バッカスのお品書き
呑竜
第1話「プロローグ」
大衆酒場「
横浜線十王子駅までほど近い
焼けた魚の匂い、乾杯の掛け声、賑やかで楽しげな空気が、煙のように店内に充満していた。
カウンターの片隅で、ひとりの男が眠っていた。
40がらみの、背の高い男である。
髪はぼさぼさ、髭もぼうぼう。服装も、どてらにスウェットに健康サンダルときては、お世辞にも見栄えがいいとはいえない。
外国人であった。
肌は白、髪は白に近い金髪。閉じられてはいるが目は青。
顔の造作も彫が深く、きちんとしていれば女性にモテそうな様々な条件を整えていた。
だが残念なことに、きちんとはしていなかった。
男の前には半分ほど中身の残った二合徳利とお猪口がある。
烏賊の一夜干しとモツ煮が食いかけのままだった。会計を示す100円の黄色チップはまだ10枚。
しかしなんとも幸せそうな寝顔だった。
「おう、なんだよ
常連と思しき作業着姿の中年男が、楽しげに声をかけてきた。
「その人はしょうがないよ。ほっときな」
奥から出てきた給仕のおばさんが、小鉢の乗った丸盆を抱えたまま朗らかに返す。
「酒の神様だってんだから、酒の海に溺れる夢でも見てるんでしょ」
「違いねえ」
中年男とおばさんのやり取りに、周囲がどっと笑う。店のカウンターにうつぶせて眠りこける男に、誰もが好意的な目を向けていた。
それはいつもの光景だった。ずっと昔から繰り返されてきたことだった。
中年男が常連になるより、おばさんが給仕になるよりもずっと昔から。
男は同じ年齢で、同じ姿形で、家や街中や、時にこうして酒場の片隅で、酒を呑み続けてきた。
そのことに疑問を持つ者はいない。誰もが無条件に存在を許してしまうような、そんな不思議な緩さが男にはあった。
男の名は
カウンターに突っ伏しながら、酒神は夢を見ていた。
最近、繰り返し見ている夢だ。
夢の中でも彼の恰好は変わらない。いつものようにだらしなく、どてらの裾に手をつっこんでいた。
「真樹子……」
酒神が呼びかけると、紺地に朝顔柄の和服を着た少女が振り返った。
目に涙が光っている。
いつも強気で、いつも元気で、明るく彼に接してくれた少女が泣いている。
その事実は想像よりも強く、酒神の胸をついた。
「教授。あたし決めたことがあるの」
「う、うん」
少女の睨みつけるような眼差しに圧倒されて、酒神は一歩後ずさった。
「呪ってやるって」
「……うん?」
少女の外見からは想像もつかないような強い単語が飛び出したことに、酒神は驚いた。
「教授を呪ってやる。いつまでも、この世に存在し続けるかぎり絶対に忘れられないように呪ってやる」
「か、神を呪うっていうのかい?」
少女は頬を流れる涙を拭おうともしなかった。
「いずれわかるわ。そんな遠くない未来よ。楽しみに覚えていて。だからそれまであたしのことを覚えていて」
「真樹子……君は……」
止めようとした手は届かない。言葉も、気持ちも、急速に遠ざかる少女の姿に追いつかず、そして再び……。
「……おうい、教授、教授よぅ」
誰かが肩を叩いていた。
「ん……? あ、ああご隠居か」
目を擦りながら上体を起こすと、90はとうに超えたような老人がふがふがと、聞いてるほうが心配になりそうな口調で話しかけてきた。
「お前さんはよぅ、まぁだここにいていいのかい? 今日はあん人が来るといっとったろう。あれ、あー、あの。真樹ちゃん」
「……あのねご隠居。真樹子じゃないから。真樹子の孫だよ」
「なぁんだ孫かい。わしゃひっさしぶりに真樹ちゃんに会えると思って楽しみにしとったんに。ばあさんが家で大人しくしてろいうの、聞こえねぇふりしてきたんによぅ」
ふがふがと笑うご隠居に給仕のおばさんが、「ねえなにそれ。真樹ちゃんってご隠居と教授が時々話に出すあの人の話?」と突っ込んだ。
「そおうよぅ。九曜小町なんていわれてよぅ、美人さんだったんだからぁ」
「……お愛想」
盛り上がり出すおばさんとご隠居を横目で見ながら会計を済ますと、酒神はふらふらと丸安の暖簾をくぐった。背におばさんの声が飛ぶ。
「教授。しばらくいるなら、その娘もうちに連れてきなよ。たっぷりサービスしてあげるからさあ」
「連れてこないよ。こんなとこ。たちの悪い酔っ払いばっかりだ」
「あんたが一番だろうがー!」
誰かが野太い声で叫び、笑い声が重なる。
ふんと鼻を鳴らし、酒神は店を出た。
夕暮れ時、空は茜色に染まりつつあった。
駅から徒歩40分ほど。小高い山の中腹の、雑木林に同化するように埋もれるようにしてその建物は建っていた。
もとは旧華族のお嬢様の療養にと用意されたお屋敷を、もったいなくも九曜大学に通う学生のための学生寮に作り替えたものだ。
しかし便利なもののみ持て囃される時代の流れにさらされて、バスの便も悪く、近くに商店のひとつもないような場所にある41部屋は、ひと部屋を除いて他すべてが空き部屋となっていた。
そのひと部屋の住人が管理監督者たる酒神だ。
しかしこの通り酒浸りの道楽者だから、庭も建物も長い間手入れがされず、廃屋と見紛うばかりの惨たらしい有り様となっていた。
「はっはあ~、ひでえどなあ~。婆っちゃが早めに行かんと入学式までに間に合わねぇつってたのはこれかい」
学生寮の前に、少女がひとり立っていた。
サバンナを駆ける草食動物を思わせるほっそりとしなやかな体を紺色の、おそらくは入学式用の礼服に包んでいる。
足元にボストンバッグを置いて、両手を腰に当てている。
牧歌的な訛りに聞き覚えがあった。藍色に近い色合いのショートボブから、遠く初夏を思わせる懐かしい香りが漂った。
「……あ」
酒神に気が付くと、少女は「にかっ」と男の子のような笑顔になった。
「酒神教授ですね? はじめまして。あたし、
「ああ……うん」
「うん、その通り。酒神一生だ。真樹子のお孫さんだね。話は聞いてるよ。家政婦をする代わりに家賃とガス光熱費水道代食費一切の免除。プラスでバイト代もくれっていうけっこうな話だ」
「はは……」
夏帆は軽く引きつり笑いをした。
「祖母が無理を申しましてどうも……」
「いや、いいんだ」
ぺこりと頭を下げる夏帆を、酒神は手で制した。
「真樹子には世話になった。そもそも昔の真樹子も同じようなことしてたしね。気にしないでくれ。君たちの一族には、僕はたぶん勝てないようにできてるんだろう」
「……うん?」
酒神の言葉に、夏帆は首を傾げることしばし、
「ああーなるほど、教授はずいぶんとユニークな人なんですね」
「……うん? え?」
しかし酒神としては、自分の何がおかしかったのかわからない。
「だって、祖母がこっちにいたのはもう50年以上昔の話ですよ? 教授がどれだけ若作りでも50以上には見えないです。外国の人は年齢わかりにくいけど……。教授のお父さんかお爺ちゃんの話を聞いたんですよね?」
「あ……ああ、えーっと……真樹子からその辺の事情は聞いてないのかな?」
「酒の神とか名乗ってる変な人だから楽しみに行ってきなさいと言われました」
「ああ、そう……」
あくまで朗らかな夏帆の表情に、酒神はそれ以上何も言えなくなった。
(なるほどね、そういうことか。やってくれるよ本当に、まあ)
東北の片隅で意地悪く笑っているであろう真樹子のことを胸中で罵ると、酒神は小さくため息をついた。
真樹子との関係も、初めの頃はこうだった。
健康的で快活な彼女。
時に意地悪で、酒神をからかっては遊んでいた彼女。
だからこそ自分は彼女に惹かれ、だからこそ彼女は夏帆に余計な先入観を与えなかったのだろう。
(……ま、後半は喧嘩ばかりだったけどな……)
蘇り始めた胸の疼痛を手で押さえながら、酒神は首を振った。
「OKOK、了解だ。さあ、行こう夏帆君。君にやってもらうことはご覧のとおり。いくらでもあるんだ」
促すと、夏帆は「はい!」と間髪入れずに答えた。
「まあでも、今日はゆっくりするといい。長旅で疲れてるだろうし、もうじき日も暮れる」
「いえ、やります。祖母も言ってました。絶対に若い女の子が住めるような状態になっていないだろうから、初日から頑張りなって」
「あー……はい。まったくその通りでございます。じゃあ、やってくれるかい?」
後ろめたい気持ちになって、酒神はぽりぽりと頬をかく。
「はい!」
元気よく返事をすると、夏帆は自分の頬を叩いて気合を入れた。
「やる気! 強気! 元気!」
呪文のように唱えて、ボストンバッグを持ち上げた。
(あちゃあ……)
酒神は内心で頭を抱えた。
(何それ、伝染するのその掛け声……?)
これからの生活を思って、散見されるだろう真樹子との相似点を思って、深い深いため息をついた。
バッカスのお品書き 呑竜 @donryu96
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