星漁師の唄

宇津木健太郎

序章


 夜の山中の湖に一艘、ボートが浮かんでいる。

 オールで船を漕いでいた老爺は、今はその手を休め、向かいに座る老婆と昔の思い出を語り合っていた。

 光源と言えば頭上にきらめく星々の海だけで、二人の足元にあるランプは消えている。それでも月の光でお互いの顔は良く見えたので、それぞれの微笑みを見て、自分達の残された人生に満足している様子だ。

 二人はつい半年前、都市部から逃げてきた。星売り子と民衆の間で生まれる一方的な関係性や、培養液燃料の高騰により世間でまことしやかに囁かれる官と民の貧富差拡大、そしてそうした不和から生まれる軋轢や暴動・デモが度々生じるようになってから、彼らは疲れてしまったのだ。

 社会や世間に対するこれらのストレスや危険から逃げる為、二十一年前に『隕石』が落下して以来誰も近付こうとしないこの山奥へと入り、古びたロッジを自分達の手で手入れし、静かに暮らす事としたのである。

 星売り子さえももう近付かないこの隕石衝突跡地の湖で、二人は自分達の命が尽きるその瞬間を待っている。

 培養液燃料などなくてもやっていける。こんな我々でもちゃんと生きていける。星に運命を囚われる必要など無い。……そう主張する為に行動を起こした訳ではないが、そう口にして自慢したくなる程に、二人はお互いの、そして自分自身の人生と生き様に誇りを感じていた。

 三十年前のあの日から、苦難の道を歩み続け、確かに人類は隕石の恩恵を受け、種としての大きな飛躍をしたかも知れない。だが、隕石のもたらす災厄と天啓は、ただ人類が取り扱うには余りにも大き過ぎたのではないか。そう考えた夫婦は、文明と俗世間から自分達を切り離した。その選択が間違っているとは思わない。

 けれど、もう隕石の恩恵無しには生きられない所まで行きついてしまった人類が、果たしてこれから何処へ進めるのだろうか。

 文字通りの老婆心を抱きながら、それでも二人は、今日をひっそりと生き抜いた事に感謝し、老婆の誕生日であるこの日のこの夜、こうして過去を語らっている。


 その時、遠く遠く離れた山の向こうから、僅かにサイレンの音がした。


 耳の遠くなった二人にも、かろうじて聞き取れるくらいの大きなサイレン。二十年以上前から聞き続けていた、人の心に酷く不安と焦燥を掻き立てる無機質なサイレン。

 今夜もまた、始まってしまった。

 俗世から隔絶された世界へ住もうとしても、全国、否、全世界に住むあらゆる人間に届くようにと各所に設けられている大音量を発するサイレン装置は、否が応にも耳にせざるを得ない。老夫婦はサイレンの鳴る方角を見て、しばし無言でじっとしていた。

 ちゃぷん、と魚が大きく跳ねたのは、二人が見ていたのとは逆方向の水面だ。老婆が何とはなしに振り返り、そしてその方角……遥か北の空を見ると、一際強く輝く星が見える。

 近付いている。

 今日も、隕石が降る。

 災厄と福音をもたらす隕石が。

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