終章 ネオテニーの徒
千鶴がハッと目を覚ますと、自分が何処かの湖の真ん中、小さなボートの上で座ったまま寝ていた事に気付く。夜の湖の水面には、何故か彼女が乗るボートの僅かな波紋さえも生まれずに、鏡面そのものと言っても過言ではないそれが、光の粒子を撒いた様にまばゆく光る星々を反射していた。湖は森に囲まれていて、その向こうに何があるか、見えない。
自分は一体、何をしていただろう。そう思ってたった一分前の事を考えて、最後に見た光景が、眼前に迫る隕石の欠片であった事を思い出した。
あの隕石は、私にぶつかったのだろうか。あの勢いと質量がもし顔面に当たったのであれば、自分の顔は潰れている筈だ。頭に当たっていても、決して無事では済まないだろう。だが千鶴が自分の姿をまじまじと見て、鏡の様な湖面に顔を映して観察しても、特に目立った外傷は無い。
じっと、ボートの縁に掴まって自分の顔を見ていると、唐突に声が掛けられた。
「ここで外見は重要な意味を持たないよ」
しゃがれた声だった。驚いて、先程まで誰も居なかった筈の正面を見る。ボートの船尾側に腰掛け、穏やかな目つきでゆっくりと煙草をふかしている。
その仕草、否、顔かたちは、忘れようも無いあの人の形をしている。
「おじいちゃん……?」
爆発に巻き込まれ、千鶴を守って死んだ筈の祖父が、そこに居た。服装は、あの日に着ていた服そのままだ。どう見ても彼は、千鶴の亡き祖父である。
しかし祖父は千鶴の言葉に、肯定も否定もせず、生前同様に優しい目をしてフフッと笑い、ゆっくりと答えた。
「私は、君の体内に入り込んだ、君達が反重力粒子と呼ぶ生命体だ。君達がエネルギー体と呼ぶこれが、人の脳に作用を及ぼす事は、大塚長官から聞いているね?」
何か心の中にあるものを試されている様な錯覚を覚える、そんな質問だった。千鶴は驚き浮かせていた腰をゆっくりと再び下ろし、祖父(に見える目の前の老人)を注視し、頷いた。彼は続ける。「我々はこの体液が肉体であると同時に精神であり、そして意思疎通をする為の媒介の役割を果たしている。我々は、君達人類の中に侵入し、脳の中を走査し、研究し、そして知識と理論を蓄え、構築してきた。結果、或る程度の短時間だけなら脳だけを刺激し続け、対象者の記憶を限界まで学習する事が出来る。この姿は、君が祖父と呼んで親しくしていた死人の姿かたち、声、仕草をコピーし、君が警戒心を解きやすい様に構築したアバターだ。これが私達の今の姿であるとも言えるし、君の心の一部を切り取った君自身の姿であるとも言える」
混乱した千鶴の頭は、一つの事象に対する丁寧な解説に集中する事で、少しだけ落ち着きを取り戻した。深く息を吸って呼吸を整え、さしあたって、今訊きたい一番の質問をした。
「今、私はどうなっているの」
「結論から言うと、君は三次元世界の時間にして、あと〇・二秒で生命活動を停止する。我々が君の電気信号の伝達速度と神経シナプスの機能を最大限まで加速させているから、最大で約七万倍の時間を、この空間での対話に費やせる。我々は、ずっとそうしてきた」
私は、死ぬのか。
そう知らされても容易に信じる事は出来ず、しかし夢の中に居る様な今の自分が感じている感覚だけは確かに目の前の彼の手によるものだと、スムーズに受け入れられた。死の実感が無いまま、白昼夢を見ている様な、そんな感覚が千鶴を包み込んでいる。
死にたくない、という恐怖感は、不思議とあまり湧かなかった。ボートの上に座っている千鶴自身は本当の肉体を持った自分にしか思えなかったし、祖父が言う死の瞬間というものを殆ど知覚出来なかった所為だろうか。
困惑はしたが、取り乱す事はしなかった。小さな小舟の上で、千鶴は気持ちを落ち着けて、ゆっくりと次の質問を考える。祖父は、決して急かさなかった。彼は千鶴の記憶にある過去の記憶と同じ、優しい目で彼女を見つめるだけである。
気を落ち着けて考えて、まず一つ、疑問を口にした。
ずっとそうしてきた。確かにさっき、目の前の祖父はそう言った。
「ずっとそうしてきた、っていうのはどういう意味? 私に対するこれが、初めてではないの?」
加えて先程、君達人類、という単語も口にした。
恐らく大言壮語ではない、文字通りの意味で。
祖父は笑って答える。
「この惑星に初めて我々が衝突し、その体液を大地や植物、そして大気中に微量ずつ拡散させてきてから、この星の時間で丁度三十年が経過した今年、我々は君達人類の体組織・神経組織の構造と情感のロジックを解明した。我々に比べて随分と複雑な思考回路を持っているようで、苦労したよ。そしてそれ以来、この星で命を落とす人間には可能な限り全て、こうして数百時間の対話時間を設け、我々について話している。全ては、ネオテニーを成熟させる為に」
打ちのめされた様な衝撃が千鶴の体を走ってから、彼女はしばらく固まっていた。たった一分足らずの間に語られたその言葉は、余りにも多くの情報を持っていて、彼女の脳では処理する事が出来なかった。
「私が言った言葉の意味について、順番に説明していこうか」
手慣れた様子で、祖父は言った。「我々は、液状の体を持つ生命体だ。その体質故にテレパシー能力を持ち、その能力故に他生命体の精神系・神経系に干渉し、情報を抽出・吸収し、思考回路の範囲内で一定の影響を与える事が出来る。その成果の一つが、これだ」
言って、祖父は両腕を小さく広げる。これ、とは、湖と木々、ボート、夜空、祖父、そしてこの空間そのものを指すのだろう。千鶴は黙って話を聞いていた。
「干渉した対象の脳が最もリラックス出来る空間と対話相手のアバターを作り、コンタクトを試みる。これが、君達人類の脳に侵入する第一段階の目的だ。しかしこのステージに辿り着くまでに、我々は苦労した。或る種の植物が、その種を撒く際に実がはじけ、地面にばら撒かれる様に、我々も星という殻を宇宙船として、宇宙を彷徨う。そうして知的生命体の住む星へ落下し、我々の体を地表へ、そして大気へと散布する。この散布された体はその星のあらゆる生命体の情報を吸収し、テレパシーで仲間と共有される。この抽出と共有を繰り返す事で、個としてではなく、種としての全体的進化を飛躍的に可能にするのだが、君達人類がこれを出来るのは、恐らくまだまだ先の事だろう。……さて、この星の頂点に君臨している君達人類の情報収集は、実は容易ではなかった。まだ我々の仲間はこの星を目指している途中で数も少なく、サンプル母数が少ないままだった。加えて、君達の驚異的な環境適応能力だ。いや、環境を自分達に適応するものへ作り変えようとする能力と言うべきか……我々がこの星に去来して十三年で、君達は我々の生態を探る手がかりの第一歩となるサンプルを手にし、それから更にたった三年で、我々を捕縛し、生体エネルギーを逆に自分達の資源へ転用する為の知識と技術を備え、そして実行してしまったのだ。全く、驚嘆と言う他に無い」
祖父は、さも楽しそうに身振り手振りを交えて話した。とても、その正体が遠く離れた宇宙からやってきた生命体とは思えない程。
ふと、千鶴は思う。この『嬉しそうな』仕草をする生命体は、本当に自分の感情表現をしているのだろうか。それともただ、自分達人類の喜怒哀楽の行動パターンをトレースし、それを反復して動いているに過ぎないのではないか、と。
答えの出ない疑問は、止まらない祖父の言葉に遮られる。
「ようやく君達人類についての情報・知識を習得したのは、先程も言った通りつい最近だ。完璧な情報と知識を手にした私達は、第一ステージを経て進む第二ステージを履行する為、一層この星を早期に『整地』する必要性に迫られた。情報収集の為、もう甘んじて破壊される必要性は無いと、一斉に行動を開始した。その鼻緒が、君も見た三月の隕石だ」
ラオ・チェンが死んだあの日、スケール3の隕石とそれを取り巻く小隕石が見せた異常な行動。
あれは始まりではなく、終わりを告げる合図だったのだ。
「目論見通り、我々の星は一つ、また一つとこの星に種を再び撒き始めた。今日、君は見事に我々の進行を食い止め、一夜限りの英雄となったが、今日の様な流星群は今後もずっと続いていく。我々という集合体の抵抗は継続し、成長を続ける。君達は、我々のその速度に追いつく事が出来るかな」
挑発する様な物言いではなく、本当に疑問に思っている風だった。それ程に、人類の成長速度に感服しているのだろう。祖父が千鶴を見る目には、決して馬鹿にした様子は無い。
しかし、徐々に落ち着いてきた混乱の代わりに姿を見せ始めた、千鶴の中の警戒心は、祖父の姿をしたそれを注視し続けた。
「一体、何が目的なの」
「それが、我々の本来の目的、第二ステージ。君達のネオテニーを成熟させる事だ」
矛盾した言葉だがね、と付け加えて、祖父は一服する。千鶴は首を傾げた。
「ネオテニー……?」
「動物が、性的に完全に成熟していながら非生殖器官に未成熟な部分を持つ現象の事だ。代表的な物で言えばメキシコサラマンダー……ウーパールーパーの特徴的な逆立ったエラ。エラ自体は両生類の幼生の特徴だが、メキシコサラマンダーのそれは、成体でも見られる。それでも、その個体は成熟した成体だ。一見進化の遅れた失敗作の様にも見えるが、これは幼体と言う『これから成長する生物としての素体』として優秀であると言えるのだ。つまり、成熟してしまうという事は、その環境に適応した体が完成されてしまっているという事であり、突発的な環境の変化に対応しにくい。この点、生体機関の一部を幼体として残した個体は、成体になった場合も新しい環境への適応が柔軟にこなせる傾向にある。……つまりネオテニーの個体とは、種としての進化の分岐について、可能性を秘めているとも言い換える事が可能だ」
「何が言いたいの? それと貴方達の地球への侵略に、何の繋がりがあるの?」
「誤解しないでもらいたいが、我々が行っているのは侵略ではない。この星の生命の進化を促し、後押しする、補助行為だ。君達が捉える概念で言うところの、『神の雷』に近い存在かもしれん。……この星の人間という種は、いわばネオテニーの種なのだよ。我々の様に、運動する生物としての肉体を必要としない生命体の思考や価値観、ESP能力を普遍的特性として獲得していない君達にとって理解する事は難しいと思うが、生命は肉体ではなく、精神に宿る。肉体は精神を保持する殻でしかない。丁度、我々の体が星々の殻に入って宇宙空間を移動する様に、君達は肉体という殻を持つ精神こそ、人類と言う存在の本体であり、正体なのだ。そして人類、いや生物は、肉体という殻を捨てる死という瞬間を経る事で完全に精神を成熟させ、精神世界という最も生存困難な環境に適応する命を得る。……君の住む日本では、これを解脱という概念で感覚的に捉えていた記録があるな。実に興味深いよ」
私は急に展開される理論に対し、思わず鼻で笑ってしまう。
「スピリチュアルか仏教についても学習したの? 概念や空想の定義を現実に当て嵌めるのは、筋違いに思うけど」
だが、祖父は至って真面目な顔をして答えた。
「科学式で具体的なロジックを構築出来ない分野について、君達人間は本当に懐疑的になるのだね。宗教や信仰は、そうした乱数的要素を多分に含む精神的無作為の集合体を束ねる為の、統計化されたシステムだ。例えばご神体や本尊というイコンに対して決まった意味やルール、体系を付与させる事で、主義主張、価値観を異にする人間を一つにまとめ上げる。それは、他民族の精神を統合させる為の解を見付けるという目的の下に作られたフィルターであり、フィルターを通す事で人々は或る種の統一意思を得る。まさに、人々の『心』をまとめる為の機構を持つ計算機じゃないか。宗教は、原始的な文明にも見られる初歩的な科学だ。精神も宗教も論拠となる前提部分を形而上学的精神論に由来するとした時、これらは計算式に過ぎない。これを極限まで学問・学術として高域に昇華させたものが、人の精神を論理的かつ科学的に進化させる、人間の肉体という名を持つ数式の殻だ。この殻は魂や精神と呼ばれる存在を保護し、個体が寿命を迎えた時に真価を発揮する。生というステージから死というステージへ、肉体ではなく精神が進化する。そういう意味で人に寿命は根本的に存在しない。肉体という寿命が、一般的に七、八十年と言われるだけだ」
魂の、肉体からの解放。人を物質世界から精神世界へと進出させる、例えるならサナギの孵化の手伝い。それが、彼らの役目だと言う。
自分と祖父以外に動く物の存在しない世界で、千鶴は体を動かす事が出来なかった。まるで、その場の空気と目の前の祖父の顔かたちをした生き物に、自分の一切合財を拘束され、支配されているかの様に。
そしてそれは、まさにその通りだったのだ。
「人の精神……ここでは分かり易く、魂と呼んでおこう。これを肉体から切り離す事が第二ステージの目的。そしてここから最終ステージへはスムーズに移行する事となる」
祖父は続けた。
「下準備は必要となる。しかしこれは、我々がこの星へ衝突するその時点で終了している。分かるかね? 始め、私は我々の肉体を、大地や空気中へ散布し種を撒く、と言った。君達が、隕石が衝突する事でそれは全てが消滅すると考えているらしいが、それは違う。微粒子と化した我々は大気やこの星の大地に溶け込んで、ゆっくりとゆっくりと、生息圏を広げていった。そうして植物の種子が世界へ広がっていく様に、我々は人の体を介して、ゆっくりと世界へ広がっていったのだ。これは、君達人類の情報を収集する為であると同時に、人の魂と肉体を乖離させる為の下準備でもある。さて、これはどういう事を指し示すのか。……この理屈は何となく分かると思うが、意識が肉体に強く執着し、またこの同一性は不変の確定要素であるという意識や概念が人の心にある限り、魂は肉体から離れようとしない。魂を切り離すには、この生命を維持する為の大前提である意識と常識を揺さぶり、刺激を与える事が肝要になる。そこで、手荒な事ではあるが、我々は君達に夢を見せる様にした。未来に対するそれではなく、眠っている間に見るものの事だ」
千鶴はぎょっとする。
では、ラオが死んでから頻繁に自分が祖父の夢を見ていたのは。ローランドが娘の夢をよく見ると言っていたのは……
「トラウマや恐怖などの負の感情は、人の心を揺さぶり、強いショックを与えるのに最適な感情だ。深く心と体が結びついている者程、内側からの衝撃に弱いものなのだ。大抵は、夢を見始めてから一カ月もすれば死後、魂と肉体が容易に乖離する。そして我々はなるべく、死の瞬間を経験する人間の体内に入り込み、脳に干渉し、より魂が精神世界へ巣立ちやすくなるように、こうして精神……魂と死の間際の『対話』をするのだ」
彼のこの話は、千鶴が繰り返し見た祖父の夢よりも強く彼女の心を揺さぶる。眩暈がしそうだった。
だが、呼吸を深く何度か繰り返し、意識を自分自身の内側へ、内側へと集中させる。
星漁師になる前から続けている、彼女なりの集中力の高め方で。
心がひとまず落ち着くまで、祖父は何も言わずに黙って待ってくれた。千鶴は呼吸をようやく整えて、静かに閉じていた目を開く。
目の前に居る祖父は、やはり優しい目をしていた。
「君は、強いね。夢を見た時から崩れ続けていた心が今、以前よりも一層固く組み上げ直されている。固められた粘土が強度を増す様に」
「どうも。……でも、私が知りたい事は終わってない。そんな、貴方達に利益も何も無さそうな事を、どうして続けるの。意味不明に地球に干渉しているなら、それは私達にとってやっぱり侵略だわ」
真っ直ぐに祖父の目を見て言う。彼が死んで以来、遺影にさえちゃんと向き合えなかった千鶴は、腰を据えて、正面から彼の目を見ていた。祖父は答える。
「いいや。やはり、侵略ではないよ。この星の魂は全て我々の故郷へと向かい、悠久の時を経て、またやがてここに戻ってくる。ここは我々にとっての故郷であり、我々は君達にとっての途方も無い遥か昔の祖先にあたる存在なのだ」
祖父は説明を続ける。
「この星から八千万光年と少し離れた場所に、私達の星は存在する。約四十億年前にこの地球で誕生した原始生命はその肉体の寿命を終えると、肉体に執着しないものだから容易に魂が肉体を離れ、長い長い、永遠にも思える時間を渡り歩き、その星へ到着した。そこは、宇宙の全ての生命が精神体となり、肉体の死後に収束する、いわば魂のハブとなる場所だ。肉体を持つ生命と精神だけの生命の、更に上位次元に存在する支配者により管理される星。海の砂の数を正確に数え上げられる程の技術と能力を持つ彼らは、魂の流れとバランスを宇宙単位で管理し、統括しているのだ。それから支配者達は正確に魂を管理し、宇宙の隅々にまで目を光らせ、生命体と生態系の管理を続けている。そしてつい五億年前、この星のカンブリア爆発を確認した。観測距離と航行距離を計算すると、もうその時から星を出発する必要があった。我々が到着する頃には生命の進化は過渡期を迎え、衰退を始めるだろうと。カンブリア爆発で生まれた複雑な高等細胞生命体はそれだけで肉体への執着心を強め、支配者の星に魂が還元されなくなってしまうからね。それを阻止し、この宇宙という巨大な生態系を守る為に、我々はネオテニー素体の完熟と魂の乖離、そしてハブへの誘導をする役目を担ってやってきた。……君は、我々高度知的外来生命体が一つの星の一つの種族を理解するのに三十年も必要とするのか、と思ったかも知れないが、その認識は全く違う。宇宙から見れば、三十年など、目の瞬き程の時間も経過していない。これが例え百年になったところで、大した問題ではないのだ」
何か質問は? と、祖父は言葉を止めて訊いた。
ゆっくり、ゆっくりと情報を頭の中で整理し、噛み砕き、理解する。千鶴は混乱しそうな頭の中で、疑問を口にした。
「地球に生きる人類は、どうなるの」
「我々は本格的な地球環境の整地を開始した。十分に我々の体を星に散布した後は、もう隕石は襲来しない。それまでに地球の人口が文明維持不可能なレベルまで落ちるか、生き残って資源枯渇により絶滅するか、それは分からない。ただ、人が居なくなってもこの星は別の生命により相変わらず豊かな土地や海を維持し、可能性として新人類に成り代わる種類がこの星の頂点に立つかも知れない。しかしその頃には、既にこの星は私達の精神により支配されている事だろう。あらゆる生命は生まれながらにして脳の中に我々を宿し、その死と共に魂はハブの星へと旅立つ事になる。そしてそれを、生命的本能としてその遺伝子に刻む事だろう。動物が、生まれながらにして立ち上がる事を理解し、実行するのと同様に。……分かるかね。この星はホモサピエンスの生誕から二万年の時を経て、進化のパラダイムに直面しているのだ」
……それから千鶴は、幾つかの質問をした。これからの地球の事。自分の事。友達や同僚、上司など親しい人達の事。
答えは全て、「じきに消えてしまうもの」だった。
何万光年という時間を単位に生きている彼ら異星人にとって、肉体を持った千鶴達が生きる時間は、驚く程に少ない。そんな自分達の存在は、彼らにとって瞬きする間に消えてしまう、シャボン玉の泡よりも儚い存在でしかないのだろう。
質問。疑問。答え。
およそ、人間としての思考と感覚を未だに捨てきれないままの千鶴には、人類が生き残る為の有効な答えや会心の反撃方法を思いつく方法など無かった。
無力感が、千鶴の心の中に広がり始める。
目の前の、祖父の形をした存在が口にした事が嘘だとは思わない。これが、千鶴自身の見る夢の光景だとも思わない。全て真実なのだろうという漠然とした確信が、彼女の中にあった。
質問の無くなった千鶴の姿を見て、少しだけ残念そうな顔をして、祖父は切り出した。
「残念だが、そろそろお別れになりそうだね」
「私はこれから、どうなるの」
「魂は最大で、光の速度での移動が出来る。これから君は最低でも八千年……寄り道をしたければしてもいいが、その場合は数億年の時間を掛けて、ハブの星へと向かう事になる。もう君の潜在意識と遺伝子に、星への航路はインプットしてあるから、迷う事は無い。ともかく、君は上位者達の手により回収され、いつか別の星の生命体として輪廻転生する資格を得るか、私の様に宇宙のあっちこっちへ派遣されてネオテニーの成熟を手伝う管理人としての役割を任されるかも知れない。更に運が良ければ私の様に、生まれ故郷に戻ってくる事も出来るだろう。そんな運命のきまぐれに身を委ねて数億年を無為に生きるのも、また一興ではないかね?」
ほら、と祖父は手を伸ばし、湖を囲む木々の更に向こうに広がる夜空を指し示す。千鶴がその方角に目をやると、幾百、幾千、幾万もの光の筋が、地表から空へ向かって真っすぐに昇っていく光景が見えた。
距離的に、千鶴から見てその光はとてもゆっくり上昇している様に見えるが、実際にはあの星々の一つ一つが全て、音速の何十倍もの速度で飛翔しているのだろう。星々は、一直線に同じ方角へと昇っていき、星々の瞬く夜空の更に向こうへと消えていく。
「あれは……?」
「この夢空間で君に可視化出来るよう演出したものではあるが、あれがハブの星へと向かう、地球の魂達だ。先程、中国の山中に大きいのが一つ落ちたので、きっとその分だろう。実際に光が見える訳ではない。が、魂は確かに地球から飛び立っている」
「魂は、納得してハブへ向かうの」
「納得する・しないの問題ではないのさ。本能が、そうするように語り掛ける。……天啓が降りてきた、という感覚に襲われる者も多いが、それは我々がそうなるよう、行動プログラムを君達人類の遺伝子レベルに刻む事が可能になったからだ。君も、例えどんな感情を我々に対して頂いたとしても、やがてこの地球を離れ、ハブへと集合する」
本能。天啓。
その言葉は、千鶴の心を刺激した。
それは、自分が星漁師になる事に対して。そして星崩しの射手となる事に対して抱いていた、感覚的な情熱と思考に他ならなかったからだ。
そしてだからこそ、彼女を確かに、強く突き動かす。
千鶴はゆっくりと、ボートの上で立ち上がり、祖父を見下ろして言った。
「人類は、抵抗しても全くの無駄だって言うの?」
祖父は答えなかった。千鶴は続ける。「例え私達の魂がハブの星へ向かい、上位者とかいう存在に支配される小さな存在だったとしても、私達は抵抗する。抗って、死を甘んじて受け入れる事なんて、絶対にしない」
「ほう」
「例え貴方達にこれらかの人類の未来を決定されていたとしても、私達がやる事は変わらない。毎日を生きて、生きて、全力で生き抜く。支配された死だとしても、その死の瞬間さえも私達は自分で決める。星漁師だって、死ぬ覚悟をして自分達の仕事を決めたのだもの。星漁師のこの生き様こそ、人の目指すべき生き様の象徴だわ」
語る途中で、ボートは徐々に形を変えていく。星を反射した鈍色の、半透明の液体が球状に形を得ていく。千鶴は、ゆっくりと固まっていくその球体に包まれた。それでも動揺する事は無く、ただ真っ直ぐに、湖の水面の上に立つ祖父を見つめ続けている。
「地球人の抵抗が無駄だなんて思わない。無駄だと言われても、絶対上位者の存在や宇宙と言う生態系の仕組みの全てを理解したとしても……それでもきっと、皆抵抗して、自分達で選択した道を歩いて行く。本能や天啓の発露が誰かに植え付けられたものだとしても、そこから次を選択して行動を起こす決定は、間違い無く当人だけが行える事だもの」
進むべき道は、誰かに決められるものではない。自分が決める。
だから自分は、星漁師になった。誰かを助ける為に生きた。
その生き様は、間違い無く自分自身が決めたものだ。
液体が球状になり、千鶴の周囲を完全に包み込んで密閉すると、千鶴の体は足先から徐々に消失していく。霧の様に霞み、空気に溶けていく。魂を視覚化出来る、『彼ら』の干渉が終わりを告げようとしているのだ。やがて自分の視覚は消失し、脳は消え、魂という一つの意思となった六条千鶴という自分自身の概念は、長い宇宙の放浪を開始する事だろう。
祖父は、そんな千鶴を見て優しく言葉を紡いだ。
「それでいい。たった一瞬しか生きられない生命体であろうとも、生きるという事に向かって進み、障害に抗い、ひたすらに生き抜くその輝きは、なによりも尊く、美しいのだから。それでこそ、魂は生きる価値がある。この暗黒の宇宙で、数千万光年離れた星からも輝いて見える程に、魂は光り輝くのだよ」
*
六条千鶴にとっての祖父と呼ばれる、彼女の夢の中の残滓が最後に残したその言葉を、しかし千鶴が全て耳にする事は無かった。直前で彼女の体は完全に消失し、個人としての自我を消失した彼女の夢空間は、粉々に砕け散った。
後にはただ、『生きる』という意思の塊と化した魂が、地球の大気圏中の何処かにふわふわと浮いているだけだ。
やがて魂は思い出したかの様に、ゆっくりと上昇を続けた。星の引力というしがらみから解放された精神生命体は、徐々に加速を開始する。それはどんどんと速度を増し、月を、火星を、木星を、土星を通り過ぎ、遥か彼方八千万光年先の天体を目指す。
この魂が、途中何処かの星へ寄り道をするかも知れない。
ブラックホールに飛び込んで、事象の地平線の向こう側を観測して何食わぬ顔で戻ってくるかも知れない。
何処か生命の存在する星に流れ着き、一万年程ものんびりと漂っているかも知れない。
途中で他の魂と合流し、毎秒一億回の相互テレパシーで情報のやり取りをし、宇宙空間の一部の実態を知る事になるかも知れない。
ハブへ到着したこの魂が、更に数千万光年離れた遠くの星へ飛び、新たな生命として肉体を得るかも知れない。
隕石という船に体を宿し、何処かの星へとネオテニー成熟の旅へ派遣されるかも知れない。
……全ては、可能性の話である。
この可能性が実現する可能性は、限りなくゼロに近いかも知れない。
けれど。
ゼロではないのだ。
これは、そんな可能性の話である。
(了)
星漁師の唄 宇津木健太郎 @KChickenShop
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