(4)
***
私は、小学二年生のときに父親を亡くしていた。
職場の火災に巻き込まれ、彼は紅蓮の中に命を落としてしまった。
一人っ子で、まだまだ甘えたい盛りだった私は、だからと言って気持ちの全部をお母さんには向けられず、適度に自分を抑えることを学んだ。
きっと、ずっと、心を分け合える存在を求めていた。
君が、現れてしまった。
君に「その役割」を求めてしまっている。そう気が付いたのは、高校三年生の夏だった。
当時の私は進路に迷っていた。歴史の中心、京都に行くかどうかについて。
日本史の資料集で見る京都の寺社に魅せられていた。梅雨時の閑かな空気を、苔の色で醸し出す西芳寺。秋の夕時、紅葉と茜空で温かな色に塗られた清水寺。それらが全部、すぐ手の届く場所にあってほしかった。
学力的にギリギリだった。地元が好きで、家から京都まで通うには少し遠いから迷っていたというのもあった。
君が、後を押してくれた。
「観たいと思ったもんはな、思ったときに観に行った方がええねん」
君はよく、口癖のようにそんなことを言う。
きっと小学生の頃、母親をガンで亡くしたから。旅行が好きな人だったらしく、入院中は、あの国に行きたいあの街に行きたいとぼやき続けていたらしい。
親の再婚のときも、だから、引っ越しまで含めてすぐに賛成したと聞いたことがある。新しい世界を見るのは楽しそうだから、と。
そして、高校三年生の八月、君は私を京都へと連れ出してくれた。
京阪特急のクロスシートに隣り合って、二人で行きたい所を次々に出し合った。京都の街をたくさん歩いて、たくさん笑って、一度きりじゃ満足できないと思って。
なんでも言い合える君が、手を引いてくれる君が、ずっと傍にいてほしくて。
既に京都の大学に行くと決めていた君から、離れたくなくて。
あの日から特別な感情がつのり、それは次第に、恋慕とごちゃ混ぜになってしまった。
***
「よし、最後の場所、決めた」
「あれ、私が決める番やないの」
「まあええんちゃう」
適当やなあ、とか言いつつ自転車の所にまで戻り、今度は二人で横並びになり北上していく。
日が沈んでいく。これから夕焼けの時間へと向かっていき、太陽はいよいよ本当の見た目も真っ赤に染まっていく。
「はい、到着」
私たちは、平安神宮の呆れるほど大きな鳥居の下まで来ていた。
高さ24.4メートル。この辺りは道もひらけているから一際目立つ。
こうやって朱塗りのオブジェクトを見上げていると、やっぱり、この街で赤というのは特別な色なんだと思う。
「入学式のとき以来かな」
「うん」
三ヶ月前。近くの会館で行われた入学式の後、私たちは平安神宮の中を歩いていた。
桜の季節だった。桃色の花と春の穏やかな気候に包まれて、二人は、物陰でこっそり初めてのキスをした。
「はじまりの土地」
「はじまりの場所」
君は小指をピンと立てた。
「ゆびきり、したやんな」
「お付き合い宣言な」
私たちは、あの日のように小指を合わせる。
私の白くて細い指。既に浅黒く焼けている君の、ちょっとだけ硬い指。
――もっと、あなたの
あの日の自分の言葉を、ふと思い出す。
君は少しだけ小指に力を入れる。
「血は繋がってなくてもな、赤い糸はここにある」
ふっと指が離れる。
「あの日、言ったよな。俺はただ、お前とずっと一緒におりたい」
――恋人でも兄でもええ。俺は一人の人間として、お前が一番好きや。
目には見えないだけで、糸どうしはきゅっと結ばれている。
もしかして、寂しい目をしていたのかな、私。
気付かれていたのかな、色々。
「俺はただ、二人で、お互いが好きなものを好きなように追いかけていたいだけ」
もう、普段はずっと飄々としているのに。
時々イケメンになるんやから、ずるいよ君は。
私は、君の両肩に手を置く。左胸のシミは、すっかりシャツに馴染んでしまっている。
私はそこに、ぎゅっと口づけをした。
口から鼻へと、すっぱい匂いがほのかに漂っていく。ケチャップの匂いと、汗の匂い。
「……何してんの」
顔を離すと、私の口紅の跡がシャツにささやかな彩りを添えていた。
心臓の位置に、キスマーク。
「あなたの
「そんなくらいで死なへんわ」
君はふっと目元を緩めて、私の唇を奪った。
夕焼け空、ケチャップのシミ、口づけの跡、赤らめた頬。
特別な色が古都の片隅に集まり、柔らかく発光している。
「時代祭、観に行こう」
口を離した君は、思い出したように言った。秋の時代祭は、そう言えば平安神宮から始まるらしい。
「うん。その前に、祇園祭の宵山を回ろう」
「山鉾巡業も見よう」
「八月になれば大文字も見よう」
赤い山鉾。赤い送り火。
夏の京都は、普段隠している赤色を一気に解放する季節。
「まだまだ、なんぼでも楽しめるな」
「ああ。まだまだこれから」
初心者の私たちにとって、この街はまだまだ知らないことだらけ。
それはきっと、知らない君に出会えるチャンスだらけ。
ステキだ。幸せなことだ。もう、何をナーバスになっていたの、自分さん?
ただ、隣にいる君が好き。それで、充分じゃないか。
君のお腹がきゅるりと鳴る。
まったくもう、と私は笑うけど、今日はよく動いたし仕方がないか。
「晩ごはん、どうする」
「あっ、今日って俺の番やっけ。チキンライス作るわ」
「どんだけトマト好きやねん」
君が一番好きな料理は、チキンライス。どこまで行ってもトマトな野郎だ。
もういっそ、もっとその白シャツをトマトまみれにしてやろうか。私の白いスカートも、トマト仕様にしてみようか。
なんちゃって。
ちゃんと後で、君のシャツの赤い汚れはきれいに落としてあげるよ。
「ええよ。チキンライスで」
「ありがと。ケチャップ切れてたし買いに行こ」
「賛成! ぷっぷー」
もう一度、ついばむような口づけを交わして、私たちは自転車にまたがる。
チキンライスは、お父さんの思い出の味。お休みの日のお昼に、よくじゅわじゅわとフライパンで作ってくれた。
だから私も、チキンライスは大好きだ。
そう言えば。
君は、いつも口の横を赤くしながらチキンライスを食べるけど。
幸せそうなその姿を、私は世界で一番愛しています。
君のシャツの左胸にケチャップ 倉海葉音 @hano888_yaw444
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