で板書を写すときに容赦なく起こり、琴音はしょっちゅう保健室や自宅のベッドで伏せっている羽目になった。

 様子の変化に周囲の誰もが気づいた。あの豊子ですら、大丈夫? と顔を覗きんできたくらいである。先輩や後輩は具合の悪い琴音を介抱することに喜びを見い出したと見え、内に優越感を含んだ親切さで彼女に接した。琴音にとってそれは幼児の面倒を見る態度と同質であり、病人扱いの自分はもはやパートの一成員として扱われなくなったのだと理解した。顧問は、やる気のない部員に興味はないという方針の下か以前より冷淡になり、あたかも全くの他人に対するような無関心さで琴音を無視した。

 クラス担任はかなり早くに変化を察知し、廊下の端で何度も哀れな教え子の両手を握って励ました。また、数回夜に自宅へ電話をかけてきた。

 

 ある日琴音は体育の時間に一人担任に呼び出され、一階の奥にある面談室へ連れて行かれた。面談室の中は学校の中とは思えないアットホームな空間であった。白いテーブルクロスが引いてある大きなテーブルが、座り心地の良い灰色のソファーに挟まれて設置されていた。向かいの壁には絵が掛かっていて、右の一段高い小部屋には冷蔵庫とミニキッチンが見える。ミニキッチンの脇に横向きで立っているガラス戸の小さな食器置き場にはマグカップが綺麗に洗われて並べられていた。ソファーの左には本棚があり、その上にテディベアが鎮座している。こんな部屋があったのかと、珍しく琴音の意識は外へ向いた。

 やや遅れて白衣を着た女の人がやってきて、カウンセラーだと名乗った。痩せ型で、黒いくせっ毛をを首の後ろで束ねている。琴音は状況を理解した。自分は精神的な問題を疑われて、カウンセリングを受けることになったのだ、と。理解した瞬間、興味は消えた。

「植田さん、今朝は起きられた?」

からカウンセラーの話は始まり、何気ない会話から、彼女は琴音の言葉を聞き出そうとしていた。しかし何を聞かれても、琴音は気のない返事しかしなかった。最近調子が優れないのは、もしかして、あなたの親戚の藤沢さんが最近学校をお休みしていることと何か関係があるの? と真に迫った質問をされても、いいえ、と消極的な一言を口にするのみであった。申し訳なく感じたが、琴音は人と会話をする気力をすっかり失っているために、それ以上答えようがないのであった。最後に、またお話聞かせてね、とカウンセラーは笑顔で言った。さすがに落胆の色は見せないつもりらしい。

 何があっても、私の罪は消えないのに、と、部屋を出て琴音は数秒立ち止まった。音はない。カーペットの埃臭さが鼻につく。


 ある晴れた日曜日のことである。琴音は、一度麻理恵に会いなさいと言われ、母と一緒に藤沢の家へ向かった。

 母は伯父に会うため二階へ上がり、琴音は一人で静かにリビングの扉を開いた。

 一人の若い女がテーブルの前に座っていたが、最初別人に見えた。体つきといい、顔の表情といい、佇まいといい、以前の麻理恵とはかなり異なっている。強烈なストレスは風貌すらも変えてしまうのかと琴音は怖ろしくなった。普段は無気力に陥っているが、自分より弱っている様子の麻理恵の前では力を振り絞り、そっと名前を呼んだ。

 麻理恵は入院患者のような、穏やかで悲しげな目をしていた。

「来たの」

「会いに来たんだ。元気……じゃなさそうだね」

 やや沈黙があった。麻理恵はかじかんだ指をほぐすようにひとしきり唇を動かしてから話し出した。ずっとうつむいていた。

「寿馬ね、結婚できる歳になったら籍入れるって言ってたんだ。高校も寿馬の家に近いところにしようって、勉強つきっきりで教えるからって……。そう、ちゃんとパパとママに話をして同棲しようって。あの日は帰ることにしたけど、寿馬は同棲の準備を始めて、ウチは学校へ通うって、約束したの。塾は辞めさせられたけど、他の仕事に就くから大丈夫って」

 琴音は瞼に力を込めて聞いていた。

「でも、メッセージ返ってこなくなった。いつまでも既読がつかない。忙しいって言ってたけど、何週間も一度も通知見られないなんてある? 電話も全然出ないし、連絡つかなくて話ができない」

 麻理恵の目から涙が落ちた。みるみる顔が赤くなり、鼻の穴が広がって、ティッシュで涙を拭い始めた。

「ウチ、捨てられたのかな? こんなのおかしいよね?」

 先生は非情にも捨てたのに違いないと琴音は思ったが、口には出せなかった。麻理恵は細かい涙を一つ一つ落としていた。

「……ひどいことになっているね」

「こんなの有り得ないよ、有り得ない」

 麻理恵は泣き続けた。琴音は麻理恵の顔を見られなかった。

 しかし、しばらく泣いてから、麻理恵は一旦静かになった。そのとき琴音は従妹の目に怖ろしい眼差しを見た。意外にも視線は自分ではなく机の上あたりに向けられている。琴音は彼女が見ている何かを探した。

 一瞬後、麻理恵は突然震えながら、

「琴音、私ね」

と言いかけ、突然大声を上げたかと思うと子どものようにむせび泣き始めた。琴音は豹変した麻理恵を凝視した。

 彼らの頭の上では、あの日と変わらず、二人の妖精が延々とシーソー遊びを繰り広げている。

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