第六話

「五時半だ。終了! 皆片付けて」

 三年生の先輩が声を掛け、パートのメンバーはそれぞれマウスピースを唇から離した。

 良かった。今日も先輩に気づかれなかった。琴音は嫌な鼓動を感じながら新曲の楽譜に目をやった。先週配られたこの楽譜は無残に皺だらけでボロボロだ。一昨日、週末も練習があると知って癇癪を起こした豊子が無理矢理ファイルから取り出し、力任せに握りつぶしたのだ。

 新しい楽譜がこんな状態だと先輩にバレたら、なんで大切にしないのだと怒られるかもしれない。豊子がやったと言うわけにはいかないから、どうにか隠すしかない。合奏のとき隠し通せるだろうか。この曲はいつまで演奏するんだろう。琴音はずっと暗澹たる気分でいる。


 琴音はしゃがんで楽器ケースを置き場に戻す。豊子は立ったまま上の段に押し込んでいる。この体勢になるとき、必ず豊子は話しかけてきた。

「制服埃だらけだね」

「え、そう?」

「ちゃんと綺麗にしなよ。いっつも一人だけ汚くて目立ってるよ」 琴音はブレザーの袖口と裾を眺めた。そんなに汚れているようには見えなかった。

 豊子は先輩と同じ高級で新しい楽器を与えられている。良い楽器は上の段におき、琴音と一年生たちが使う安い楽器は下の段に置くのだ。

 本当ならば来年は私も上の段の楽器を使えるはずだけど……。琴音は考える。使わせてもらえないんじゃないか。豊子ちゃんが、後輩に良い楽器を使わせてあげないなんて琴音ちゃんひどい、とか言って、私は三年生になってもこうやってしゃがまされるんじゃないか。そして後輩を見上げる羽目になる。

 楽器をしまい終えると、パートのミニミーティングがある。

 先輩の片方が話し始める。

「一年生は基礎練を長くやっていて偉かった。ホント、基礎が大事だから、曲に入る前にまず基礎練をみっちりやってね。今のまま二回通してやれば高い音も出るようになってくるから」

「はい」

と一年生の二人は声を合わせて返事した。

「続いて豊子ちゃんと植田」

 先輩は豊子のことは下の名前にちゃん付けで呼び、琴音のことは名字を呼び捨てする。琴音と豊子が入った当初からずっとそうだ。顧問においてすら同じである。一年生はそれに習って豊子を豊子先輩と呼び、琴音を植田先輩と呼んでいる。

「豊子ちゃんは主旋律のところでちゃんと張りのある音を出せていてすごくいい。新曲の最初の主旋律はトランペットしかいないから響かせなきゃいけないけど、それがだいたいできているかな。できればもうちょっと大きな音でもいいと思うよ」

「わかりました」

「で、植田は前は音出せなかったところが今日は出ていたから安心した。昨日も大丈夫だったから安定してきたかな。それがとても良かったです」

「植田、調子いいけどなんかいいことでもあったか?」

もう一人の先輩がにやけ顔でからかってきた。琴音は苦笑いして

「ないです」

と答える。

「ホントか? なんかいいことあったんだろ? ご飯がおいしかったか?」

 皆噴き出した。琴音は何となくうなずいた。

「それで、今日最後の和音のところ綺麗にハモったから私感動しちゃったよ。この調子でいこうね。それじゃあ挨拶」

「お疲れ様でした。ありがとうございました」

 この決まった挨拶をする機会も半分過ぎたな、と琴音は考える。やっと半分だ。あと半分すぐ終わればいいのに。

 打ち解けた様子でからかってくる先輩たちも、本当は自分など不必要なのだと琴音は彼女らの顔を見る度に寂しくならずにいられない。


 入部した当初、部活が終わってから偶然琴音は当時二年生だった今の三年生の先輩たちの会話を耳にした。

 最終下校時刻の直前、琴音が忘れてきたマーカーが置いてある机の手前で先輩二人は内緒話をするときのくぐもった低い声を出していた。

「豊子ちゃん超かわいい」

「ね、あんなかわいい子いるんだね。びっくりした」

「トランペットも華やぐね。入ってくれて本当に嬉しい。気に入ったのかな」

「すごい当たりだったね、私たちの後輩」

「ね。まあもう一人はちょっとアレだけど」

「あれはちょっとね、陰キャだよね。正直キモい」

「あっちはどうでもいい。豊子ちゃんが当たりだから、もう一人はまあそんなじゃなくても我慢かな」

「他のパートは散々なところあるみたいだからね、クラとか」

「ああ、今年は一人もまともな顔の入部生がいない、そんなクラ」

「あのさ、私ら引退するとき、次のパートリーダー指名するじゃん? そのときは豊子ちゃんを指名しようね」

「それはもう、絶対。最初見たときから思ってた」

 それ以上聞いていられなくて、琴音は荷物を取るのを諦め逃げた。豊子は入部した瞬間からパートリーダーの地位を約束されているのだ。私は最初からチャンスを与えられなかったのだ。琴音は先輩を未だに全く信用できないでいる。


 先輩も顧問も当たり前のように琴音よりも豊子を優遇し、良い楽器を与え、ファーストパートを渡し、数に限りのあるチューナーを任せた。体育祭の応援合戦にも当然のように豊子が選ばれた。何かに付けては豊子が褒められ、琴音は比べられて笑われた。学年が上がって後輩ができたが、後輩たちは明らかに自分を軽んじているのを琴音は感じている。彼らは質問の際必ず豊子に声を掛けた。先輩や豊子が琴音をからかうときには遠慮なく笑い、たまに便乗して琴音を決めつけた。


 早く帰ろうと思った琴音だが、今はそうもいかないようだ。

「植田調子いいみたいだけど、豊子ちゃんから見てどう?」

「ウザいです」

「おい嫌がられているよ、植田」

「明日も一緒に出かけなきゃいけなくて」

「えっ」

 琴音は驚いた。そんな話は全く聞いていない。

だが瞬時に判断する。ここで知らないと言ったら、先輩は自分が約束を忘れていると思うだろう。そしてやんわりとでも責めてくるだろう。話を合わせるしかない。

「二人で行くの?」

「そうです」

「植田、豊子ちゃんに迷惑掛けんなよ?」

「はい。気をつけます」

 今の私のにやけ顔、絶対情けない。琴音はその場から離れて、真顔に戻りたくて仕方ない。頬が痛む。


 解散してから、帰ろうとする豊子の後を追って、階段の踊り場でようやく追いつき話しかけた。

「出かけるって何? 聞いてないよ」

「明日一時にイオンに行くから」

「イオン? 遠いじゃん。私明日塾あるから」

「はあ? 塾と私どっちが大事なんだよ」

「……でも、勝手に休んだら親に怒られる」

「普通友だちなら親に怒られても遊ぶよ? 皆そうしてるよ? なんで琴音ちゃんはそう自分勝手に塾行こうとするの?」

「ごめん。でも明日は本当、苦手なところだからしっかりやろうねって先生と約束しちゃって、行かなかったら悪いよ。お願い。塾は行かせて」

「塾の前は暇なんでしょ?」

「うん。三時まででいい? ごめんね、本当」

「特別だから」

「ありがとう」

 琴音は心から安堵した。また明日ね、と声を掛ければ、豊子ははいはい、とだけ言って振り向きもせずに階段を降りていった。琴音はまた身体が動かなくなり、大丈夫、明日は塾にちゃんと行かせてもらえる、と自分に言い聞かせた。

 琴音は部活なんて全然好きではない。楽器を吹くのは苦しいし、時間を拘束されるのも窮屈だし、朝練のために早起きしなければいけないのも嫌なのだ。しかし部活をやらなければ友だちの輪に入ることができないから、コミュニティから取り残されてしまうから、このまま引退まで居続けるしかない。やる気など全く湧かないが、ただ、義務だから毎日欠かさず参加する。琴音にとって部活とはそういうものである。

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