36. あおいままくうたか

「あおいままくうたか、あおいままくうたか」


 声はだんだん近づいてくる。

 昨日の晩とおなじように。おとといの晩とおなじように。先週と、いや先月ともおなじように。

 家の真北、裏口のある方向から、庭をぐるっと西のがわから大めぐりして、少し、少しと近づいてくる。


「あおいままくうたか、あおいままくうたか」


 こうして布団にくるまっていてもずるりと背筋に忍び入ってくるような、高く、細く、湿った声が近づいてくる。

 呼んでいるのは何者か。午前一時の夜闇にとおる高い声は、大人よりは子供の声、男よりは女の声という気もするが、大人の男がを搾って気味のわるい裏声をあげて歩いてくる。そんなこともあり得るくらいの声色で、それが一層、こちらの背筋にじくじく厭な不安さを注す。


 いっそこの目で確かめようか。ちょうど今、南東の大きな窓の下、くちなしの樹にさしかかったその姿を。カーテンを細くあけてそうっと庭を見下ろせば、気づかれもせずそいつの姿を目にすることができるだろうが。


「青いままくうたか、青いままくうたか」


 近づくほどに声のひびきはその抑揚をあらわにし、その不気味さははだめ、身にみるように忌まわしい。この上さらに目でこの声の主をとらえるなぞというのは考えただけで悪寒に震える。


 ひと月あまり、この声を毎晩耳にしているというのに、一向に慣れそうにはない。

 声のほうは、一日、一日、迫ってくる。気づいたときには家の北西、風呂場の外に差しかかり、おとといからはついに玄関に立つようになった。

 昨日の晩も玄関前に立っていたが、果たして今夜はどうなのか。


 対策などは講じていない。講じられない。

 どこに持ちこめというのだろうか。除霊だとか霊能なぞに縁などない。

 そもそもこんな不気味な声に脅かされる心当たりなど


「青いまま喰うたか、青いまま喰うたか」


 こんな因縁じみた声がまよい出る余地などないはずの、この住宅地は数年前に造成された埋め立て地なのだ。

 亡霊も、妖怪も、飯も喰らうも全く言われもないはずなのに。


 今や声は玄関口に届きつつある。こんな原因も由来も知れない、不条理なことがあっていいのだろうか。それともあるいは、そういうものをこそ怪異だと呼ぶのだろうか。

 頭のなかを自問自答で埋め尽くし、恐怖をわずかに忘れたその時。


 忌まわしい声が、家の中に響き渡る。

 ―― 入ってきた。

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怪奇短編集 武江成緒 @kamorun2018

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